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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)命をはぐくんだ穀物と山菜

 久万町は県の中南部上浮穴郡の北西に位置している。高原盆地のため、冬は寒冷でしばしば積雪があり、夏は冷涼湿潤で四国の軽井沢とも呼ばれている。県内では比較的年間降水量が多い地域であり、特に主産業の林業では、スギ・ヒノキの良材が生産されている。上畑野川(かみはたのかわ)地区は、久万町の中心部から峠御堂隧道(とうのみどうずいどう)を越え、左折し、仁淀(によど)川の支流である有枝(ありえだ)川をさかのぼったところにある。

 ア 畑作に生きる

 久万町ではかつて焼畑農業を切畑(きりはた)(切替畑)と呼び、季節とともに春焼きはキビ山、夏焼きはソバ山、秋焼きは麦山(むぎやま)とその栽培作物が変化していた。しかし、久万町の北東に位置する上畑野川地区(写真3-2-1参照)は、近接する他の地区と異なり比較的平坦部が多かったため、周辺地域よりも早い時期に焼畑農業から畑作農業中心に移り変わった。そしてそこでは、主として麦やトウキビ(在来のトウモロコシ)、マメなどが栽培されたのである。
 地元で農業を営みながら明杖(あかづえ)生活改善グループの代表者をしている**さん(久万町上畑野川 昭和4年生まれ)に、戦後のくらしについて聞いた。
 「この地域には常畑(じょうばた)や山畑がたくさんあり、そこで終日耕作する姿が随所に見られました。このころの農家はほとんど茅葺(かやぶき)屋根ですが、その屋根を葺(ふ)くための茅を積んだ共同の茅山(かややま)が組合ごとに作られていました。また、田畑に入れる草堆肥(くさたいひ)を作るための肥草(こえくさ)山や、遠くの山あいから立ちのぼる炭焼きの煙も思い出の風景です。当時の食糧としては、乏しい水田で表作の米と裏作の裸麦を作る一方、畑ではトウキビ・タカキビ・小麦・アワ・ジャガイモ・サツマイモ・サトイモなどを多く栽培していました。」
 また、大正期から昭和20年(1945年)ころの農家の食生活について、『久万町誌』には、「農家の食生活は質素そのものであった。主食は米麦半々が上食(じょうしょく)で、まずしい家では、米三、麦七の割合か、四分六であった。また、トウキビの挽(ひき)割りに、米を入れたものも常食としていた。だいたい冬はトウキビ、夏は麦(丸麦)であり、それ以外にも、かゆ、雑炊(ぞうすい)などもたべた。コメの飯は非常に貴重なものであったから、やたらに米のめしはたべなかった。年に数えるほどしかない『紋日(もんぴ)』(正月、祭りなどの特別の行事)だけに米のめしを食べた。この『紋日』には、餅(もち)・団子(だんご)・すし・ごもくめしなどをよくつくった。このため、『紋日』をおとなも子供も楽しみに待っていた。(①)」と食生活の様子が述べられている。
 戦後、地域の食生活がどのように変化したのか、昭和20年(1945年)ころから30年ころのこの地区の様子について、**さんとともに生活改善グループで活動している**さん(久万町上畑野川 昭和8年生まれ)に聞いた。
 「日常の主食は、麦ご飯ととうきびご飯でした。もちろん米も少し入っていましたが、米は供出(きょうしゅつ)(生産農家から政府が半強制的に提供させて買い上げること)して現金に換える唯一の物でしたから、贅沢品(ぜいたくひん)とされ、食卓にはなかなか上がりませんでした。麦とトウキビの混ぜご飯がほとんどで、トウキビだけのときもありました。副食にはサツマイモ、ジャガイモ、カボチャ、ダイコンを煮たり、お汁に入れたりして食べました。」
 また、当時の家族のふれあいについて、「兄弟姉妹が多く、食べる物、着る物、勉強道具や部屋も粗末(そまつ)でした。みんなが裸(はだか)電球一つの明かりで勉強して、相互に教えあい逞(たくま)しく成長しました。喧嘩(けんか)もしましたが、よく助け合いました。家族のまとまりは非常によかったと思います。」と語る。

 イ トウキビ栽培と料理

 トウキビは古くから四国の山間部でも多く栽培されてきた(口絵参照)。『愛媛県の山村』によると、「愛媛県の明治以降の焼畑の作物としては、トウモロコシが最も重要な作物であった。トウモロコシは、温暖多雨な気候と肥沃な土壌を好む作物であり、(中略)地味良好な土壌に恵まれ、夏季に雨の多い四国山地は、適地で、愛媛県の山間地は第二次世界大戦前は北海道(ほっかいどう)、阿蘇(あそ)とともに日本のトウモロコシの三大産地であった。(②)」とある。
 久万地域は、硬粒種(こうりゅうしゅ)のとうきび栽培に適している。成分としては糖分、鉄、リン、カリウムが豊富で高カロリーなので、戦中・戦後の時代は食糧難の切り札として、またその後も麦とともに重要な畑作物として、どの農家も競って栽培に取り組んだ。
 トウキビの栽培やトウキビを使った料理について、**さんに聞いた。
 「ここのトウキビの栽培は、『久万山のトウキビ』と言われるほど有名なものでした。作りやすいのですが、台風など、強風が吹くと倒れやすいので注意しました。4月から種まきや畝(うね)寄せをして生長させ、9月末から順次収穫して、多い時には各家とも土間に山のように積み上げる状態でした。また、皮剥(は)ぎがたいへんで夜なべをよくしたものでした。
 完熟させるため、当時は皮の部分を20~30束にまとめて縛り、毎年50~60連を軒下の稲木(いなぎ)につるし(写真3-2-2参照)、約2か月乾燥させました。次に、トウキビを挽(ひ)く作業に入ります。大きな石臼(いしうす)に遣木(やりぎ)(重い臼を回しやすくするための木)を取りつけ、事前に唐棹(からさお)や唐臼(からうす)(*1)で落としたトウキビのつぶを臼の穴に入れながら、3人の共同作業で回して挽きましたので、重労働でしたが、大人も子どももぐち一つ言わずよく働きました。また、農作業を通しての楽しい思い出もありました。当時の村の青年たちは『結(ゆ)い(*2)』といって忙(いそが)しい家に手伝いによく出かけましたが、特に、若い娘さんがいるところには我も我もと参加者が多くて、来てもらった家はかえって気をつかったということです。その時の出会いが縁となり結婚した人もいたそうです。」
 また、冬から春にはさまざまなとうきび料理が作られていたが、トウキビは、実が軟らかい間は焼いて食べ、少し固くなると炊(た)き、乾燥してさらに固くなると粉にして食べていたのである。
 上畑野川地区の各家庭で作られていた、トウキビを食材とする料理や食事の仕方について、**さんに聞いた。
 「よく食べたのはとうきびご飯です。季節的には、節季(せっき)(暮れ)から田上(たのあ)げ(田植え後)までの間によく食べました。一升(しょう)飯(約1.8ℓ)を炊くのに、米粒大に挽き割った粗(あら)いトウキビを7割程度と、米を3割程度混ぜて炊くのが普通でした。温かいうちは食べやすいのですが、冷えると喉(のど)を通りにくいので、雑炊(ぞうすい)などにして食べることもしばしばでした。はな粉もよく作りました。はな粉は、トウキビの粗い粉を臼で再度挽き、ふるいにかけて細かくして作るのですが、黄色い粉で食べやすいためさまざまな食材として利用しました。はな粉ねり(写真3-2-3参照)は、ダイコン、サトイモ、ゴボウ、ネギなどを薄切りにして混ぜて炊き、一方で味噌(みそ)味のついた汁をよく沸かしておいて、次にこの二つを一つの鍋に入れます。そしてはな粉を少しずつ入れながら混ぜ、どろりとなるまで煮込んだものです。大変おいしく食べました。
 これによく似たものとして、冬の寒い時期に米や麦を少し入れて炊いた雑炊に、はな粉をふりかけて作るはな粉雑炊もあります。また、はな粉団子は、はな粉に塩を少々いれてぬるま湯でねり、丸く平たい団子(だんご)にします。団子を熱湯に入れて浮いてきたら取り出し、きな粉でまぶして食べるのです。冷めたら、網で焼いて食べてもおいしかったです。
 餅は、旧正月にあたる2月に、寒(かん)の餅として約1俵半(約108ℓ、約90kg)ばかり、家族総出で朝から晩までかかっていろいろの種類の餅を搗(つ)きました。もち米のみの餅は贅沢(ぜいたく)でたくさんは作れませんでしたが、もち米と穀類を混ぜたとうきび餅やたかきび餅、こきび餅、あわ餅、よもぎ餅などを多く作りました。その中でも代表的なものはとうきび餅で、ずり割り(粗い)トウキビ3にもち米1の割合で水にかして置き、蒸籠(せいろ)でよく蒸して杵(きね)と臼で搗くのですが、白餅と違いやわらかく搗きあがるまで余分に時間がかかりました。しかし、食べると香ばしく歯ごたえがあり、おいしいと重宝(ちょうほう)がる人も多かったようです。また、5月ころまではにおいがつかないよう桶(おけ)の水をこまめに代えて水餅として保存し食べるのが楽しみでした。」

 ウ 山菜や野菜の恵みと保存

 ワラビやゼンマイ、フキなどの山菜は、山間部の食生活にとって欠かすことのできない食材である。収穫の時期は春から初夏にかけてが多いが、久万町では、戦後の林業振興政策によりスギ、ヒノキの植林がさかんに進められたので、山菜の生育環境が悪くなり、山菜は激減し戦前のように豊富には採(と)れなくなったといわれている。山菜は、野菜に比べると旬(しゅん)が短く鮮度が落ちやすいので、漬物(つけもの)や保存食として長期にわたり利用できるよう工夫していた。
 **さん(久万町上畑野川 大正15年生まれ)と**さんに、山菜の利用や調理方法について聞いた。
 「山菜の中では、ゼンマイ、ワラビ、フキ、ウド、イタンポ(イタドリ)、ツクシをよく食材としました。まず、あく抜きをすることです。ふつうは、塩を入れて茹でて水でさらしますが、特にあくの強いものは、重曹(じゅうそう)や木灰(きばい)(草木・落葉などを焼いて作った灰)を入れてあくを抜きました。しかし、山菜特有の苦味(にがみ)や渋みの風味は、料理に生かすよう工夫しました。
 ゼンマイはワタの部分を取り熱湯で湯がいて日光に干し、半乾きのとき手でもんでやわらかく仕上げます。食べるときは水に戻して再度湯がき、一晩おいて豆腐入りの白和(しらあ)えなどにしました。残りのゼンマイの多くは、乾燥保存して年中使いました。ワラビはあくが強いので重曹を使い、あくを抜いてからワラビ特有の緑色の鮮かな色彩をいかして、おもぶりご飯やばらずしなどに使ったり、ゼンマイと同じく塩漬け保存して長期にわたって使いました。フキは、皮が剥(は)げる程度にさっとゆで、皮をはいで調味料とあわせて炊いたり、佃煮(つくだに)にしたり、塩とぬかで保存しました。イタドリは、採りたてのものを熱湯にさっとくぐらす程度にして皮を剥ぎ、塩漬けで保存しました。食べ方は、塩抜きにして少し調味料を入れて煮るのですが、カリカリと音がする程度が一番おいしかったです。」
 さらに、保存食としてのダイコンについて聞いた。 
 「ダイコンは、青首ダイコンや聖護院(しょうごいん)ダイコンを使います。畑野川地区は冬の寒さが厳しいので、秋ダイコンは早めに収穫しました。また、3月ぐらいまで新鮮で掘りたてのダイコンがいつでも食べれるように、葉を落として1m四方程度の穴の中に土を被(かぶ)せて保存したりもしました。また、切干しだいこんとしては、肉質が繊細でやわらかく、甘味が強いのが向いており、そういったダイコンを選んでだいこん突き器で千切り干しにして、簀子(すのこ)で天日(てんぴ)乾燥して作りました。ホウシコ(つくし)の卵はりにしたり、煮物や味噌汁の具としてもよく利用しました。丸干しだいこんは、ダイコンを丸ごと乾燥させて作り、小さいものは煮物にしたり、大きいものは半干しにしてたくあん漬けにするなど食事には欠かせないものでした。」


*1:唐臼 臼を地に埋め、横木にのせた杵(きね)の一端をふみ、放すと他の端が落ちて臼の中の穀類などをつく装置。だい
  がら・やぐらともいう。
*2:結い 農作業などで互いに労力を交換し助け合うこと。また漁業関係などではこれに類するものとして「モヤイ」という
  言葉がある。

写真3-2-1 田畑と稲木置場

写真3-2-1 田畑と稲木置場

久万町上畑野川。平成15年6月撮影

写真3-2-2 軒先につるしたトウキビ

写真3-2-2 軒先につるしたトウキビ

久万町上畑野川。平成15年10月撮影

写真3-2-3 はな粉ねり

写真3-2-3 はな粉ねり

平成15年10月撮影