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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)ふるさと自慢の味

 小田町は、上浮穴郡西部に位置する山間部の町である。平地が少なく山林が全体の90%を占めており、集落と耕地の多くは山腹の傾斜面にある。寺村(てらむら)地区は小田町の中心部にあり、立石(たていし)地区は、小田川左岸の標高300~400mの山間地域にある。また町の南東部を占める小田深山(みやま)地区は標高800~1,000mの位置にあり、4,500haに及ぶ国有林の森林地帯でもある。産業としては、スギ・ヒノキの林業、シイタケ・葉タバコ・クリの栽培が盛んである。

 ア 山里の生活

 小田町全域にわたり、昭和20年(1945年)ころから30年ころの住民の生業(せいぎょう)(暮らしを立てるための職業)は農業と林業が中心であった。谷底のわずかな水田では米の収穫はあまり期待できず、もっぱら畑作の麦とトウキビ、サツマイモが中心であった。農業を営む**さん(小田町立石 昭和6年生まれ)と**さん(小田町寺村 大正13年生まれ)に、当時の農作業や食生活、家庭の状況などについて聞いた。
 **さんは次のように語る。
 「農作物は、主食や味噌醸造(じょうぞう)の必要から大麦(裸麦)やうどんの食材となる小麦を多く作りました。段畑ではトウキビやサツマイモも作っていました。また、山間地域の特性を生かしたヤマイモやツクネイモ、クリも作りましたが、クリは虫がつきやすく手入れが大変でした。しかし、出荷する際に『中山クリ』の名称で出したので比較的高く売れました。山菜は、ワラビとゼンマイ・ツクシ・タケノコ・フキを採取しました。また、山菜や野菜、果実を生かした保存食や漬物を、今でも自家製として大切に作り続けています。それらは、ラッキョウ漬け、梅干し、味噌、どくだみ茶、かりん酒、またたび酒、びわ酒などで、いずれも漢方(かんぽう)薬や栄養・滋養補給の役割を果たして健康に良いからです。
 当時の農家の食生活は質素でした。わが家でも、主食として、麦を多く入れた米との混合飯を食べました。しかし、麦を多く食べたことで、小田の住民には脚気(かっけ)などの病人は皆無だったといわれています。また、とうきび飯もよく食べましたが、特にダイコン、ニンジン、ハクサイなどの野菜をたっぷり入れて作るはな粉雑炊は冬のご馳走(ちそう)でした。
 副食としては野菜を自家栽培し、ダイコン、ゴボウ、ニンジン、ハクサイ、ネギ、サトイモを使った煮物を多く作りました。また、漬物・保存食は、ダイコンのたくあん漬けや切干しが多く、山菜のワラビ、ゼンマイはご飯に色あいをつけました。おやつで懐かしいのは、ジャガイモのくずを煮て味噌をまぶして、おやつとしておいしく食べたことです。」
 **さんは家庭生活について、「当時の子どもは、よく農作業を手伝いました。そのため、学校は5月の麦休み、10月の田休みがともに3日間程度あり、その期間はどの家庭も親子が協力して汗水流しました。それが終わると子どもたちを精一杯慰労してやりました。ちらしずしやうどん、かしわ餅、おはぎを作り秋祭りなどの祝い事と同じご馳走が出て、子どもたちは喜んだものでした。また、農作業を通して、親子が助け合い、お互いに相手を思いやる生活習慣がどの家庭でも作られたことが、現在の小田の人々に心のぬくもりが受け継がれてきた理由かもしれません。
 また、当時は交通の便が悪いため、寺村や立石地区からは、地区外へ出ることの少ない生活環境でした。しかし、農作業や年中行事を通してお互いの交流が深まり、地域住民の強い絆(きずな)が生まれたことは地元にとって貴重な財産となりました。」と語る。

 イ なごやかな味

 小田名物「たらいうどん」について、『小田町誌』は次のような江戸時代の話を伝えている。その昔、大洲城主が、小田深山の一軒家で食事を所望(しょもう)された際、大きなはんぼにお湯をいっぱい入れ、うどんをおよがせて差し出したところ大そう喜ばれたという。その名を“小田の手打”と聞いて帰った城主は、小田深山のうどんの味が忘れられず、城に帰られた後もおなかがすくと、「手打ちじゃ、手打ちじゃ」といって作らせたという(③)。
 一方『愛媛県百科大事典』は、「小田町寺村には、平清盛の娘登喜姫(ときひめ)が源氏の追跡を逃れて隠れ住んだという伝説のある清盛寺(せいじょうじ)があり、湯だめうどんの食習慣を平家の落人伝説に結びつける人もある。(④)」と記している。
 たらいうどんは、もともと、正月以外のハレの日、例えば、結婚式、祭りなど特別の時の寄り合いには必ず振る舞われたもので、縁起物としての「太く、長く、たくましく」の願いとも関係しているようである。作りやすく食べやすいので、やがて、日常食として家庭の食卓にのぼるようになっていたといわれている。
 たらいうどんについて、**さんに聞いた。
 「水田の少ないこの土地では、畑作の小麦は大切な食べ物でした。うどんは、漂白(ひょうはく)(精白)しない挽(ひ)きたての地粉(ぢふん)を使うのがよく、黒ずんでいるものの栄養的にも優れているのでそれのみを使いました。すべて手打ちで、地粉に塩とこね水をまぜてしっかりこねる、時にはこねた生地(きじ)を布袋に入れて、粘りを出すため足で踏むこともありました。できあがった生地を麺棒(めんぼう)で伸ばして包丁(ほうちょう)で一定の幅と長さに切り、大釜で少し柔らかめにゆでて作ります。
 おいしく食べるためのこつは、だしと薬味(やくみ)(食物に添えて風味を増す香辛料)です。各家庭独特の作り方がありますが、この地域では必ずダイズでだしを取りました。また、薬味はシイタケ、コンブ、いりこ、ネギ、ショウガ、ユズ、ゴマ、みりんなどを好みによって調合し、独特の風味をかもし出しました。うどんと汁を一緒にすすりこむように音を立てて飲み込むのが上手な食べかただといわれる人もいますが、私はのどごしを味わいながらも普通に噛(か)みながら食べました。また、湯ざめを防ぐため、飯宝(はんぼ)(おすしなどを作るときに用いる器)に入れたときもありましたが、後にうどんがたくさん入り、湯がこぼれないように広くて底を深くした丸いたらいを家に備(そな)えるようにしました。やがてたらいなどを作る専門店が地元にもできたので、各家庭では必ず一つ以上かまえるようになりました。たらいを囲むことの良さは、丸く円座(えんざ)でお互いがなごやかに顔を合わせることになり、心が打ち解(と)けることかもしれません。
 たらいの大きさは家庭でさまざまですが、大きいものは直径1m、深さ30cmほどもあるそうです。普通は直径30~40cm、深さ10~20cmぐらいです。また、たらいの材質はスギの木が多いようですが、わが家では香りの良さや軽くて使いやすいのでキリの木も使っています。うどんは素朴で淡白、あっさりしていて、大人も子どもも飽きることがありません。たらいうどんは現在まで食べ続けられている郷土自慢の伝統食だと思います。」

 ウ 渓流魚を生かして

 アメノウオの土手焼きは、昔から小田深山地区に住んでいた“木地師(きじし)”が調理したことに由来する。木地師とは木地屋ともいわれ、切り出した木で盆・椀(わん)・杓(しゃく)などの木工品を作って生計(せいけい)を立てていた人で、県下でも、ケヤキ・クワ・クリ・ブナなどの原木が多い上浮穴郡内に多く住んでいたといわれている。木地師の人々が仕事の合間に、渓谷(けいこく)で釣ったアメノウオや山菜を平らな石の上にのせて、味噌で囲み、煮込んだのがアメノウオの土手焼きの始まりとされている。戦後木地師はいなくなったが、その後、山で林業に携(たずさ)わる人たちが継承して寒い時期によく料理して食べていたとされる。やがて各家庭で、地元産の麦味噌とアメノウオを利用して独特の郷土料理として楽しむようになった。
 アメノウオは『食材図典』によると、「アマゴと同名で、四国と九州北部の河川上流にはよく生息している。生後約2年で成熟する。秋に砂礫(されき)底に産卵し、雄(おす)が生き残る。朱色(しゅいろ)点がはっきりしているのが特徴である。(⑤)」とある。
 この生息条件に適する小田深山渓谷(写真3-2-4参照)を流れる仁淀川の支流黒川(くろかわ)は、清流で成長すると大きいもので20~30cmぐらいになるアメノウオが多く生息し、釣人を楽しませたといわれている。地元で長年アメノウオを養殖している**さん(小田町中川 昭和15年生まれ)に、アメノウオの生息状況やそれを使った料理について聞いた。
 「アメノウオは、昔ほどはいませんが、今でもとれますよ。ただし、10月から翌年の1月末までは禁漁(きんりょう)期間です。小田深山はブナやケヤキ・カエデ・クヌギなどの広葉樹の宝庫で、川の水はきれいで、水量も豊かで、昭和30年代までは各家庭の食卓にしばしばのるほどとれていたそうです。しかし、戦後まもなくスギやヒノキの植林政策のため、ブナやケヤキが大量に伐採されてからは、川は汚れやすくなり、40年代以後アメノウオは激減しました。そこで、町の指導で稚魚(ちぎょ)を放流したり養殖することが始まり、わが家でも夫が養殖業を始めました。
 アメノウオの料理としては、あっさりした塩焼き、少し焼いてから米と炊きあげるあめのうお飯、甘く炊き上げるかんろ煮(あめだき)、味噌で味をつけるさつま汁などがあります。
 また、昭和20~30年代までは、小田深山地区で林業に携わる人たちが昼食の時、石を熱く焼いて、その上に味噌と山菜やイモ程度の簡単な食材を混ぜて食べていたようです。家庭でも、フライパンに味噌を薄く敷き、アメノウオとナスやニンジンなどの野菜を煮込む、簡単な料理を作っていました。そうした中から味噌の風味がよいのでなんとか長く味噌の味を残して食べられないものかと試行錯誤して生まれたのが、味噌でドーナツ状の土手を作り、鉄板焼きするアメノウオの土手焼き(写真3-2-5参照)なのです。」
 **さんの後継者としてともに新しい試みに挑戦している**さん(小田町中川 昭和32年生まれ)にも聞いた。
 「熱く焼いた鉄板の上に麦味噌でドーナツの形に丸く土手を作り、アメノウオをはじめ地元の山菜・シイタケ・こんにゃく・ナス・タマネギ・ニンジン・豆腐を入れて、煮詰めていきます。やがて、溶(と)け出てくる麦味噌の焼けた味とこれらの食材がうまく混ざっておいしく食べられます。特に小田町で作られる麦味噌が、アメノウオと一番合うと思います。土手づくりで注意する点は、熱で土手がくずれないように、味噌を高さ、幅とも厚めにして分量を多くするのがこつで、そうしておくと溶けるのに時間がかかるため、何回も食材を入れてたくさんの人が楽しむことができます。土手焼きの残り味噌を味噌汁などにするのもおいしい食べ方です。」
 アメノウオ以外にも、寒気厳しい深山の冬によく食べられていたものに、鶏肉や野菜をふんだんに盛り込んだ煮込みがあり、これを深山鍋と呼んでいる。このほか天然のワサビを使った三杯酢(さんばいず)漬けや天然のうど漬けがある。

写真3-2-4 小田深山渓谷

写真3-2-4 小田深山渓谷

小田町深山。平成15年10月撮影

写真3-2-5 アメノウオの土手焼きと菌床シイタケ

写真3-2-5 アメノウオの土手焼きと菌床シイタケ

小田町深山。平成15年10月撮影