データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)十五万石伝統の味

 松山市は、南に四国山地、西には瀬戸内海を望む松山平野に位置する。平野の南部には重信川が流れ、その支流である石手(いして)川流域は沖積(ちゅうせき)平野を形成している。松山市は、古くは慶長(けいちょう)5年(1603年)から加藤嘉明(よしあき)、寛永(かんえい)5年(1628年)から蒲生忠知(がもうただちか)の治世を受けた後、寛永12年(1635年)松平定行(さだゆき)が十五万石の藩主となり、本格的に建設が始まり生まれた城下町である(⑦)。
 松山市高井(たかい)町は松山平野の南部に位置し、米麦や草花・野菜の生産を中心とした地域である。一方、松山市東長戸(ながと)地区は松山平野の北部に位置し、都市化の著しい地域である。

 ア 戦後の農村

 昭和20年(1945年)ころから30年ころの高井町は、米作と麦作の肥沃(ひよく)な農村地帯であった。当時のくらしや食生活について、長年にわたり松山市農家生活改善グループ連絡協議会の指導者であった**さん(松山市高井町 大正15年生まれ)に聞いた。
 「かつての高井町は水田と畑作の農村地帯で、米と麦の二毛作の生活でした。畑ではサツマイモを多く栽培しましたし、ダイコンやニンジン、ソラマメなどもこまめに作りました。主食は米と麦の混合飯で、副食はダイコンを始めとする野菜の煮付けが多く、すべて自給自足でした。おやつとして小麦粉・米粉・もち米の三種類を混ぜたかしわ餅を、節句(せっく)を初めとする季節の行事ごとに作ったので、子どもたちは大変喜びました。かしわ餅を包む時には、カシワやカキの葉を使い、それらの木も家に植えていました。
 また、地域の氏神(うじがみ)様である高井八幡(はちまん)神社の秋祭りには、親戚(しんせき)や親しい仲間を呼んだり呼ばれたりして交流を深め、日ごろは口にできないご馳走を作って食卓を囲んだ楽しい思い出があります。まず、「口取(くちと)り(祝膳(いわいぜん)で吸い物と共に先に出す取肴(とりさかな))」といって大きいお皿にかまぼこ、レンコン、サツマイモの天ぷら、ゆで卵、羊羹(ようかん)などを盛り付けて、なごやかに食べ始めます。続いて旬(しゅん)の野菜を使ったちらしずしやまきずし、刺身、結びこんぶ・サトイモ・シイタケ・こんにゃくなどの煮物、タケノコやエンドウマメにサンショウをすり入れた木の芽和(あ)えを出し、本格的に話が盛り上がります。お土産(みやげ)には、お餅とちらしずしを必ずつけました。現在は、松山祭に統一されてこの祭りがなくなり、交流がなくなって寂しくなりました。当時の生活は裕福ではなかったけれど、自給自足で苦労して作った食材をあの手この手と工夫して料理を作り、皆でおいしく食べたものでした。」
 また、農家の**さん(松山市東長戸 大正2年生まれ)と嫁いできた**さん(昭和12年生まれ)に当時の東長戸の食生活について聞いた。
 「主食は米と麦、副食はサツマイモと野菜程度で、保存食は味噌程度でした。そうめんは小麦粉に塩と水をこねた種に植物油を塗り、細く引きのばしてから天日に干すという難しい製造工程があるので家庭では作ることはできませんでしたので、時々買って食べました。しかし、うどんは小麦粉に塩と水を加えてすぐ作れるのでよく食べました。また、おやつとして、あられと焼き米を凝煎飴(ぎょうせんあめ)(水飴)で包んで巻いて食べたのが懐かしい思い出です。地元の角田(すみだ)池、太郎丸池、安城寺(あんじょうじ)池の池干しの時にとれるフナやコイ、ナマズを食べるのも年1回の楽しみでした。
 農作業で一番忙しい田起こしの時は、ウシに田鋤(たすき)を引かせながらの作業が長く続きます。この期間は、一日の食事を、朝、昼、お茶、晩の4回取りました。田んぼに出かけるときは、弁当行李(こうり)というタケやヤナギで編んだ弁当箱に、たくさんご飯をつめて行きました。この行李は、通気性が良いので飯がすえるのを防ぐ効果があり、昔からの生活の知恵だったと思います。」

 イ しょうゆ味の魅力

 松山の名物料理の一つであるしょうゆ飯は、芳(こうば)しい風味があり、あっさりした飽きがこないしょうゆ味で知られている。しょうゆ飯に詳しい、**さん(松山市千舟町 大正13年生まれ)、**さん(昭和25年生まれ)親子に聞いた。
 「薄口(うすくち)しょうゆを使い、ニンジンやゴボウなどの具を多くして垢(あか)抜けした色でつくる炊き込み飯と違い、しょうゆ飯は、濃口(こいくち)しょうゆで、素朴なひなびた色をだし具を少なくして作ります。具が少ないので腐りにくく食べやすいので、いまだに私はしょうゆ飯と呼んでいます。しょうゆ飯は“おふくろの味”だと思います。終戦後の食糧難の時代は米の飯はめったに食べられず麦やサツマイモが中心でおかずもあまりありませんでした。そのような中で、おふくろがなんとかして子どもに腹一杯のご飯を食べさせたいと知恵をしぼり、おかずが少なくても、濃口しょうゆで味付けしてたくさん飯を食べさせてくれたのがよく分ります。特に、いりこを入れて作ってくれたしょうゆ味のおにぎりのおいしさは、いまだに忘れられません。また、簡単な弁当として作れたので野良(のら)仕事(田畑の農作業)にも便利がよかったのでしょう。」
 **さんにもしょうゆ飯について同様に聞いた。
 「しょうゆ飯(写真3-2-8参照)は、季節ごとの食材を取り入れて簡単に作れるのでよく日常食として作りました。ニンジン・ゴボウ・サトイモ・こんにゃく・シイタケ・松山揚(あ)げなどを、千切りにして、洗った米や麦と混ぜて炊きました。誰でも食べやすく、特におにぎりは人気があり、お茶と合わせて十分に一食分の値打ちがありました。
 また、おもぶりご飯は、季節の野菜に、ちくわや切りこんぶなど海の幸を加えて、しょうゆと砂糖で味をつけて炊きあげた具を米や麦のご飯に混ぜて作りました。」
 また、しょうゆ餅については、『愛媛県百科大事典』によると「江戸時代に松山藩祖久松(松平)定勝が京都伏見にいたとき、旧暦3月の節句に作って、家臣に配りその繁栄を祈ったことに由来する。その後、松山藩武家屋敷で雛祭(ひなまつ)り、桃の節句には作ることが定着した。(⑧)」とあるが、**さんは、おやつの茶菓子としてもよく作ったという。
 「しょうゆ餅の作り方は、白玉粉(しらたまこ)(もち米の粉)に上新粉(じょうしんこ)(うるち米の粉)・砂糖・しょうゆ・塩を入れて蒸し、蒸しあがったら取り出し、たまり醬油(小麦を使わず大豆だけを原料とした醬油)とショウガのしぼり汁を加え、水で溶(と)いたカタクリを手につけながらこねます。表面に節目の模様をつけたりしておもしろく工夫しましたので食欲旺盛(おうせい)な4人の男の子たちは大変喜びました。また、子どものみならず家族の語らい、農作業時の茶の子、来客時の茶菓子として年中いつでも手軽に作りました。」

 ウ なつかしのおやつ・菓子・保存食

 **さんの語りは続く。
 「焼き米は、田植えのころに作ります。古米(こまい)であれば、籾(もみ)を籠(かご)に入れ約一週間水にかして置き、その後で水を十分に切ってホウロク(素焼(すや)きの浅い土鍋(どなべ))で焦(こ)げるほど炒(い)り、手もみなど工夫して籾殻(もみがら)をのけてできあがりです。芳しく、熱いお茶にいれてもよし、よくかんで食べてもよしで、大変おいしいのでたびたび作りました。1斗(約18ℓ)より多く作る場合は、業者に頼んで精米機(せいまいき)でつきました。
 また、はちの巣というおやつもありました。小麦粉と重曹(じゅうそう)をふるいにかけておき、フライパンに油を引き、混ぜあわした粉に砂糖を少々加え水で練りそれをフライパンに落として焼くと、小さな穴がプツプツとあきます。子どもたちは“はちの巣、はちの巣”といって大変喜んで食べたものでした。それ以来わが家では、はちの巣のおやつと呼びました。あんころ餅やお焼き、焼餅などもたびたび作りました。あんころもちは、米の粉を熱湯で練り、団子を作り、熱湯に入れる。団子が浮きあがったら取り出して、当時はソラマメかアズキのあんこをすりつけて完成させました。お焼きは、熱湯で練った米の粉にあんこを入れて丸め、薄くのばして鉄板で焼いたもので、小麦と砂糖を混ぜた粉を練ってのばして、あんこなど入れずに焼いたのがやき餅でした。
 大変きれいで食べやすく、子どもにとても人気があったのが、りんまんでした。りんまんは、4月の花見や雛祭(ひなまつ)りの祝い事に作っていたのですが、だんだんと日常化していきました。材料は、米の粉・あんこ・塩・もち米、色粉は赤・緑・黄色の三色を使うのが原則で、米粉(こめこ)にお湯を入れ、耳たぶくらいの硬さによくこねて蒸し、丸餅くらいの大きさにちぎり、あんを入れて丸めます。表面に赤色・緑色・黄色に染めたもち米の粒を飾り、再度15分程度蒸して完成させました。三色の米粒が美しく、子どもたちは喜びました。りんまんの名称の由来については、江戸時代の中ころ、中国または李氏朝鮮の『林(りん)』という人が広めたといわれ、『林さんのまんじゅう』からきていると伝承されていますが、歴史的事実なのかどうかはよくわかりません。
 保存食の漬け物は自家製でよく作りました。緋(ひ)のかぶ漬け(写真3-2-9参照)は、『伊予節(いよぶし)』の歌詞の中にも、『伊予の名物名所 三津(みつ)の朝市道後の湯 薄墨(うすずみ)桜や緋のかぶら』と歌われている、美しい赤紫色に染まるカブです。原種はもともと県外産といわれ、江戸時代に現在の滋賀県蒲生(がもう)郡あたりから取り寄せて栽培したのが始まりと聞いています。秋蒔(ま)きカブで9月に植え付け、11月末に収穫してすぐに漬けます。カブをよく洗い、2~3日水につけてあくを抜きます。それを輪切りか半分に切って木の桶(おけ)に重石(おもし)をのせ、塩漬けして、水があがるまで置きます。その後水を抜いてだいだい酢を入れて本漬(ほんづ)けにします。だいだい酢を使うとカブの芯(しん)まで鮮紅色(せんこうしょく)に染まり、正月には欠かせない華(はな)やかな縁起物として年末までにはたいてい準備します。4月ころまで食卓にのぼります。緋のかぶ漬以外にも青首ダイコンで作るたくあん漬けやはりはり漬け、ラッキョウの甘酢(あまず)漬けも保存食としてたくさん作りました。」

写真3-2-8 しょうゆ飯

写真3-2-8 しょうゆ飯

平成15年12月撮影

写真3-2-9 緋のカブ

写真3-2-9 緋のカブ

松山市高井町。平成15年11月撮影