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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)季節の食

 ア 季節の食と祭りの料理
  
 東宇和郡宇和町明石(あげいし)地区は、宇和盆地東部に位置し近くに四国霊場八十八ヶ所第43番明石寺(めいせきじ)があり地名もこの明石寺からによるものであろうといわれている地域である。その明石地区在住で健康教室のメンバーである**さん(昭和3年生まれ)と**さん(昭和5年生まれ)、**さん(昭和10年生まれ)に宇和町明石の季節の食について聞いた。
 「この地域では、肉とか海の魚などは平素ほとんど口にすることはありませんでした。野菜は自給自足が基本でした。主食は、太平洋戦争終戦後4、5年は丸麦でした。
 3月から5月にかけては、ワラビやゼンマイを採って来て食べました。ワラビはまずあくを抜かなくてはなりませんでした。ワラビを入れた木の桶(おけ)に焼却灰をふりかけて、そこに熱湯を入れると、ワラビが鮮やかな緑色になります。それを一晩ぐらいそのまま置いて、水でさらしてから食材とします。
 ゼンマイを食べられるようにするのはもっと難しいです。ゼンマイは先端についているワタをきれいに取って、ゆでます。それを干して、乾燥した後もみます。干すのは天気のよいときであれば2時間程度がよいと思います。干してもむ作業を4回から5回繰り返します。お茶の葉をもむのとおなじ要領です。ゼンマイは乾燥したものをお湯で戻し、一晩ほど置いてから食べます。他におかずがないから、さあこれを食べるかとはいきません。一晩ほど置かないとあくも抜けないし固くて食べられないのです。
 この時期はツクシもありますが、これはたくさん採れればはかま部分をのけるのが大変で、忙しいこの地区の人たちはあまりつくし採りはやらなかったと思います。他所(よそ)から遊びがてらに採りに来る人が多かったと思います。ヨモギは餅やかしわ餅に入れるのに使うだけで、毎日の食材にはなりませんでした。灰を混ぜてあく抜きして、洗わずにおにぎり状にして乾燥させて使っていました。炭酸を入れてゆがいてから、さらして乾燥させることもありました。
 タケノコは米ぬかを入れてゆがいてすぐ食材として使うものと、乾燥させて保存食としたものと両方ありました。フキは梅干しを入れて、炊きつめると保存食にもなりました。そのほか、春エンドウ、ダイコン、ホウレンソウは毎日の食材としました。
 6月から8月にかけては、クジュウナ、カラシナをよく使っていました。ナス、キュウリは塩もみで食べる以外は、味噌(みそ)漬けなどにしていました。それにナスは煮付けにしたり、焼きなすにしたり、その時々でさまざまに料理していました。味噌漬けは保存食になりました。昔は家族の人数が多かったので総じて煮物が多かったと思います。一度に多種類のおかずはありませんでしたから、野菜の煮物を丼(どんぶり)に盛っておかずにすることが多かったと思います。
 大きないりこを裂いて炊いたり、夏場はいりこさつまも多かったと思います。冷蔵庫のない時代ですから、食材を井戸に吊るして保存していました。炊くか、焼くか、塩もみして生で食べるか、漬物にするかといったところが夏の定番でした。
 9月から11月にかけては、米の収穫期で忙しい時期でした。9月中旬ころから収穫したトウキビは焼いて食べるのがほとんどでした。サツマイモはひがしやま(*1)(写真3-3-9参照)に、ダイズは豆腐の原料や、煮豆にして保存食にしました。焼きとうきび、ひがしやまなどは代表的なおやつでした。
 12月から2月にかけては、切り干しだいこん、たくあん漬け、こんにゃく、豆腐作りなどの加工を行い、保存食作りのための食品作りに忙しい時期でした。ダイコンを漬物にするときにはダイコンに甘味をつけるために渋柿の皮をはいで、一緒に漬けていました。
 宇和盆地は冬寒いので、冬の雑炊は普段のご馳走の一つでした。ご馳走といっても中身は味噌味で、子イモ・ネギ・ダイコンや豆腐が入っていればいいほうでした。私が覚えている雑炊は白米ですが、野菜などをいっぱい入れて具を増やしていました。また、雑炊の中に小麦粉を練って小さく団子状にちぎって入れていました。その団子をいちび団子と呼んでいました。今でいうすいとんのことです。
 12月末に餅をつきますが、それと同じころダイズを臼で挽いて多くの豆腐を作っていたのが記憶に残っています。豆腐を保存するために度々水を替えていました。冬だからかなり長持ちしましたが最後はすぼ豆腐(豆腐を簀巻(すま)きにして煮つめたもの)にして炊いていました。これはお祭りなどにも必ず作っていました。
 毎月の1日と15日は多くの農家が農作業を休む日としていて、白米を炊いて温かいご飯を神棚と仏様に上げて感謝の意を表していました。そのときは家族全員が白米を食べることができました。
 お祭りのときの料理は、餅と鉢盛(はちもり)料理でした。レンコン・くずし・サトイモ・丸ずしを盛り込んだ盛り込み料理、お刺身、酢漬け、みがらし(フカの湯ざらし)、めんかけ(鯛そうめん)、うどんの場合もありますが、これが祭りの定番でした。ご飯はちらしずしでした。巻きずしだけを鉢に盛ったり、おこわを盛り付けて出したりしておくと、一々ご飯の世話をしなくてよいので鉢盛料理は便利でした。楽しみがあまりない時代でしたので、お祭りの料理を作るのは楽しみの一つでした。」

 イ 永長のなまずがゆ

 宇和町永長(ながおさ)地区は国道56号と県道宇和三瓶線(30号)の分岐点に広がる集落で、宇和盆地の中央部、宇和川と宇和川支流深(ふ)ヶ川との合流点付近に広がり、米麦を中心に野菜栽培などが盛んである。この地域は沼沢(しょうたく)地帯であったが、開拓が進められ現在では宇和町の代表的な水田地帯となった。
 秋の収穫前、なまずがゆを食べる食習慣は、永長地区の郷土料理として知られていた。
 永長地区に生まれ、なまずがゆの復活をみてきた**さん(宇和町永長 昭和5年生まれ)になまずがゆについて聞いた。
 「なまずがゆは宇和町永長に古くから伝わる庶民の食の一つだったと思います。この地域は、米作地帯なのでイネが実り水が不要になると、池替えといって水を抜いて池を干してしまいます。今の米作りは中干しをして水を抜いてしまうので、ナマズの稚魚が昔のように育たなくなりました。溜池(ためいけ)に入ったのがかろうじて生き残っているくらいで、小川も改修されてナマズや川魚が育つ環境がなくなりました。
 宇和町永長は、宇和町石城(いわき)地区からの深ヶ川と、多田(ただ)・中川方面からの宇和川との合流点に位置し、それらの川と東池(写真3-3-10参照)・西池などの溜池によって水を得て、米の栽培が盛んになった地域です。ここの溜池は泥が深く、ナマズの成育には絶好の場所であったと思います。米の取り入れの近づく秋には、水が不要になるので溜池の水を放流するときに、たくさんのナマズやコイ、フナがとれていました。それで、コイの刺身、フナの酢づけなどを作っていましたが、せっかくたくさんとれたナマズを何とかしようとナマズを炊き込んだなまずがゆが始まったと聞いています。タマネギ、ネギ、ゴボウなどのほか、仕上げ前にニラやシュンギクを加え、さらにナマズの匂いを消すためにショウガの千切りやおろしたものを入れ、味噌で味をつけ、時にはうどんを入れたり、餅を入れました。
 この地域の人々にとって、稲刈りは田植えとともに1年で最も大きな農作業です。過酷な仕事で、体力の消耗も激しかったので、手近に得られるナマズを貴重なたんぱく源として、あのぬるぬるしたナマズを食べれば元気が出るのではないかとなまず料理が定着したものと思われます。この地域は海から遠いので、太平洋戦争前は自由に海の魚を手に入れることができませんでした。なまずがゆは、その過酷な農作業に備えて、栄養をとり精をつけようとした昔の人々の生活の知恵であったと思います。
 捕獲したナマズを生簀(いけす)に入れ、泥を吐かすこともありますが、その日の内に料理方(包丁方、出刃(でば)方)が内臓を取り出し、ぐらぐらお湯のわいている釜の中にいれ、湯の表面に油が浮いてきたころに釜から出し、身をほぐしてまた釜に戻します。身をほぐすときにお玉を使うと骨から身をうまくほぐすことができます。食べる人数に応じて米・タマネギ・ゴボウ・ネギ・ニラ・ショウガ・味噌などを釜に加えます。
 昭和43年(1968年)3月に、永長地区出身の宮崎義則氏を宇和町立病院の院長に迎えました。院長は、私の父とは幼馴染(おさななじみ)でしたので、親しく交流を深めていました。あるとき昔の思い出話の中でなまずがゆが話題になり、何とか復活させようやという話になったそうです。その時まで、なまずがゆは永長では忘れられていた伝統の食事でした。そこで、私の家の庭で100人以上の人を呼んで作りました。まあこれは準備などが大変でした。
 これが話題になり、宇和町の郷土料理として広めようと地元の料理屋さんがなまずがゆを始めました。東池・西池は埋め立てられる予定なので、この地域でとれたナマズを使ったなまずがゆは見られなくなり残念だと思います。」


*1:ひがしやま さつまいもを蒸して薄く切って干したもの。何日かするとあめ色になる。そのまま食べても、ちょっと焼い
  て食べてもおいしい。

写真3-3-9 ひがしやまの乾燥

写真3-3-9 ひがしやまの乾燥

日吉村父野川。平成15年12月撮影

写真3-3-10 宇和町永長地区の溜池・東池

写真3-3-10 宇和町永長地区の溜池・東池

平成15年8月撮影