データベース『えひめの記憶』

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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(3)味の引き立て役

 ア 味の総元締め-塩-

 (ア)塩の用途

 かつて「買うものは塩ばかり」といわれたように、植物性食物中心の食生活をしていたわが国では、特に塩分の補給は重要であった。作物の収穫に恵まれ自給自足の可能な山村でも塩は欠かせないものであったが、その入手は容易ではなかった。近藤日出男さんによると、塩の入手困難なところでは、イノシシのぬた場(獣が泥をあびる場所)の粘土層に含まれる塩分やカリウム塩を含んだウルシ科のヌルデの果実を塩の代用にしたり、塩の道を経て運ばれてくる塩をいろいろなルートで購入していたということである。山間部の久万町では、物を大切にする例えとして、「塩を切らすと貧乏になる」といい、また、他人に物を借りてそのままにしておくことを戒めて、「塩を借りておくとお産が重い」とも言い伝えている(㉑)。越智郡の島しょ部・上浦町でも「塩を切らすな」とか、「塩を切らしたら貧乏する」と語り伝えている。「親の恩はおくっても、水の恩はおくられぬ」(「おくる」は「つぐなう」意)になぞらえて、「親の恩はおくっても塩の恩はおくられぬ」とか、「塩は小事万事の宝」などの言葉もある。
 このように塩はわれわれにとって生理上欠くことができないうえに、味覚の点からも鹹味(かんみ)(塩辛い味)をもたらす重要な調味料であった。さらに塩の持つ浸透性また防腐性が、食品加工用として醬油・味噌の醸造、くずし(かまぼこなどの練製品)や魚醬(ぎょしょう)などの生産に、食品保存用として野菜類などの漬物用に、また魚介類・獣肉などの塩蔵にと、各種食料の保存・貯蔵に利用され、冷蔵庫の普及しない時代の食料保存の大半は塩によったともいわれる。
 なお、塩の持つ属性(そのものの本来持つ性質)からか、塩に伴う習俗も多い。その典型的なものが、不浄・不吉を祓(はら)う意図で使われてきたものである。祭祀(さいし)に対して祭場・神棚(かみだな)・祭具を塩で浄(きよ)め、これに携わる人々もまた自ら塩(または海水)で身を浄め、葬送に際しては死のけがれを祓うのに塩を用いて浄め、相撲や闘牛に際してもまた塩をもって祓い、住居に関しても上棟の際や家具・炉竃(ろかまど)・井戸などを塩で祓い浄める。なお、水商売の家などでは店頭に盛塩をするなどと、県下各地でも祓いに塩を用いる事例は多い。

 (イ)くらしの中の塩

 塩は人間の生活に欠かせないため、四方を海で囲まれた日本では、古くから海水を利用した製塩が行われてきた。近世に入って本格的な入浜式塩田が発達していくに伴い、潮の干満の差が大きく(約2~3m、日本海側では0.2m、太平洋では1~1.5m)、降雨量が少ないという好条件に恵まれた瀬戸内海地方は、製塩業の中心となり、海岸部各地の主要産業となっていた。県内でも、波止浜(はしはま)塩田(現今治市)・多喜浜(たきはま)塩田(現新居浜市)など数多くの塩田が存在した。この塩を求めて、大坂(現大阪)の方からは船に雑貨を積んで交換に、また山村からは木炭や木材を運んで交換に来たといわれる。このように生活に欠かせない塩であるため、県内でも多様な塩の道が自然にできていった。川之江から笹(ささ)ヶ峰を経て土佐に至る山間の道、松山から三坂(みさか)峠を経て久万高原から土佐に至る道、宇和島から鬼北(きほく)盆地・九十九曲(くじゅうくまがり)峠を経て土佐の梼原(ゆすはら)に至る道などである。
 城川町魚成地区の**さんと**さん(昭和10年生まれ)によると、「塩やいりこなどの乾物は物々交換で手に入れていました。この辺りは山を隔てて広見町と接する焼畑地帯でワラビやゼンマイがよく採れました。焼畑には人によって踏み固められた峠道ができていて、(**さんの)祖父や地元の人々は、山で採れた山菜や自家で生産された農産物を峠まで持っていきます。峠には宇和島や吉田方面から塩や乾物などを持った行商人が来ていて、それを相互に売買または物々交換していました。行商人は天秤棒(てんびんぼう)(両端に荷物を掛けて中央部を肩にあて、担ぎ運ぶのに用いる棒)の両端に吊るしたはんかごに品物を入れてきますので、持参してくる量に限度があり、塩もかます(わらむしろを二つに折り、左右両端を縄で綴(つづ)った袋)で購入するほどの量ではありませんでした。その峠道も戦後の植林で自然に消えていきました。」ということである。
 『一本松町史』によると、昭和20年(1945年)前後の極度な物資欠乏の時代、食料はもとより衣料も、砂糖も塩も酒も厳重な統制がしかれていたが、南宇和郡内の米どころであった一本松町には他町村から連日のように米や他の食料の買い出し人が入り込んでいた。農家は肥料や衣類・塩・砂糖など生活に必要な物資が欲しい。そこで仕方なく厳しい統制の網をくぐって米と交換し、欲しい物資を手に入れることができた(⑬)と、戦中・戦後の物々交換の様子を伝えている。
 物々交換の場としては、互いの信頼感により開かれた“ダンマリ市”もあった。現在も見られる青空市場のような無人の市で、そこで必要な食品を現金で購入したり、物々交換していたという。

 (ウ)調味料としての塩と副産物にがり

 味覚の一つ鹹味(かんみ)を満たすのが塩である。だからこの塩は、汁物・焼物・煮物・炒(いた)め物・揚げ物・飯・蒸し物といった各種料理の隠し味など、ほとんどの料理や麺類の加工に使われる。しかも、これらの塩加減は微量で、塩の加え方にも調理中の時期、温度、加熱方法、煮汁の量、加えてからの時間など、“いい加減”を見計らうタイミングが必要である。その判断は経験によるカンとコツで、料理人や家庭の主婦の腕の見せ所で、一瞬の手加減で料理の出来ばえが決まるとまでいわれる。さらに、味の引き立て役だけではなく、たんぱく質の凝固役、水分の引出し役、防腐などの働きもある。
 この塩の購入は各地ともその多くはかます単位で購入していた。『聞き書 愛媛の食事』の「高縄山塊の食」の項に、「塩は購入する調味料としてかますに年間約2俵(⑰)」とあるが、前述したように、塩の用途が味噌・醬油の醸造、漬物用、家畜飼料、肥料など多岐にわたっているため、家族の人数や農家の経営規模などで購入量にも差が見られる。ただ、塩を大量に購入した場合に共通しているのは、余った塩から溶け出るにがり取りである。このにがり取りには各家庭の工夫が見られる。瓶(かめ)にすのこを敷いて(上げ底をして)塩を保管し、瓶の底に溶け落ちたにがりを採取する方法(川内町則之内地区)や、下がとがった竹籠(たけかご)に塩を保管し、溶け出て垂れ落ちたにがりを下に置いた容器に採取する方法(久万町下畑野川地区)、醬油部屋に風通しのための丸太を敷き、その上にかますを置き、空間に壺(つぼ)などの容器をにがりの受け皿として置いておく方法(城辺町僧都地区)などといろいろな方法で採取した。採れたにがりはたんぱく質を凝固させる働きがあり、各地域とも祭りなどの“何か事”の際のご馳走の一つとして、自家製の豆腐作りに使っていた。
 また、久万町下畑野川地区では、魚類は乾物か塩漬けで届くため、魚の保存に塩を使うことはほとんどなかった。無塩の魚は貴重で、大層なご馳走であったという。
 伊方町大浜地区は海に面しているが、塩は専売品であったのでかますで購入しており、「塩を粗末にするとシオヤミする。」といわれるように貴重品であった。「塩は借るものではない。」ともいい、塩がないときは浜で海水を汲んでブリキやトタンに撒(ま)いて蒸発させ塩を取った人もいたともいう。

 イ 味を豊かに-だし・油脂-

 (ア)だし

 日本の料理の味付けの基本は塩であるといえる。その塩味を和らげ、うま味を食物に添加する「だし」の使用は、うま味成分であるアミノ酸と塩が結合した万能調味料である味噌・醬油とともに重宝されてきた。だしは出汁とも書き、麺類や野菜・乾物をおいしく食べるために用いるうま味を水に移した液体で、味噌汁やすまし汁などの汁物や煮物などに用いる。
 このうま味を持っただしには動物性のものと植物性のものとがある。動物性のだしとしては、一般的にかつお節(ぶし)やさば節・うるめ節・むろあじ節、イワシの煮干し(いりこ)などが使われる。これらのほかに干しえびや干貝柱なども使われる。植物性のだしとしては、コンブやシイタケ、かんぴょう、炒り大豆や炒り米などが使われる。
 愛媛県の各家庭で一般的にだし取りに用いたのは、煮干しであった。この煮干しは、カタクチイワシ・マイワシを丸釜に入れ、海水や食塩水で煮たものを簀(す)や筵(むしろ)に広げて乾燥したもので、ほぼ全国で生産されているが、本県では、宇和海・瀬戸内海沿岸の各地で漁獲されたカタクチイワシを主原料としている。製品は大きさによって、大羽(おおば)(8cm以上)、中羽(ちゅうば)(5~8cm)、小羽(こば)(4~5cm)、かえり(3~4cm)、ちりめん(1~3cm)に分けられる(写真4-7参照)。
 こうして作られた煮干しのだしは、素朴で自然な味が人々に好まれ、またカルシウムの補給源としてそのまま食べられるなど、自然食品として重宝されてきた。しかも、煮干しはかつお節よりも安価で、使い方が極めて簡単であった。かつお節のように削る必要もなければ、切り刻むこともない。汁や水の中に入れて、他の食品と一緒に煮ても差し支えがなかったから需要も多く、一般的に各家庭で喜ばれて広く利用され、煮物にも汁物にも必ず一つまみほどの煮干しが、調理用のだしとして入れられた。とりわけ、うどんのだしに好適とされている。
 上浦町甘崎地区の**さんは、「だし取りにはかつお節やいりこを使っていました。いりこはだし取り以外に食の菜としても使いました。植物性のだしとしてはかんぴょうを使いました。かんぴょうは自家栽培したユウガオの果実の肉部をかつらむきの要領で細長く紐(ひも)のようにむいて乾燥させますが、種のある芯の部分は軟らかくてむけません。その部分を薄く切って種を取り除き天日で干します。これをこの辺りではかんぴょうのワタと呼んでいます。煮物を作るときに、だし取りとしてかんぴょうのワタを使うとまろやかな甘味がつき、味付けの脇役(わきやく)になります。シイタケは使っていませんが、菜用として採取したシメジを乾燥させて使うことはありました。」と言う。
 久万町下畑野川地区では、動物性のだしとして、かつお節・さば節・うるめ節・いりこなどを、植物性のだしにはコンブ・シイタケ・ダイズなどを使っていたというが、とりわけいりこは重宝し、だし取り以外にも動物性たんぱく質摂取の食材として菜の一品ともなっていた。特に、大羽・中羽のいりこを買って、だし取りを兼ねて味噌汁の具材とするほか、いりこ飯、煮菜にしたり、味噌でまぶしたり、火であぶって食べた。ダイズはうどんのだしには欠かせないものであったというが、広田(ひろた)村や小田(おだ)町など各地でも使われていた。
 県内では一般的に、いりこだしのように単独で用いるのが多かったが、混合した方が異なったうま味が相乗して、よりだしの味がうまくなるともいわれる。
 だしの取り方には、煮だしとつけだしがある。煮だしは水から、あるいは沸騰した湯にだしの材料を入れ、短時間煮て、うまみを引き出す。ニワトリやブタの骨の場合は1時間から3時間とろ火で煮てだしを取る。これらの場合には臭いを消すために、ニンニクやショウガ、ネギ、タマネギ、ニンジンなどを加える。これらは、だしの酸化を防ぐ働きもある。つけだしは水に材料を入れ、1時間くらいおいてうまみを引き出す。煮だしより上品な味に仕上がるという。
 だしは汁物に味付けする場合に用いられ、かつお節、コンブばかりでなく、いろいろあった。どじょう汁の場合は、味噌のほかに酒を入れて味をつけている。そのほか魚の頭、ニワトリの骨のようなものも煮出して汁をとり、味付けに用いている。精進料理の場合はシイタケ、かんぴょうなども用いられている。そして、それらのものの多くは地元で生産されるものであった。

 (イ)油脂

 現在、食膳(しょくぜん)に並ぶ料理には油脂(ゆし)を使った揚げ物や炒(いた)め物が際立って多い。油脂を料理に使うと、塩味を和らげて重厚な質感を与えるとされる。しかし、わが国の伝統的な食生活の特色は、肉を食べなかったことと料理に油脂を使用することが著しく少なかった点にある。日本の代表的な料理といわれる天ぷらも、江戸時代も後半に流行しはじめたもので歴史は浅く、油脂料理が庶民の口に入るようになったのは太平洋戦争後のことであるといわれる。戦後まで県内でも油脂料理の少なさが目立った。
 一般的に食用油(菜種油)は、菜種を搾(しぼ)って作られ、白しめ油とも呼ばれる。この油の原料となるナタネ(アブラナ)は県下各地で栽培・採油されてきた。しかし、近藤日出男さんによると、西条市大保木(おおふき)地区の細野集落などでは、かつてイチイ科のカヤの種子(写真4-8参照)から採油して食用や灯火用に使っていたという。食用に使うとさっぱりとした味に仕上がり、また種子を炒(い)って食べるとピーナツの味がし、砕いてゴマ代わりにも用いていたという。
 広見町畔屋(あぜや)地区では、なたね栽培が盛んで、戦中・戦後には自家栽培した菜種を供出すると、菜種油(白しめ油)が現物として与えられた。その結果、料理油に事欠くことはなかったが、それでも貴重品で鍋の底に少し油を落として炒め物を作ったり、薄っすらと敷いた油にサツマイモなどを置いて焼いていたという。城辺町僧都地区でも、油に事欠くことはなかった。農家ではなたね栽培をしており、2斗(約36ℓ)くらいの油を手に入れていた。料理用としては、精進揚げなどの揚げ物に使っていたという。
 上浦町甘崎地区の**さんは、「(食用)油は貴重品で、戦前油を使った料理はほとんど見られず、食用として使った記憶はありません。自家栽培した菜種は全部売買されていました。戦後、軍が保管していた油が祭りなどの際に、町を通して配給されたことがあり、その時初めて自分の家で天ぷらを揚げました。このころから自宅で揚げた天ぷらが食べられるようになったと記憶しています。それまでは油揚げを豆腐屋から購入していろいろな料理に使っていました。」と言う。
 この油揚げを代表するのが「松山あげ」である。『愛媛の味紀行』によると、畑の肉として栄養価の高いダイズを原料とする豆腐を、さらに加工して、生揚げ、厚揚げ、がんもどきが作りだされた。さらに品質改良され、良質の油を使い、特殊技術により圧縮し、揚げて乾燥した。生活の知恵から生れた他県に類のない松山地方の特産品として、「松山あげ」は愛用されてきた。利用方法としては、みそ汁の実・野菜の炊き合わせ・野菜などの味付けしたものをご飯と混ぜ合わせるおもぶりご飯・和(あ)え物(火にあぶって熱いうちにもみほぐして、こんにゃく、キュウリなどと和える。)などがある(㉒)としている。
 久万町下畑野川地区では、「揚げといりこと味噌・醬油」といわれるくらい油揚げは日常生活に欠かせないものであった。油の味と揚げ独特のだしが出てくるので、油味のだし取りに使うほか、炊き込みご飯、野菜や豆腐などの煮物、うどんやそばのだし、汁物、雑炊、和え物などに刻み込んだ。火にあぶっていろいろな料理などに使った。“何か事”の際には、サツマイモやサバの天ぷらを作ったという。
 菜種油は料理だけでなく、農家では稲の害虫ウンカの駆除などにも使っていた。例えば、城辺町僧都地区では、魚(イワシ)油や鯨油(げいゆ)を使うこともあったが、菜種油の方が広がりやすいし、そのまま肥料にもなったのでよく使っていた。山で伐採した木材を搬出するきんま(木馬(きうま)(*8))の潤滑油にも使っていたという。津島(つしま)町御内(みうち)地区でも、ウンカ駆除用にナタネを栽培していたので、菜種油には不自由しなかったという。
 田畑に乏しい伊方町大浜地区では、油は購入するしか手に入れる方法はなく貴重品であった。その油も日常的には販売されておらず、“何か事”の時に商人が売りに来ていた。戦後、食用としての油が出回り始めてから、卵焼きや天ぷらなどが食べられるようになったが、それまでは油を使った料理は貴重であったという。このように、県内でも戦後次第に油料理が作られるようになっていったことがうかがえる。
 以上のように、ふるさとの食の周辺にある茶・酒・調味料などを探ると、いろいろな工夫を凝らし、少しでも食やくらしを豊かにしようとする人々の姿の一端をかいま見ることができた。


*8:木馬 伐採した木材を積んで下ろす橇(そり)に似た道具で、木を横に敷き並べた木馬道をすべらせる。

写真4-7 だしの素「煮干し(いりこ)」の種類

写真4-7 だしの素「煮干し(いりこ)」の種類

左から、大羽・中羽・小羽・かえり・ちりめん。平成15年10月撮影

写真4-8 カヤの種子

写真4-8 カヤの種子

平成15年11月撮影