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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(3)「装いの文化」へ

 日本人の大多数が、豊かな消費生活を享受するようになったのは、高度経済成長期に入ってからである。本格的な大量生産・大量消費の時代に入り、使い捨て文化が世の中に浸透した結果、お金さえ出せば何でも手に入り、自分の欲求を満たすことのできる便利な社会になった。これ以降日本では、穴のあいた靴下や継ぎはぎをした服を目にすることもなくなった。現在は衣服を修繕するよりも、新しい衣服を購入するほうが安く済む時代になっている。
 しかし、50年程前までの日本では、蚕(かいこ)を飼い、ワタやアサを栽培し、糸を紡ぎ、布を織り、衣服を作り、洗濯や虫干し(盛夏のころ、かびや虫害を防ぐために衣服などを日に干したり風にさらしたりすること)によりこれを維持し、着られなくなった衣服を再利用することは女性のたしなみとされ、その技術が受け継がれてきた。また、生活の中のいたるところで、衣服を長く大切に使いきるための工夫がなされていた。例えば、現在ではあまり目にすることはないが、子どものきものを大きめに作って、肩と腰にひだを取って縫いとめておく「縫い上げ」や古い浴衣でおむつを作るといった工夫が、当たり前になされていた。きものを仕立てる際に出る端切れや余り切れ、古くなった布などを大切に保存して、継ぎはぎの材料としたり、裂いた布を緯糸(よこいと)として織り込んで作る裂織(さきお)りなどの織物材料として再利用していた訳である。当時は布を廃棄するという発想がなく、布は使い尽くすものと考えられており、「もったいない」精神が一般にいきわたっていた(⑥)。
 布をすり切れるまで使い尽くすという文化の背景には、きものが持つ特性があるだろう。布を直角・直線に裁って、直線に縫い合わせて作るきものは、個人の体型に厳密に合わせて作る必要がないので、寸法取りなどは大まかでよい。大まかな採寸でよいということは、属人性(ぞくじんせい)に欠けることを意味し、一つのものを複数の人が使用できるということでもあった。また、きものは、袖付け・脇縫いを解けば、簡単に袖・襟・前身ごろ・後(うしろ)身ごろに解体することができる。別の言い方をすると、きものはこれらの部品を縫い合わせたものである。そこから、部品の入れ替えが簡単で、袖が傷むと傷んだ袖だけを取り替える、傷みやすいところや汚れやすいところにはあらかじめ別布を縫いあてておくといったことができるし、別の目的に転用することも容易であった(⑥)。
 このような「衣服と布の行ったり来たり」を昭和の初めまで、「繰り回し」と呼んでいた(⑥)。繰り回しの上手下手は家庭の経済にとってとても重要で、それをやりくりするのが女性の役割の一つであると考えられていたようである。
 一方、方形の布の組み合わせで成り立つきものは、凹凸を持つ人の身体にぴったり合うものにはならなかった。まして身体は動くたびに形の変わるものである。きものを着るときには、腰に紐(ひも)を結んで密着させ、はだけないようにするが、他の部分には余裕が必要なので、動きが大きいと襟や裾が乱れやすい。きものを上手に着こなすにはそれなりの馴れと技が必要とされる。こうしたきものの特性から、日常的な立ち居振舞いや身のこなしが重視され、それが日本的な礼儀作法の重要な要素として意識されるようになったといわれている。
 今から50年程前の日本では、上述のようなことが日常生活の中で、普通に行われていた。本書では、そのころの愛媛地域に生きた人々の装いとくらしを調査対象としている。また、本書では、「装いの文化」を、被服や化粧などの身体の外観を変えるために用いるもののみをさすのではなく、それらをも含めて日常生活の中で祖母から母へ、母から娘へと伝えられてきた装いにまつわる技や道具、暮らしの知恵などを統合したものとしてとらえ、高度経済成長期ころまでの県内の装いと暮らしを、聞き取り調査や文献などによって明らかにしようと試みた。
 その際、生活条件や職種の違いによって、仕事着や普段着、よそいきに違いがあったのか、またそれらがどのようにして生み出されたのか。どのような行事のときにどのような衣服を着用し、頭には何をかぶり、履物は何であったのか。明治以降から昭和の初めまで愛媛の代表的産業であった製糸業や伊予絣(いよかすり)は、どのような状況にあったのか。装いを商うことを生業(なりわい)としていた人々はどんな活動を繰り広げていたのかなど、それぞれの活動が展開されていた地域に入って、関係した人々から直接聞き取ることによって、生活者の生の声を収録することに努めた。