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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)3枚の写真をたどる

 たった1枚の写真の中にも、さまざまな思い出が詰まっている。人生の節目や家族や友人との写真など、1枚ごとに過去の記憶やその当時の情景がよみがえってくる。
 3枚の写真は、いずれも松山市立垣生(はぶ)小学校が平成3年(1991年)に発行した『創立百周年記念誌 垣生』の中に収録されているものである。昭和2年(1927年)垣生尋常高等小学校尋常科、昭和16年(1941年)垣生国民学校、昭和30年(1955年)松山市立垣生小学校の入学式後の学級写真である。校名の変遷には時代がしのばれるが、昭和初年から高度経済成長期までの装いの記録写真としてたどることも可能である。
 まず、衣服に注目すると、昭和2年入学の子どもたちは、男子が小倉織り(福岡県小倉地域で織られた綿織物。学童服や労働服に用いた。)の夏用のグレーの霜降り(霜の降ったような白い斑点模様)の学童服ときもの・袴姿、女子は洋服の2名の他はきもの・袴姿(はかますがた)である。男性の教員の服装は、襟幅がやや狭いものの今と変わらない背広姿であり、女性の教員は、上着はきもの下は袴姿である。きものの素材は、柄から見ると伊予絣が多いように思われる。木綿を原料とする紺染めの絣織物である伊予絣は、松山市とその周辺地域で盛んに織られ、垣生地区はその中心地であった。明治39年(1906年)には、全国の絣の総生産量の約4分の1(約200万反(*4))を占め、伊予絣は生産量日本一に輝き、大正12年(1923年)には、最高生産量(約270万反)を生産し、伊予絣の全盛期を迎えていた(⑦)。
 昭和16年入学の子どもたちは、男子は、冬用の小倉の黒とカーキ色(国防色)の学童服と夏用の霜降りの学童服のいずれかを着用し、女子は上着を見る限り全員が洋服姿である。女子の多くがエプロン姿であることや左胸に縫い付けられた名札のような白い布が特徴的である。後方中央に立っている教員は、昭和15年に制定された国民服を着用している。こののち、日本ではカーキ色の国民服が男の平常服となり、この年(昭和16年)12月から太平洋戦争(1941年~1945年)に突入する。
 昭和30年入学の子どもたちは、ほとんどの男子が学童服を着用しているが、襟やボタンを見ると同一のものでない例も見うけられる。女子は全員が洋服姿で、身につけている衣服もさまざまである。この写真が撮影された翌年、昭和31年(1956年)の経済白書に、「もはや戦後ではない。」と書かれたように、日本は昭和30年代から高度経済成長の時代に入った(⑧)。各種の合成繊維の発達と大規模なアパレル(既製服・ファッション衣料)産業の台頭によって、既製服が大量に生産され豊富に出まわる時代を迎える。女子の衣服の柄や形態の多様性を見ると、豊かになりつつあった時代がうかがえる。
 次に、最前列の子どもの足元を見ると、昭和2年と昭和16年のものは大半の子どもが草履で、ズック靴をはいている子どもが二人、下駄ばきの子どももいる。昭和30年のものは、男子はほとんどがズック靴であるが、女子は靴、草履、下駄とさまざまである。
 頭髪や帽子を見ると、戦前の男子はほとんどが坊主頭で、女子はおかっぱが大半を占めている。昭和30年のものになると、男子も半数は髪を伸ばしている。女子はおかっぱが減り、前髪をやや長く伸ばしたり、左右にかき分けた髪型が増えてくる。3枚の写真を比べると、昭和2年の写真で男子がかぶっている学生帽が白いことが目を引く。上の方が白く見えるのは、夏には黒の学生帽に白いカバーをかけていたからである。
 本来、装いは自己表現であるが、同時にその装いがなされた当時の社会・経済状況や世相の反映であるという社会的意味を持つものである。現在、華道や邦楽などの伝統文化や結婚式、卒業式といった非日常の場以外ではきもの姿を目にすることはまれであるが、日本で、服装の洋風化が始まったのは、明治時代以降のことである。明治3年(1870年)新政府が、軍隊制度の整備を進め、陸海軍の軍服を制定したことがその始まりとされている。その後、宮中の礼服制度が改められ、それにならって一般の役人や官立学校の教師などが洋服を着用するようになり、鉄道員、郵便配達員、警官や学生などの制服として採用されるようになった。
 洋服が、まず軍隊に続いて礼服や制服など公的な衣服として、また男性の衣服として制度の中に採用されたという経緯は、この後の日本人の洋服観、すなわち洋服は和服より公的性格の強い衣服であり、和服より改まった装いであるという洋服に対する価値付けに大きな影響を残した。当時は、仕事は洋服でネクタイを締めていくが、家に帰ると丹前(衣服の上に着る綿を入れた防寒用のきもの)などの和服に着替えてくつろぐという生活スタイルが一般的であった。
 大正時代に入って、背広服は都会のサラリーマン階級に次第に広まっていった。一方、女性の場合洋服は、大正半ばから、子どもや女学生など活動性を求める低年齢層に少しずつ広がり始めた。
 昭和10年代は、明治生まれの男性の外出時の背広が一般化し、昭和生まれの子どもは洋服の生活となった時代であった。その後、太平洋戦争とその復興期を経て、昭和20年代から50年代にかけて約30年間ほどの間に、完全に洋服に変わった。
 垣生小学校の入学式後の3枚の写真は、日本の衣服が洋服化していった流れをよく反映している。


*4:反 和服地の単位。布の種類によって異なるが、普通は、幅約35cm、長さ約11m。大人のきもの1着分の分量がある。