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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)伊予生糸

 ア 養蚕業

 長らく蚕(かいこ)の飼育指導に携わってきた**さん(西予市野村町野村 昭和8年生まれ)と養蚕農家に嫁(とつ)いでから25年間蚕を飼育してきた**さん(西予市野村町阿下(あげ) 昭和9年生まれ)から話を聞いた。

 (ア)蚕の交配と孵化

 蚕の交配と孵化(ふか)について**さんは、「当時飼っていた品種は日中交配というのか、日本種と中国種の交配でした。中には欧州種とかいうのもありました。日本種というのは真ん中がくびれた俵型(たわらがた)で、欧州系のものはちょっと丸みを帯びていました。一代交雑種をつくるための原種というのもありますが、これは病気に弱いのです。暖かいところは無理で、高冷地で年1回飼育していました。クワもほとんど肥料をやらない野生の状態のものを与えていました。窒素などをやるとタンパク質が多くなって、体は太るのですが、病気に対する抵抗力がなくなるのです。
 種屋(たねや)(当時宇和島にあった愛媛蚕種の分場)では雌雄を重さでより分けていました。雌の方が卵を持っているだけ体が大きかったのです。さなぎのときからすでに大きいのです。雄はちょっと小さめです。孵化が近づいたなというときに、繭の端を切り取ってやるのです。その時期は日数計算で分かるのです。さなぎになりたてのときは、体全体も柔らかいし、黄色味を帯びています。ガ(蛾)になる寸前には褐色がきつくなります。ガになると雄は雄だけ、雌は雌だけに分けます。次にある程度交尾をさせてのちに割愛(交尾中の雌雄を離すこと)します。雄はもう1回交尾させるので、冷蔵庫に入れて体力消耗をとめてやるのです。
 ガは卵を産む前になると排尿をします。入れ物に入れて震動を与えてやります。ぽんぽんぽんとたたいてやると、どろっとした感じの尿を出すのです。白い台紙(産卵紙)に何頭かガを置いてやると、卵を産み始めます。羽を動かしながら円状に一定間隔にきれいに産み付けてゆきます。産卵が終わると雌は死ぬので廃棄します。雄はもう1回交尾させます。産みたての卵は透明というか黄色味をした土色ですが、何日かたつとだんだん黒くなってきます。受精したものだけが、そういうふうに色が変わって来るのです。受精していないものは、いつまでたっても黄色いままなのです。最初はのりのように産卵紙にくっついていますが、それを産卵紙から落としてばら種の状態で木枠に入れます。
 孵化場は野村町内の北側にある愛宕(あたご)山の下にあって、養蚕組合がやっていました。10g単位でB5判くらいの箱に入っていて、だいたい2万頭でした。底に白い油紙のようなものを2枚くらい敷き、その上にばら種を置いて、ばら種の上に小さい穴の開いた紙を置きます。その上に刻んだクワをまいてやると、その臭いに誘われて産まれたアリのような3mmほどの蟻蚕(ぎさん)が全部上がり、下に卵の殻が残るのです。
 その卵から孵化した蟻蚕を、鳥の羽でぱっぱっ、ぱっぱっと蚕座(蚕を飼う場所)の掃立紙(はきたてし)へ掃き落としてやるのです。それを掃立てというのです。孵化したてのものは、非常に柔らかく、デリケートで、傷つけるといけないので、羽箒(はねぼうき)を使うのです。それは大きい羽と小さい羽を束ねたもので、出刃包丁のような形をしていました。」と話す。

 (イ)稚蚕の飼育

 さらに稚蚕(ちさん)の飼育について、**さんは「始めはけしつぶ(ケシの種子)くらいの小さい蚕です。生育段階で4回脱皮します。第1回の脱皮を1齢といい、孵化して1週間ほど育った2齢くらいまでの蚕を稚蚕といいます。中には三眠(さんみん)さんといって3回だけ脱皮するものもおります。この蚕はちょっと小さいタイプです。糸の質が非常に細くて、高級織物にするために三眠さんを飼っていました。交雑する関係でどうしても上がり(繭を作る態勢にはいること)の早い三眠さんが中に混じっていました。三眠さんが上がり始めたから、もう一度脱皮すると全部の蚕が上がるなあという感じでした。
 野菜などで、苗半作という言葉があります。苗のときに丈夫なものを作っておかないと、結果として良い野菜ができないのです。蚕も同じで、稚蚕のときに体を頑丈に作っておかないと、大きくなってからばたばたっといくのです。稚蚕飼育に使うクワは特に吟味して、どちらかというと肥料を少な目にして、野生に近い状態で与えてやらないといけません。昔は野村高等学校のある権現(ごんげん)地区は火山灰土壌で柔らかくクワのできが特に良かったのです。栄養豊富なクワを食べて蚕がよく腐りました。蚕が繭をつくるようになったころ死んでしまったのです。うみ蚕(こ)とか膿蚕(のうさん)とかいわれていました。病原体に対して蚕に抵抗力があるかどうかということです。稚蚕共同飼育が始まった原点はそこにあるのです。各養蚕農家で思い思いに飼っていたときは、ある家は上手にたくさん繭ができ、ある家はほとんど腐ってしまって、較差が大きかったのです。それで稚蚕飼育場ができて、均一なクワで飼育して各養蚕農家へ分配する方式になったのです。」と話す。

 (ウ)吐糸から収繭まで

 吐糸(とし)(繭をつくるために糸を吐くこと)から収繭(しゅうけん)(繭を取り集めること)までの養蚕農家の生活について、**さんと**さんから話を聞いた。
 「蚕は繭(まゆ)をつくるので糸を吐き始めようかというときに、尿などの体内の液を全部出してしまうのです。ある程度巣作りをして、それからジャーとおしっこをするのです。それまでに糞(ふん)などの体内の物は全部出してしまうのです。糞もクワを食べているときは緑色ですが、最後には大きい茶褐色のものになります。
 かなりの量があるので、下へ落ちないように菰(こも)(わらを粗く織って作ったむしろ)を置いてその上に紙を敷いていました。たくさんの蚕が全部排尿すると、量が多いので低いところへポタポタつたって、寝ている顔の上に落ちてきたりしたものです。
 網代(あじろ)で飼っているときは、一匹一匹出て来るので繭をつくる直前の熟蚕(じゅくさん)を拾うことができ均一な繭がそろいます。条桑育(じょうそういく)(枝の付いたままのクワを与える簡易飼育法)では条払い作業といって、枝に一杯たかっている蚕をふるい落とすので、均一にはなりません。中にはまだクワを食べたいと思っている蚕もいるけれど、それも一緒に上げてしまうから、手で拾うようなことにはならないのです。
 一々拾うのが面倒なので、回転まぶし(1区画に1個の繭がつくれるように、ボール紙で碁盤目状に組み、それをまとめて一つの枠にはめ、回転できるようにし1,500~1,600頭の蚕に繭を作らせる装置)を組んで最初だけ拾ってやります。この作業を上蔟(じょうぞく)といいます。熟蚕が乾燥を好み、上へ上がって行く習性を利用しているのです。蚕は上へ上がり、上が重くなるとまぶしはくるっと回ります。蚕は自分の好みの部屋を探し当てて、その中で繭をつくります。不器用なのがいて、どうしても入れないのは、手で拾って入れてやります。」と**さんは話す。
 **さんは「条桑育では生育のむらがないように飼育しておかないと、いつまでもごぞごぞ、ごぞごぞして、早いのが繭をしたその上をはいまわって、汚したりするのです。それこそ『あんたまだちょっと食べたいんじゃない。』などと言って、網代に入れてまたクワをやったりしました。熟蚕のことを『上がり蚕さん』と言うのですが、黄色く透き通ってきた蚕で糸を吐く場所を探して頭を振ります。
 最初は分からないことばかりで、蚕がとまっているということの意味が分からなくて、クワを一杯やっていると、『姉ちゃん、この蚕とまっとるんよ。』と言われて、『とまる言うのは、どんなことなん。』と聞くと『ミンにはいっとるのよ。』と言われてまた分かりませんでした。ミン(眠)に入ったら上を向いて頭が大きくなるのです。ミンは普通4回あり、1日半から2日くらいえさも食べずにじいーっとしています。そしてやがて脱皮して、次の齢に入ります。最初小さい内は日数が少なく、3齢4齢で大きくなると、日数が長引いてきます。
 5月8日ぐらいが掃立(はきた)てでした。6月初旬まで、上がり蚕(こ)さんまで飼うのです。それが終わったらすぐ田植えです。その前に麦を刈らないといけません。それはそれは忙しい毎日でした。寝る間もないくらいで、父などは5kgぐらいはやせていました。私たちも一蚕(ひとかいこ)(蚕が産まれてから繭になるまでの一巡の飼育期間)飼ったら、4~5kgはやせました。上がり蚕のときは15時間も16時間も働きました。クワを食べる量が多くなりますから、朝4時に起きてクワをやってから、クワ摘みに行きました。回転まぶしでなく、わらまぶしのころは手間が大変でした。上がり蚕さんのころは、製糸工場に繭が足りなくなって、女子工員さんたちが養蚕農家へ手伝いに来たりしていました。」と話す。

 (エ)クワ摘みと給桑

 さらにクワ摘みや給桑(きゅうそう)について、**さんと**さんから話を聞いた。
 「昭和27年(1952年)当時この辺りで、蚕を飼ってない家はなかったのです。僕らの子どものころはお蚕様々といって、子どもより蚕の方が大事にされていました。あのころは棚飼いといって、網代(あじろ)を棚に差し込んで飼っていました。家族の住居部分も蚕に占領されていて、子どもは棚を組んだ間で寝ていました。寝ていたらざわざわ、ざわざわと蚕がクワを食べる音が聞こえていました。」と**さんは話す。
 「お母さんがクワを摘みに行って、赤ちゃんがそこに寝ているのです。帰ってみると、赤ちゃんが蚕を口に一杯入れていたなどという話がよくありましたよ。ちょうど感触がお母さんの乳首のようなので、そうなったのでしょうね。
 昭和30年(1955年)に嫁に来て25年間クワ摘みをしましたが、最初は葉っぱ1枚ずつ摘まないといけないので大変でした。春、初秋、晩秋と年3回飼育しました。春は芽もぎの状態で楽でしたが、初秋、晩秋は両手の人差し指に刃先を内側へ向けた鉄の爪をはめて、親指も使いちゅっちゅっ、ちゅっちゅっと下から上へ摘んでゆくのです。上から下だと、葉柄(ようへい)(葉を茎、枝に付けている柄の部分)の元までもぎとることになって、来年の芽が出なくなるのです。網代で飼う場合は、網代一枚一枚にクワをやらねばなりません。網代に蚕の食べ残しや糞などがたまります。そこで1日1回上にがも網(編み目を蚕が通り抜けることが出来る大きさにしたもの)を入れて、その上にクワを置きます。そうすると蚕が上へ上がります。横に予備の網代を置いておき、そこにパッと移してやります。元の網代に残った糞、食べ残しを集めて、堆肥(たいひ)舎へ持って行きます。毎日給桑の合間にそれをやらねばなりません。一人ではやりにくいので、二人で向かい合ってやりました。これをおしりがえ、正式には除沙(じょさ)といいました。
 春は芽もぎの状態でやりますが、夏はクワの葉一枚一枚摘むのです。クワの枝を切ってしまうと、来年の春使えないので芽を痛めないように、葉柄の部分から葉っぱだけ取って蚕に与えるのです。初秋は下葉から取って行くのです。4齢期でたくさん食べ始めるようになると、下の土が付いているような根っこのところの土葉(つちば)から取ります。地べたへはうように出てくる葉は、はさみで切ってやります。技術がいったので子どもには無理で、大人の仕事でした。下の方の葉は払い落とすように、ばらばらーっと入れていたのを思い出します。
 給桑や棚に並べる仕事は子どもでも出来ました。一般的には女性向きの仕事でした。強い力はいらないし、蚕の生育の様子を見る観察力は、女性の方が細かく、ちょっとしたことに気が付いて、こまめに手をかけてやれるのです。均等にクワをやったようでも、どうしてもむらができます。余っているクワは、食べてしまった蚕のところへやったりして、生育のむらを起こさないような気配りが出来るのです。お母さんが子どもと一緒に家にいて、蚕の世話が出来たのです。条桑育になると重労働で、そうはいかなくなりました。」と**さんは話す。

 (オ)温度管理

 蚕室の温度管理について、**さんは「条桑育になってから、野外でテントを張ったり、ハウスを建てたりしたので、家の中で飼うようなことは少なくなりました。温度管理は周囲をかこっていました。日中は風通しをよくしていましたが、風を入れるとクワの葉がすぐしおれてしまうから良し悪しでした。
 温度が低いと生育が遅れ、脱皮が遅くなります。温度管理をしてやらないと、むらができるのです。昔はストーブもなかったから、埋薪法(まいしんほう)とか炭火による方法とか、暖炉を切ったりしました。8畳の間ですと、畳1枚分くらいを、床下までどーんとしっくいで固め、掘ごたつのようにして、その中へ生木のナラとかクヌギをつめて、表面へ炭を置いて着火させ、次第に火が下の方へ下がってゆくようにしていました。」と話す。
 **さんは「煙たいのでせきが出たり、涙が出たりしました。火事になったり小さい子どもさんが落ちてやけどしたりしたこともありました。お母さんが忙しいと、子どもが犠牲になったりもしたのですよ。5月ころでも昔はけっこう寒かったのですよ。晩霜(ばんそう)が来たりして、春の蚕が飼えないときがありました。山間部で高地なので、4月の20日ころまでは霜の心配がありました。霜が来るとクワの葉が真っ黒になりました。葉がみんなおじぎしてしまって、蚕の時期を遅らすか、50gの予定を40gに減らさないといけませんでした。」と蚕の世話に明け暮れた日々の話をする。

 (カ)地域の若者たち

 養蚕専攻生や若者たちの生活について、**さんと**さんの話を聞いた。
 **さんは「野村高等学校では養蚕専攻生がいて、野菜、果樹、畜産などとの科目選択をしていました。高等学校用の養蚕の教科書があり、蚕、クワ、繭、養蚕経営などを詳しく学習しました。専攻生は家で蚕を飼っていて、養蚕に興味を持っている者が毎年5、6人いました。校内に昭和23年に建てられた養蚕室があり、飼育期間は全員泊まり込みでやっていました。寮で食事をして、給桑は夜もずっと時間制の交替でやっていました。養蚕部もあり、専門の中村先生が指導していました。生徒たちは卒業すると自分の家で後継者となったり、蚕業試験場へ行って養蚕の指導者になったりしました。」と話す。
 **さんは「高校を卒業するとみんな地域の青年団に入りました。歌声喫茶(戦後合唱運動の影響を受け、喫茶店でコーラスなどをするようになった。)が始まったころでよく歌いました。夜には学習会などもあって、学校の先生が来て数学や国語を教えていただきました。食品加工や簡易ジュースの作り方などは4Hクラブ(生活の改善や技術の改良を目的とする農村青少年の組織)で習いました。貝吹(かいふき)村球技大会とか東宇和郡指導者講習会やお出石(いづし)座禅会など結構人も集まり、内容も充実していました。地域全体に若者がいて、いろいろな活動があって、元気そのものでした。」と思い出を語る。
 **さんは「私は蚕業試験場を出るときに、野村製糸へ養蚕教師として入ることになっていたのです。ところが野村高等学校の実習助手が一人やめたので、『お前臨時にちょいと来い。』ということで、1年だけ勤めたのです。次の年もう一人の実習助手の人が昇格して中学校の先生になったので、校長から『製糸へ話して、お前を高校の方へもらうことにしたぞ。』と一方的に言われました。そのころは養蚕の景気が良いころで、本俸は同じくらいでしたが、手当は製糸の方がずっと良かったのです。ちなみに臨時のときの本俸は6,000円でした。」と話し、そして**さんは「統計調査事務所での私の給料は、4,000円でした。役場勤めの人は3,000円のころです。就職できても着て行くものがないのです。端切れを買って、セーラー服の襟をはずして、ひだのスカートからタイトのスカートを2枚手製で作って、初月給もらうまで毎日同じ服を着て行きました。厳しい時代でしたが、今思うと懐かしい昭和28年(1953年)ころのことです。」と笑顔で話す。

 イ 製糸業

 戦後早くから東宇和組合製糸は復興の努力を続け、東宇和蚕糸農業協同組合と改組した昭和24年(1949年)には、イギリスのエリザベス女王(現エリザベス二世 1952年即位)の戴冠式(たいかんしき)の式典用御料糸の特別注文を受けるまでになった。昭和27年(1952年)には岩手(いわて)県から原料繭を移入するようになり、昭和30年代には機械設備の改善開発と技術研究に努め、全国屈指の組合製糸となった。機械の高速化を進め、大量生産によって昭和40年代には全盛期を迎えた。しかし昭和50年代になると養蚕農家の衰えが始まり、製糸経営が衰退し始め、平成6年に工場は閉鎖された(①)。
 かつて東宇和蚕糸野村工場に勤め、現在西予市野村シルク博物館で働いている**さん(西予市野村町野村 昭和20年生まれ)、**さん(西予市野村町野村 昭和20年生まれ)、**さん(西予市野村町野村 昭和25年生まれ)から伊予生糸製糸の思い出を聞いた。

 (ア)繰糸場の思い出 

 製糸工場に入ってから、熟練するまでの思い出を、**さん、**さん、**さんは次のように話した。
 「昭和30年代後半、東宇和蚕糸には200人くらいが働いていました。100人くらいが寮で100人くらいが通いでした。寮には高山(たかやま)や明浜(あけはま)(ともに旧明浜町)の人が入っていました。岩手県に出張所があってそこから来ている人もいました。なかには岩手からお嫁に来た人もいました。事務員さんは野村と岩手をよく行き来していました。また男の人が年に1回、岩手で乾燥させた繭をこちらへ持って帰っていました。入った最初の3か月は養成期間で、教婦さんに作業について色々教えてもらいました。怖い人も優しい人もおりました。
 工場には糸をとるところ、糸を大枠に上げるところ、煮繭機(しゃけんき)(繭から生糸を繰糸(そうし)する場合に、ほぐれやすいように湯で繭を煮る装置)などがあって、どの仕事も楽なところはありませんでした。煮繭機は、男の人がしていましたが、運搬は女の人でした。後になると人が運ばなくても、繰糸場まで機械で繭が送られて来るようになっていました。どんどん機械化されていく内に、人がどんどん減っていきました。閉鎖する前は従業員が30人いるかいないかでした。
 あのころは工場の中は40℃くらいありました。糸の乾燥を防ぐため戸を閉めたままなので、湯気が上がって蒸し風呂に入ったようでした。それでもだれも病気にはなりませんでした。
 機械も昔は自動繰糸機(煮熟(しゃじゅく)された繭から自動的に生糸を作る装置)はありませんでした。そのころは多条繰糸機という機械でした。受け持つ幅は一人1mくらいでした。皆立ったまま、手で作業していました。繭は4粒か5粒か8粒とかでの繰糸でした。昔は4粒とかの細い糸の方が良く、今のようなことはありませんでした。神戸の方に検査場があって、そこで糸の格が決められていました。
 二交替制で早番は5時から13時20分、遅番が13時40分から22時まででした。多条繰糸機から自動繰糸機に変わるときに、人が余るので、二交替制になったのです。22時に終わって、それから通いの人は歩いて帰っていたのです。ご飯は工場へ来て食堂で食べましたが、冬の早番は大変でした。大雪でも工場は操業したので雪の中を歩いて来ました。」

 (イ)給料や生活について

 さらに当時の給料や生活について**さん、**さん、**さんの話を聞いた。
 「最初、昭和36年(1961年)ころの日給は200円でした。経験を積んで順に上がって行きました。平成に入ったころ、年間300日働いて、日給月給で15万円くらいになりました。日曜、祭日は休みで、土曜は1日働きました。機械が休むことはなく、人間は交替で休みました。当時ボーナスというものはなく、御褒美として下駄(げた)や絹の白生地をもらいました。1年間無欠勤だと表彰されて白生地をもらえました。昭和40年代の終わりころから、ボーナスが3か月分くらい出るようになりました。神戸で検査を受けて糸の格が最高の5Aになると、工場でぼたもちを作ってもらったりしたものです。
 お茶やお花や洋裁なども習いました。洋裁の先生は宇和(現西予市宇和町)から来られました。お茶は寮母の先生に習いました。盆踊りや愛宕山のお月見は楽しみでした。寮の人は長期の休みのときに実家に帰っていました。盆が6日、正月が6日、旧正月もありました。映画は替わるたびに見に行きました。小林旭(あきら)が大好きでした。テレビはバスの駅の近くの電気屋さんにしかありませんでした。」

 ウ 野村シルク博物館  

 戦後ずっと養蚕業、製糸業でよく知られていた野村町も、昭和60年代には他の産地同様に衰退の途をたどって来た。しかし野村生糸「カメリア(椿)」(口絵参照)を惜しむ声が強く、地域の発展を支えた絹特産品を後世に伝えるため、「シルクの里づくり」事業が進められることになった。平成5年(1993年)から建設を始め、博物館、織物館、製糸工場、作業所などの施設と各種機械を整え、技術指導者を招いた。また町内で特殊用途用蚕品種を飼育し、その繭で高級絹織物を生産している。
 野村シルク博物館の学芸員の**さん(西予市野村町野村昭和35年生まれ)に、館の仕事内容や野村シルクへの思いを聞いた。
 「シルク博物館では、野村町の養蚕業、製糸業の歴史と生糸の製造工程を解説するパネル、養蚕家屋の縮尺模型、養蚕の道具、蚕の一生をあらわした模型、そして町内の絹文化を示す染織品、さらには世界の民族衣装を中心とした染織品の展示をしています。また伝習室では染色体験、ロビーでは織り体験を楽しむこともできます。さらに織物館、作業所などでは、染め全般、製糸、かせ取り、経(たて)糸を組む整経、緯(よこ)糸の管(くだ)巻き、手機(てばた)や高機(たかばた)での絹織物の製作なども行っています。
 今は日本人が中国やブラジルへ行って指導しているから、輸入糸はすごくいい糸ができるのです。自動繰糸機で引けばここでもできますが、値段の面で中国にはかないません。繭にこだわって多条繰糸機で引いて、真っ白な人工噴水と言われるようなものができるようになることを夢見ています。他で引いた糸は自動繰糸機で引くから、ぴんぴんと真っ直ぐになって、固い織物になるのです。ここでは、冷蔵保存の生繭を使って、多条繰糸機を低速度で運転しています。そうすることで、生糸にかかるテンション(張力)を抑えた、かさ高で柔らかい風合いの自然のままの生糸ができるのです。これがカメリアの復活なのです。蚕がSの字に糸を吐いて行くのですが、低速の多条繰糸機で引いているので、その形が残りふわふわとして柔らかいのです。それで織ると、布の感触が何とも言えないソフトなものになるのです。最高の糸で最高の布を織り続けたいと思っています。」