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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)伊予絣

 日本三大絣の一つである伊予絣は、大正末期には年間270余万反(反は和服地の単位。1反は大人のきもの一着分の分量)を生産し、昭和の戦前期までほぼ全国一の生産高を誇っていた。しかし綿花の輸入制限、戦争の激化とともに木綿業界が衰退し、生産が途絶えた。戦後生産が再開され、昭和30年代に100万反台に回復した(⑦)。しかし化学繊維の台頭、洋装化、農業人口の減少、作業着の変化などの影響を受け次第に衰退した。現在は鍵谷(かぎや)カナ媼頌功会(おうしょうこうかい)と垣生公民館また伊予かすり会館などによって、伝統的特産品として保存活動が行われている。

 ア 絣糸の絞り染め

 父親が始めた絣工場を手伝い、紡績から製織までの工程を見てきた**さん(松山市和気 昭和18年生まれ)と姉の**さん(松山市和気 昭和11年生まれ)に絣糸の絞り染めの作業について聞いた。

 (ア)原綿から晒しまで

 **さんと**さんは紡績や晒(さら)し場の作業の様子を次のように話す。
 「私の父は農家の次男でしたが、22歳くらいのときに、伊予絣の商売をしたいと思い立ったそうです。資金もゼロで、両親も賛成してくれず、始めは大変だったようです。その内お嫁さんもらってやっていこうということで、17歳の娘と結婚したそうです。それが母で、今は98歳になります。結婚と同時に和気の駅前に家を建てて、そこで本格的に絣の仕事を始めたようです。絣の工場へ入った経験もあまりないので、若いのにと笑われることも多かったようです。仕事が一番で、食べることや掃除洗濯は二の次でした。子どもが10年間生まれなかったので、その間に二人で一生懸命働いたそうです。当時は和気も伊予絣が盛んで、地元はもとより堀江・粟井・北条・浅海(あさなみ)の方から大勢の人が仕事に来ていて、活気のある町でした。
 機から染めから全部自分流でやっていました。最初は糸屋さんから糸を買っていたようですが、糸も自分で作ろうかということで、紡績もやっていました。父親と気心が知れた5人で、宮西の工場で始めました。現在大手スーパーの北の駐車場の所が紡績工場でした。米(べい)綿とかインド綿とかを混(こん)綿といって混ぜ合わせて糸にするのです。自分のところで作った糸で、伊予絣を織るのです。自分のところが作った糸なので、安く絣を織り上げることができたのです。松山染織共同組合という名前でした。白方機織所(きしょくしょ)さんが先に始めていて、それで父親も思いついたらしいのです。
 茶色っぽい原綿からの仕事なので大変でした。紡績で糸にしてもあく(原糸にふくまれる油分などの不純物)がありますから、むらなく染色できる状態にするためにはあく取りをしないといけません。それを五右衛門風呂(ごえもんぶろ)(鉄製の湯船をかまどに据え付けた風呂)のような大きい釜(かま)に入れるのです。馬木(うまき)町にあった製材所からおがくずを買って来て、それを焚(た)いてあくを出すのです。木灰(きばい)の汁やカセイソーダを入れて煮るのですが、火が強いと糸をこがしてしまうので、気をつけなくてはなりませんでした。糸も何百本という糸を、機械ではなくて手で平べったく巻くのです。相当に手間のいる重労働でしたが、職人さんはきれいに巻いていました。その人も今は70歳くらいになっています。
 釜で焚いてあくを出したものを、次の工程に移します。2坪くらいのコンクリートの槽の下の方へ竹を敷いて、その上へあくを取った糸を載せて、その上に穴の開いたブリキ板を置きます。その槽の横には、井戸が二つ掘ってあります。一つはカルキ(さらし粉)の水を入れる井戸で、もう一つは真水の井戸です。そのブリキの上へ、カルキの水を流してやると、小さい穴から下の糸全体にかかって、糸の晒しができます。重ねた上の方は先に晒されますから、約30分ほどたつと上下を入れ替えてやって、下の方も十分に晒すようにしてやるのです。」

 (イ)水洗いと絣絞り

 水洗と絣の特徴である絞り(括(くく)り)について、**さんと**さんの話を聞いた。
 「晒しが終わると、隣に同じような槽をもう一つ造ってあるのです。晒した糸をそこへ移します。それから上に置いてあったブリキの板を、レールでごろごろ移動させます。今度はもう一つの井戸からきれいな水を、晒した糸の上に落としてカルキを除いてやります。その井戸水ですが、この辺りは水に金気(かなけ)が多いのです。そのために一間(けん)(約1.8m)四方で深さ50cmくらいの木の箱を作りましてね、浜から砂を持って帰って入れて、その上へ汲み上げた水をかけて、濾過(ろか)(多孔質(たこうしつ)の物質の層を通して、水などに混じっている不要なものを除くこと)していました。すぐに砂が真っ赤になるので、砂を洗ったりもしました。本当にしんどかったし、めちゃくちゃに忙しかったですよ。その濾過した水を2間幅で高さ3mくらいのレンガの槽に常時ためていました。
 糸の量は、一工程で15貫目(約56.3kg)でした。経費がかかるので、結構多めに入れていました。たく人、晒す人、染める人、染めてからの工程の人とそれぞれ男の人が働いていました。
 次に水分を取ります。基礎の台の上に晒し終わって束にしたものを、四つくらい重ねて置きます。その上からねじの付いた鉄板を、腕力で締めて行きます。
 水分を取ってしまうと、次は絣の柄を作るために絞らないといけません。絞り専門の作業場は、市内の中村町と馬木町にありました。柄によって絞り方が違うから、どの柄の絞りにするか、こちらから指示を出します。1日分を夕方取りに来て、翌朝持って来ていました。左右の足を操作して絞り糸を回転させて柄を作っていました。最初は自分の工場でしていましたが、量が増えたのでそういう専門の所に頼むようになったのです。」

 (ウ)藍染め

 地中に埋めた藍壺(あいつぼ)に藍を発酵させ糸を染める作業について、**さんと**さんは次のように話す。
 「絞ってきたのを、今度は染めやすいように束にします。絞った糸が重ならないように、50cmくらいの長さの束を作っていくのです。藍壺に入れやすい大きさなのです。
 徳島の藍を市内の西堀端の藍屋さんから買っていました。かます(わらむしろを二つに折り、両端を縄でつづった袋)に入った藍でした。そして染め上がり用としては福岡の大牟田(おおむた)市の化学工場から買ったドラム缶入りのねばねばしたインジゴという染料を使っていました。よく染まるようにサツマイモの粉末を補助剤として混ぜていました。
 藍壺は一抱えよりまだ大きいくらいで、深さが1m50cmくらいで、50個から60個くらいありました。壺に藍と一緒にカセイソーダを入れて、その壺の横の所には20cmくらいの素焼きの筒が付いていました。藍は生きているから熱が出て、1日中煙が出ているのです。藍が死なないように、1年中順に上へ上へ足して行くのです。常時蒸しているのですが、ベテランの職人は舌で壺の藍の表面をなめて、味をみていました。ちかちかするのが良いそうです。その職人の歯は藍色に染まっていました。そういうふうにして、いつも同じ状態を保つようにしていたのです。金蠅(きんばえ)色というか、紫色をしたり、金色をしたり、銀色をしたりした泡がぼこぼこ出て、何ともいえない感じで今でも目の前に浮かんできます。
 先ほどの巻いてそろえた糸の束を、藍の中へ入れて染めます。竹についているところは染まらないので、もう1本別の竹を束の中へ入れて、上下逆にしてやり、始めの竹のところも染めてやります。そして2本の竹の上の方の部分を、藍壺の上で両手でねじって、藍の液を壺に落としてやるのです。そのとき下の竹は足で踏んでおきます。次に絞りのぎりぎりまで隙間(すきま)なくきちんと染めてやるために、下の竹をはずして上の竹だけで、糸の束を頭の上まで振り上げて、土間にたたきつけてさばいてやります。それをまた壺に漬けて染めるのです。この作業を何回も何回もして、隙間を広げきちんと染めてやると、紺と白のきわがくっきりするのです。きちょうめんな職人でないと、なかなか出来ない仕事で、10回くらいはさばいたものです。多いときは20回することもあったようです。それで絣の質も決まるのです。きれいな絣が出来る、出来ないがこのさばきで決まるのです。これも大変力のいる仕事でした。」

 (エ)のり付けから台巻きまで

 絣を織れる状態にするための作業について、**さんと**さんの話を聞いた。
 「染まったら、織れるようにしないといけません。そこでのりを付けるのです。メリケン粉でのり付けをするのですが、活発な(粘着力が強い)のりではいけないので、熱湯を入れて水を足してやりながら、さらさらに近いのりを作るのです。中までのりが入らないと、糸が団子になって筬(さお)(経糸(たていと)の位置を整え、緯(よこ)糸を織り込むのに用いる。竹の薄い小片を櫛の歯のように列(つら)ね、長方形の枠に入れたもの)へ通らないのです。のり付けの人も専門で、染める人とは別なのです。一抱えくらいの桶(おけ)にのりを入れ、染めた糸をつけて1時間くらい沈めておきます。それから引き上げて絞るのですが、のりが効き過ぎてもいけないし、効かなくてもいけません。その加減は微妙で手触りで決めるのです。絞り器は一方を固定したフックに糸の束をかけ、もう一方のフックは回転するようになっています。それで絞ってやります。
 絞ったかせ(一定の長さの枠に一定回数糸を巻いてから枠を取り外し、それを束ねたもの)状の糸を竿(さお)に通して、乾きやすいように素麺(そうめん)を干すように、ふわっと両手で広げてやるのです。これもこつのいる作業です。それを天日で干すのですが、雨になったら大変で、のりがあまくなるといけないので、一家総出で一生懸命しまったものです。いつも空を見て、雲の流れや小さい虫の飛び方で、雨になるとかならないとかを予想しました。ラジオの天気予報よりよく当たりましたよ。かせ干場は板壁に工夫して雨がしぶいても中へしぶきこまないように、また風の通りがよくなるようになっていました。
 次に染めの前の絞りをはずさないといけません。昔の道路はめったに車が通らないから、道ばたで向こうとこっちで長く引っかけておいて、回しながら絞りをはずしていきました。はずしたものは非常に強いものでしたので、次の絞りのときにも使うようにしていました。絞りをはずした糸をもとのかせの状態にかえしてやります。そして最初晒した槽に濾過した水を入れてその糸を一晩漬け、翌朝出してやります。絞ったところは固くなっていますから、糸が一本一本分かれるように、きれいにさばいてやります。染めのときと同じように、頭の上まで振り上げ振り上げ、土間にたたきつけて織りに対応できる糸にして行くのです。そうするとのりでくっついている糸が離れて、絣糸らしい白と紺のきれいな糸になります。そしてそれを、固定した2本の柱状の糸巻き台にきちんとくっつけて巻いてゆきます。紺の部分白の部分がすっきりと一つの筋になるように、柄を合わしながら巻きます。均一に張りながら巻き、その状態で干してゆきます。そうすると乾いても伸び縮みしない糸になるのです。」

 イ 絣の機織り

 **さん(松山市西垣生(にしはぶ)町 昭和16年生まれ)に、絣の機織りについて聞いた。**さんは3人きょうだいの長女として生まれ、小さいときから絣織りの手伝いをして育った。平成12年(2000年)にえひめ伝統工芸士(愛媛県の伝統的な特産品の製造に20年以上従事して、高度な技法や技術を保持する人に県が贈る称号)の認定を受けている。現在は松山市久万ノ台(くまのだい)にある伊予かすり会館で週2日機を織り、週1日地元の垣生小学校でかすりクラブの児童の指導をしている。

 (ア)絣にかこまれた子どものころ

 **さんは、「祖母と母が農業の手伝いをしながら、足踏みの機を織って生活をしていたのです。私も手伝いましたが機に足が届かないから、かせを繰ったり糸を取ったりしていたのです。そのころは垣生の今出(いまづ)には20軒以上絣工場があって、機織りが盛んでした。道を通るたびに機の音が聞こえていました。中学校に入ってから足踏みで織り始めました。足踏みは母が織るのを見よう見まねでしたのです。冬の寒いころはしもやけが出来て糸が手にくいこんだりして、はさみで切ったり針で突いたりしてつらかったですよ。みんなが遊んでいるのに、手伝わないといけないので、苦労しました。そのころは、半纏(はんてん)やでんち(袖無し半纏)とかきもの、布団、座布団など家の中は絣だらけでした。参観日には、お母さんたちは絣のきもので学校へ来ていました。そういえば昔垣生の小学生の制服が絣のときがあったということを聞いたことがあります。」と話す。

 (イ)絣織りや絣柄について 

 絣工場での仕事の様子や絣柄の種類について、**さんの話を聞いた。
 「私は中学校を卒業してすぐ、近くの絣工場へ入ったのです。昭和29年(1954年)の春、そこで働いている人は20人くらいはおりました。絞りする人、染める人、管巻く(1本ずつに分けられた緯(よこ)糸を、杼(ひ)にセットする管に巻き付けること)人までそれぞれ仕事は別なのです。私は動力織機で織るだけでした。出来高払いで、一巻き織ったら賃金いくらです。一巻きであの時分、50円くらいでした。1か月の給料が大体2,000円くらいでした。それでけっこう生活は出来ていたのですよ。織り上げた物に検査があります。A反(正反)が合格で、B反が出たら格外ではねられるのです。糸が切れていたり、柄がずれていたりするといけません。A反はそれこそぴっしりきれいにそろっているものをいうのです。『今月B反が3反も出ていたよ。』などと言われて、『ああそう。』などと知っていてもとぼけたりすることもありました。検査は丈盤(じょうばん)(織物を計る定規)にかけてメートルで計るのです。正反になると、どんどんどんどん良い値で売れてゆきます。B反はB反なりに下げて売ります。染めむらの製品などは安く端切れのようになります。
 早く結婚して子どもが3人出来ました。私が30代で下の子が中学1年のときに、夫が亡くなりました。それから白方機織所でタオルの仕事をするようになりました。昭和48年(1973年)に伊予かすり会館が出来てから、そこで足踏みの機で絣を織るようになりました。朝は早くから起きて新聞を配って、それから仕事に行きました。夜も寝ずに働きました。おじさんや周りの人が助けてくれて、子育てをすることが出来ました。
 絣の柄には経(たて)絣、緯(よこ)絣、経緯(たてよこ)絣、無地絣などがあります。また大柄、中柄、小柄とか絵絣と幾何文様などに分けることもあります。まずどんな柄にするか柄見本を参考にして、柄の案を決めます。糸を絞る方法は絣計算による方法、型紙を使って種糸を作る方法、絵図台で種糸を作り緯糸を絞る方法などがあります。それぞれ柄が白く浮き上がる所に印を付けて、そこを防染性のビニロンなどの強いもので絞ってゆくのです(口絵参照)。
 経糸や緯糸の本数や長さを準備する作業を整経と言います。経糸は絣糸と無地糸に分けます。緯糸は20本を基本にして準備をします。この作業中はたくさんの糸を引っ張るので、糸の張り具合を均一にしたり、糸を切らないようにしたりと細かい神経を使わないといけません。経糸と緯糸の両方で模様を織り出すときは一番気を遣います。ちょっとでもずれるとそこから後がおかしくなります。そこで解いて織り直さないといけません。染めがうまくいってないときも気を遣います。よく見て調整しながら織り込んでゆくのです。」

 (ウ)かすりクラブや絣織りの日々について

 小学生との交流と糸の道に入ってからの日々の思いを**さんから聞いた。
 「垣生小学校の世話をしに来るなどとは、夢にも思っていませんでした。えひめ伝統工芸士の認定をいただいているので、『小学生のクラブ活動の手伝いに来ないか。』と言っていただきました。機もあちこち壊れていましたが、知り合いの大工さんに直していただいて、去年の冬ころから実際に動き始めました。この4月から、かすりクラブが始まりました。『おばちゃん来とるん、機織らして。』と言って寄って来てくれるのが、嬉しい。『娘さんになって、学校卒業しても織りにおいで、おばちゃんおらんようになったら、あと継いで。』と言うと、『そうやねー。』とにこにこしてくれます。近くの鉄工所のおじいさんもよく機を直しに来てくれます。垣生で機の組み立てが出来るのは、あの人くらいでしょう。垣生にもう一人くらい織れる人がいたら、いろいろ相談したり話したり出来てよかろうと思うのですが、もう今はおりません。
 糸の道に入って、柄を織っているのが、何より楽しかったのです。一日中織っていてもあきがきません。しんどいなどと思ったことはありません。出来上がったら楽しいし、売れたらまた嬉(うれ)しい。買ってくれた人は、どんなふうに着ているのかしらとあれこれ想像するとまた楽しいのです。」

 ウ 鍵谷祭(かぎやさい)

 鍵谷カナ媼頌功会(おうしょうこうかい)会長の**さん(松山市西垣生町 昭和9年生まれ)に鍵谷カナと鍵谷祭(写真1-1-14参照)について聞いた。
 「鍵谷カナは西垣生村今出(いまづ)で天明2年(1782年)に生まれました。自分の家のわら屋根をふき替えるとき、押し竹をしばった跡が白く残っているのを見て、伊予絣を考案したといわれております。明治19年(1886年)には垣生の三島神社に鍵谷カナの頌功碑が建てられました。
 その後村上霽月(むらかみせいげつ)(今出絣の実業家・俳人)先生が中心になって、村の産業を盛んにしないといけないということで、鍵谷カナ媼頌功会をつくりました。そしてカナの命日の5月28日に遺徳をしのぶ祭りを行うようになったのです。最初は機屋だけではなく一般の村人も参加していました。会のお世話は機織物の今出支部の方が行っております。鍵谷堂(写真1-1-14参照)は昭和4年(1929年)に建設したのですが、土地は村上霽月先生の無償貸与です。建物は織物組合が中心になって建てました。その建物も現在は国の有形文化財になっております。また鍵谷カナの胸像は松山城の長者(ちょうじゃ)ケ平(なる)にあったものを、昭和58年(1983年)に伊予かすり会館に移したのです。
 鍵谷祭は平成2年(1990年)になって垣生公民館と共催になり、地域の人々や垣生小学校、垣生中学校の参加を得てより活発なものとなってきました。公民館では絣織物の展示と古くからの絣柄のパネル展示をしています。中学生は俳句の発表や句碑巡りを行い、生徒代表が鍵谷祭に参列します。小学生も鍵谷祭記念なかよし集会を開いて、カナについて調べたことや俳句の発表、機織りの観察や句碑巡りを行います。なお今年から垣生小学校にはかすりクラブが出来て、絣の機織りの実習やワタの栽培が行われるようになったと聞いております。伝統のものに対する地域の新しい動きとして、大いに期待されております。」

写真1-1-14 鍵谷祭の日 垣生小学校生の校外学習

写真1-1-14 鍵谷祭の日 垣生小学校生の校外学習

松山市西垣生町。鍵谷堂。平成16年5月撮影