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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)湯のし屋

 ア のれんを守って 

 反物は生地によって耳(織物の織り幅の両端)のほつれたもの、緩んだもの、布目の曲がったもの、熱を与えると縮むもの、水気で地づまりするものなどいろいろある。このような生地を地直(じなお)し(布地を裁断する前に、アイロンなどで、布地の目を正し、平らにすること)しないで仕立てると、印づけがしにくい上に、表と裏のつりあいが悪くて落ち着かなかったり、仕上げのアイロンを当てたら狂ってしまったりして不出来の原因となり、着ているうちに狂いがでるきものになるといわれる。狂いのこないきものを仕立てるには、反物を裁つ前にじゅうぶんに地直しをしておくことが大切であり、これが不十分だと狂いが生じるので、とても念入りに行う(⑨)という。
 地直しの方法には、湯のし、アイロン仕上げ、水通し、湯通し、耳の整理などがあるという。きものに仕立てる前の重要な仕事としての湯のしを長年続けてきた**さん(松山市土居田(どいだ)町 昭和13年生まれ)は、5代目の湯のし屋で、創業は弘化3年(1846年)だという。その**さんに湯のしへの思いなどを聞いた。
 「私は、この仕事を19歳から始めました。昭和32年(1957年)ころは父親(明治35年生まれ故人)が店主で、私は見習いみたいなものでした。小さいときから父親の仕事を見て育ちましたから別に仕事の内容に違和感はありませんでした。祖父の時代は染め物もやっていたようです。仕事の中心は呉服屋の反物を扱っています。呉服屋で買った反物をそのまま仕立てて着ると硬くてきものの柔らか味が出ません。そのための湯のし屋です。
 昭和30、40年代は1日200反(並幅の布1反は、大人のきものの1着分の分量)か、300反が店に持ち込まれていました。水通し、湯通しした後、反物の両端をはさんでぴんと張って干します。すべて天日干しで30分もあれば乾きます。幅だしの機械が早くに導入されましたから伸子張(しんしばり)(竹ひごの両端に針をさした伸子を使い、布をぴんと張ること)はほとんど使いませんでした。その後湯のしをしますが、機械にかけると2分足らずで1反ができます。機械にかけるようになると早いのですが、その前の段取りに時間がかかります。1反ずつ機械にかけていたのでは時間がかかってしまいますから、同じ幅の反物30反ぐらいをつないで1本にします。手縫いでつなぎますから時間がかかります。そして幅だしが出来た製品を1本ずつまとめるため、すぐ外れるように弱い糸でつなぐわけです。1回の湯のしでは布目がそろわないものもあるので、そのときは、反対から入れて布目がそろうようにします。昭和40年代までの忙しいときは夜の1時ぐらいの就寝が普通で、休みは正月と祭りぐらいでした。
 私は子ども時代を松山市土居田町で育ちました。小学校時代はこの場所に10軒ぐらいの家があった程度で、家の裏は水田でした。昭和30年ころは、この場所から石手川の堤防が見えていましたが、その後多くの住宅が建ちました。
 現在は洗い張りと丸洗い、湯のしを営業していますが、以前は湯のしだけでした。息子(昭和40年生まれ)が後を継ぐと言いましたから、湯のしだけでは将来生計は立てられないと思い、広島へ修業に行かせました。それまで外注していた洗い張りや丸洗いの資格(経験年数が10年ほど要する国家試験である染色補正作業1級技能士とクリーニング免許も必要)を息子が取ってくれましたから今はその仕事も含めて営業しています。」

 イ 戦後独立して

 戦後、湯のし屋として独立し、現在は息子の**さん(昭和38年生まれ)が後を継ぎ営業を続けている松山市泉町の**さん(昭和12年生まれ)**さん(昭和14年生まれ)夫妻に話を聞いた。
 「昭和27年(1952年)にこの松山市泉町で父が湯のし屋を始めました。父は、東京生まれで独身時代には、日本全国をまわって呉服を整理する仕事を仲間数人でしていました。今は呉服を丸まきにしていますが、以前はお客さんに綺麗にわかりやすく見せるため今でいう平たたみにすることです。湯のしをすることや呉服の仕事全般も整理と呼んでいました。その当時は足ふみの湯のしの機械を使っていたそうです。この泉町で独立するまでは、近くのタオル工場の一角を借りて洗い張り、染め、湯のしをしていました。
 湯のし屋は、呉服屋からの反物を湯のしします。振袖、留袖、訪問着は仮縫いの状態で持ち込まれます。それをほどいて最初の反物の状態にミシンでつなぎます。つなぐのもミシンでする前は手縫いで時間も手間もかかり大変でした。反物は生地がつっていたり、布目がゆがんでいたり、しわになっていたりしますから、それを伸ばします。結城(ゆうき)や紬(つむぎ)系統の生地は糊(のり)がついている場合が多いので湯通しして糊抜きをします。そして、天日で乾燥させ湯のしの機械にかけます。
 以前は、おがくずを燃やして蒸気をあげて、湯のしの機械をかけていましたので大変時間がかかっていましたが、昭和36年ころからは灯油でボイラーをたいて機械をかけるようになったので早く湯のしが出来るようになりました。呉服屋からだけでなく、洗張り屋からの湯のしもしています。昭和30年代には、松山市近郊に30軒余りの洗張り屋があり、島からや他の郡部からもたくさんの湯のしの仕事がありてんてこ舞いでした。今は随分減りました。この泉町は地下水が豊富に使えて、松山の中心商店街にも近く私どもの店の立地条件は最適でした。
 湯のしをすると光沢が出て見栄えがよくなるのと、反物の両端もきちんと揃うので仕立てやすく、反物の両端や布目がそろうので仕立てあがりが良く、光沢がでて見栄えがよくなります。生地によって幅の出るものと出ないものもありますし、湯通しすると縮むものもありますから、それを見極めるのが大変です。基本的には新しいきものを扱うことが多いのですが、古いきものの場合はほどいて、洗って湯のしをします。そうして、また仕立て直しをしますと、新しいきもののように生き返ります。子どもさんやお孫さんに『自分のきものを着せたいから』と言われる方にも大変喜ばれます。大正時代のきものを湯のしして、洋服や手工芸品を作る方もいます。
 このような仕事をしてよかったのは、いいきもの、反物を見ることができたことです。じっくり見ている暇はありませんが、いいものを見る目ができたと思います。『仕事する人でなくて、着る人にならなくてはいけないな。』などと夫と話して笑ったことも思い出されます。嫁いできた昭和37年(1962年)ころは忙しく、反物を縫うのに手がほしく、縫い子さんに出していたことがありましたので、これは大変な家に嫁いできたと思いました。夏はクーラーがなかったので、機械の熱い蒸気で、それこそ熱地獄でした。忙しいときには時間が不規則になりますし、天日で乾燥させるものがあるときはお天気次第で、浴衣地が多く出るのは雨の多い梅雨時で特に期日が気になりはらはらすることもあります。昭和40年代の後半のことですが、クーラーが入ったときは本当に嬉しかったのを覚えています。
 私が嫁いできた昭和37年(1962年)ころは、家の前の通りにはいろいろな店舗があり、この近辺で生活のすべてがまかなえる泉町の中心的な場所でした。うどん屋、タバコ屋、肉屋、酒屋、八百屋、魚屋、寝具屋、美容室などがありましたが、昭和の終わりくらいから随分変わりました。以前の店がなくなってしまい、マンション、駐車場などになりました。店を経営していた人が高齢で、後継ぎがおられなかったのが一番の原因だと思います。」