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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)「むら」に生きる

 ア 農村の装い 

 都市(まち)に対する集落のことを村落(むら)と呼んでいる。むらは、第一次産業に従事する人々の構成する集落であり、通例、機能上から農村・山村・漁村に分けられている。都市に比べて、自然環境との結びつきが密接であるとともに、生活共同体的意識が強かった。しかしながら、高度経済成長の訪れとともに、生活共同体としての性格は弱くなっているのも事実である。
 ここでは、むらを主な生活の舞台としてきた人々への聞き取り調査を通して、普段の装いについて探る。
 田畑などで働くときに着用する衣料を野良着と呼び、かつては田植えや除草などの田仕事では、腰あたりまである身丈の短いきものであったのに対して、畑作業にはやや長い膝位のものが着用されていた。
 また、野良着は単独で使用されることは少なく、気候や作業に合わせて自由に組み合わせることができ、機能的な構造になっていた。麻や木綿など丈夫で耐久力のある布が素材とされたが、さらに少しでも長く使えるようにあれこれと工夫したのであった。

 (ア)米づくりの里で

 西予市宇和(うわ)町清沢(きよさわ)地区の**さん(大正4年生まれ)に、戦前・戦後の暮らしや野良着、普段着などについて聞いた。
 清沢地区は、宇和盆地北部、宇和川上流域に位置する宇和米の産地である。
 **さんは、「私は、田を1町2反(1.2ha)と畑を2反5畝(せ)(25a)のほか、山も少し所有していた農家の長男として生まれました。しかし、父は体が弱く労働力が必要でしたので、大正11年(1922年)に尋常小学校へ入学するころから、田植えや田の草取り、稲刈りや麦刈り、脱穀などの手伝いをしました。
 尋常小学校の6年生(昭和3年)ころまではきものに木綿の袴(はかま)を着用しましたが、その後は学童服に変わりました。いつも大きいものを買って縫い上げをしたり、またお下(さ)がりにしてぼろぼろになるまで着ました。
 少年期は養蚕(ようさん)が最盛期で、畑にはクワを栽培していましたので、クワ摘みの作業を手伝いました。養蚕は田の仕事と時期が重なるため、忙しくて家族総動員で夜遅くまで働きました。養蚕をやらない者は変わり者のように言われていたころで収入も大きかったのですが、大正末期になると養蚕も落ち目になり、繭(まゆ)の価格が暴落したので、水田にできる桑畑はすべて水田に変えました。その後は稲作中心に農業を続け、収穫後の農閑期には、筵(むしろ)や俵作り、縄ない(わらなどを材料としてよりあわせ、縄を作ること)などのわら仕事に精を出しました。農閑期とはいえ忙しい日々を過ごしました。
 昭和初期のころまで、父親は農作業のときには、晒(さら)しの褌(ふんどし)と古くなった浴衣や絣(かすり)のきものを着て帯を締めていました。冬には股引(ももひき)(腰部から脚部をおおう男子用下衣)や半纏を着て、日本手ぬぐいで頬かむりをしたり、目だし頭巾(ずきん)(両目だけを現し、他の部分をおおい隠す頭巾)をかぶっていました。腕貫や手甲、軍手なども使っていましたが、草鞋(わらじ)はほとんど履きませんでした。
 私は、昭和20年に復員した後、夏には白色の木綿のシャツにベージュ色の作業ズボンを、冬にはメリヤスの厚手のシャツにボタンの付いた作業着の上着、派手でない木綿のズボン、古くなったぽんし(防寒用に着用する綿入り袖なし羽織)などをずっと着て働きました。
 普段着は夏は浴衣、冬には木綿の袷の上に防寒着としてぽんしを着ました。よそいきは夏は白絣のきもの、冬はセルのきものに羽織を着て、中折れ帽や鳥打ち帽、パナマ帽をかぶりました。」と話し、続いて、雨や暑い日の仕事に使用した蓑(みの)(カヤ・スゲなどを編んで作ったマントのような雨具)や笠について、**さんは、「清沢地区では、蓑を一部の主婦が内職として、昭和30年ころまで作っていました。蓑の材料になるカヤ(ススキ・ヨシ・チガヤなどの総称)は前の年の盛夏のころに、丈夫に育ったものを選び出して刈り取り、清流に1か月ほど水漬けして葉緑素を抜きます。次に1週間程度夜露に晒(さら)した後、乾燥して仕上げます。しかし、カヤは限られた場所でしかとれず、なかなか手に入らないために稲わらを主に使い、水はけが大切な背にあたる部分などのみにカヤを使いました。
 蓑は雨の日の苗代での苗取りや田植え、水の見回りのほか夏の炎天下の草取りなどでは日よけにも使いました。そして、ひどい雨のときには、油紙に紐(ひも)を付けて蓑を被(おお)いました。
 また、当時は、隣の田苗(たなえ)地区は竹皮笠の産地として知られており、タケの親骨にタケの皮を置き、細いひごで押さえ糸で止めて作っていました。」と話す。
 さらに、西予市宇和町清沢の**さん(大正9年生まれ)に、普段着や濃紺のサージの会服、綿帽子などについて聞いた。
 「私は昭和元年(1926年)に宇和町(うわまち)尋常高等小学校に入学しました。近くの開明(かいめい)学校(西予市宇和町卯之町にある明治時代に創立された小学校)では、お作法や裁縫も習いました。子どものころは、ほとんどきもので通学し、洋服はまれでした。格子の柄が入った木綿や絣のきものを着ることが多かったと思います。  
 東宇和高等女学校(現宇和高等学校)に入学すると、制服が出来るまでの半年間は、きものの上にえんじ色の袴(はかま)をはき、黒の靴下と革靴を履きました。制服は紺のサージ(綾織りの洋服地。毛・綿・絹・ナイロンなどを使い、紺や黒の無地の物が多い。耐久力に富んだ実用的な布地)で、背広のような襟の四つボタンの上着と下は折りスカートでした。普段着としてはモスやもおか(栃木(とちぎ)県真岡(もおか)付近から産出する丈夫な木綿。浴衣地や白足袋用)のきものを着ていました。
 女学校を卒業して、4年間ほど代用教員をしましたが、学校では紺色でテーラードカラーのサージの洋服と折りスカートでした。タイトスカートは腰の線が出るためはきませんでした。社会人となってから普段着は、夏は半袖の簡単服(夏に用いる簡単なワンピース仕立ての婦人服。俗にあっぱっぱという。)を、冬には大柄な花や鳥の模様の入ったモスのきものを着ていました。
 昭和17年(1942年)に結婚して母の郷里の清沢に来ましたが、結婚と同時に夫は南満州鉄道会社(*1)に就職したため、私も一緒に満州に渡りました。昭和22年に清沢へ引き上げて来て、夫は三男のため本家に居候をして、長い間本家の農業の手伝いをしました。
 このころの普段着は、夏は家にあった布で簡単服を縫ったり、冬には木綿のきものを着ました。特に寒いときにはきものの上から肩に綿帽子を掛けました。非常に温かいので、冬から春の仕事として家族みんなのものを作りました。昭和30年ころには木綿の縞の反物を買い、もんぺ(袴の形をして足首のくくれている股引に似た女子の保温用または労働用の衣服)を縫ってはきましたが、1反あれば2枚作ることができました。ただ水に触れると生地が縮むので、最初に水を通した後、乾燥させてから裁断して縫いました。
 昭和34年には、利便性があることや華美にならないようにと、婦人会で濃紺のサージの会服を作り、学校の参観日や町での買い物、葬儀などにもきものの上に着るようになりました。へちま襟の付いた筒袖の上着ですが、外へ出る際に何を着て行こうかと考えなくてよいので大変便利でした。昭和40年代の終わりころまでは使っていたと思います。夏の会服もありました。襟のない半袖のブラウスです。真夏の会合などに着て行きました。
 また、昭和40年ころまでウールの茶羽織(丈が腰までの女性用の短い羽織)やホームスパン(経(たて)・緯(よこ)に太い手紡ぎの毛糸を用いた手織りの毛織物)のトッパーなどを作り、銘仙のきものの上に羽織りました。」
 愛媛県連合婦人会が編集した『愛媛県連婦40年のあゆみ』によると、昭和30年(1955年)には、『えひめ婦人の歌』とともに、婦人会服が指定されたという。同書には「会服は、和服、洋服どちらの上にも着られるものを、と袖幅の広いものにしたが、その後、会員の要望で洋服向きの、袖幅を細くしたものも作った。ベージュとクリームの生地で衿にししゅうを施した夏会服もできる。」、また、昭和52年度の項には、「☆洋服用の婦人会服できる☆この五十二年度、婦人会服に洋服用(C型)ができた。会員の要望に応えたもので、生地は、エステル100%、色は和服用と同じ濃色、衿型テーラ。価格は特大が二千二百円、大中小はいずれも二千百円。従来のゆったりした和服・洋服兼用のA型(衿あり)B型(衿なし)と合わせ、婦人会服が三種となった。(②)」と記されている。
 また、濃紺の会服について、昭和35年5月4日の日本農業新聞愛媛農家小組合版に、「第8回県農協婦人部協議会通常総会が、4月26日松山市堀之内の県民館で開催され、5千人を超える参加者があった。ほとんどの参加者は濃紺の会服を身につけて、さしもの広い県民館もこの黒い波で埋めつくされ、全員が手にする大会資料の印刷物の白さが目にしみた。」とあり、当時多くの女性がこの会服を着用していたことがうかがわれる。
 今少し、この会服について詳細にみると、濃紺の会服は、襟付きと襟のないU首の二種類あり、紺色のボタンが2個付いていた。一方、夏会服も二種類あり、クリーム色のものは両襟に紺色のししゅうが入り、飾りに丸く小さい同色のくるみボタンが2個付き、ホック止めになっていた。もうひとつのベージュ色のものは、同色に近いししゅうが施され、くるみボタンが5個付き、同じくホック止めであった。これらの会服は、通常の活動で常用されるだけでなく、総会や式典などのときにも、いわば正装として通用するものであった。昭和50年代後半まで盛んに着用されていたのである。

 【綿帽子】
 綿帽子は、くず繭から作った真綿を手で引き伸ばして張り合わせ、長半円の形に整えた婦人用の背中当てである。温かいうえに丈夫で長く使用することができる。
 大洲市大洲地区の**さん(昭和2年生まれ)と**さん(大正15年生まれ)夫妻に綿帽子について聞いた。
 **さんと**さんは、「父親が座繰(ざぐ)り製糸(せいし)(*2)をやっていましたので、昭和35年ころから引き継いで続けました。また、そのころから綿帽子(写真2-1-8参照)作りも始めました。
 作り方は、生糸に繰糸できない玉繭(2匹の蚕が作った一つの繭)やくず繭を布袋に入れて、ソーダ灰を入れた湯鍋でやわらかくなるまで炊きます。やわらかくなった繭から蛹(さなぎ)を取り出して広げます。帽子状の型にあてて引き伸ばし、何個も重ねて20gくらいの真綿を作ります。さらに、真綿を少しずつ人の背の型にあてて均一に引き伸ばし、何枚も重ねていきます。1着の綿帽子におよそ100gほどの真綿を使います。最後にけばだちを防ぐために、表面に小麦粉の糊を薄く塗って固めます。引き伸ばすときには、均一に力を入れないと、厚いところと薄いところができて仕上がりがよくありません。1着つくるのに3~4時間はかかります。真綿は汚れが目立ちやすいため、紺や紫色に染めて作ったこともあります。
 また、真綿は非常に軽くて温かく、布とのなじみがよく、切れにくいので、満州(中国の東北部)に出征する兵隊の防寒用の下着としたり、男性の綿入れのきものに入れました。
 綿帽子はもともと婦人用ですが、かつては真綿を多くして分厚く作っていましたので、背中がふくれるといって嫌う人もいました。また、防寒用の衣類がいろいろ出回ってきたため、使う者が少なくなり、手間や費用がかがるために、私も昭和61年(1986年)に作るのをやめてしまいました。しかし今でも、愛媛県の産業文化祭に出品するときにだけは作っています。」と話す。

 (イ)あたご柿とともに

 西条(さいじょう)市丹原(たんばら)町高松(たかまつ)地区の**さん(大正12年生まれ)と**さん(昭和4年生まれ)夫妻にかつての暮らしやあたご柿の栽培、普段着、仕事着などについて聞いた。
 高松地区は関屋(せきや)川左岸に広がる緩傾斜の扇状地上にある。畑地が多く、昭和5年(1930年)ころまで養蚕が盛んであったが、以後衰退してあたご柿の産地に変わった。
 **さんは、「大正12年(1923年)に農家に生まれましたが、父は田を3反(30a)と畑を1町(1ha)ほど耕作し、畑にはあたご柿とクワを栽培していました。あたご柿は風呂の湯に一晩浸けるか、または焼酎(しょうちゅう)で渋を抜いて出荷していました。
 昭和6年に小学校(田野尋常高等小学校)に入学しました。そのころの通学服は、男子は夏は霜降りの小倉、冬は黒色の小倉の学童服を着用し、女子は木綿地で茶色に黒い線が入ったきものでした。しかし、学童服も兄弟のお下がりを着ている者がほとんどでした。服の袖口やズボンの裾など丈が短くなった部分には、よく似た布を継ぎ足して着ていました。帰宅するとお古の洋服に着替え、防寒着にはでんちを着ました。
 小学校の高学年になると、籠(かご)を背負ってクワの葉を摘んだり、冬休みには山に焚物(たきもの)をとりに行き、束にして家の前にたくさん積みました。
 また1軒に1頭ずつウシを飼っており、世話は子どもの仕事でした。13歳ころからはウシを使って田をすいたり、あたご柿畑の除草などもよく手伝いました。
 昭和23年(1948年)に結婚し、その後も勤めに出ながら、あたご柿の栽培を続けました。
 柿の木の剪定(せんてい)は、発芽前の1月中旬から2月中旬ころまでにします。消毒は芽が出かけたら1回、実がなってから3回の年間4回やります。木製の桶に、硫酸銅と石灰を混ぜた液を作り、手押しポンプでかけましたが、戦後はエンジン付の噴霧機になったので、大変楽になりました。肥料は木の両側にウシを使って溝を掘り、かますに入った配合肥料を1反に1俵(20kg)ほどまきました。畑の除草は鍬(くわ)を使った手作業で、主に女性の仕事でした。近年は耕運機や除草剤を使っています。
 収穫は11月下旬ころから12月中旬ころに行います。大工さんに作ってもらった重い脚立を使って、わらで編んだかごにとりますが、脚立に上がり下りするのが大変でした。収穫したあたご柿は、木の箱に入れて荷車で運搬しました。
 このような仕事をするときには、夏は詰め襟の白いシャツに股引、冬は綿の入った厚手のシャツと股引の上にズボンをはき、防寒着としてでんちや半纏、どてら(衣服の上に着る厚く綿を入れた防寒用のきもの)を着ました。また足元は、黒木綿の足袋(たび)に足半(あしなか)(草履の一種。かかとの部分がなく、足の裏の半ばくらいの短いもの)や草鞋をはきました。田植えのときはシュロで作った蓑(みの)やタケの皮を使用した笠を用い、水田に入るときには戦前は裸足でしたが、戦後の昭和30年代になると、脚半(きゃはん)やゴムの足袋を使用しました。
 かつては、この高松地区の畑は扇状地のため小石が多く、耕作するのが大変なところでした。しかし、昭和40年ころに、面河(おもご)ダムから灌水用の水が送られてくるようになり、潤うようになりました。」と語る。
 奥さんの**さんは、「昭和4年(1929年)に農家に生まれましたが、家では米づくりのほか、あたご柿やタバコ、クワを栽培していました。当時養蚕の収入が多かったので、7人の兄弟は十分な教育を受けることができました。子どものころにはきものを着ていましたが、田野尋常高等小学校に入学してからは洋服でした。また、新居浜市の親戚から毛糸の服やオーバーなどたくさんいただいたので、着るものには不自由しませんでした。
 戦中・戦後には、今治市や新居浜市から金紗や銘仙、紬(つむぎ)、黄八(きはち)(黄八丈。黄色の地に黒・とび色・茶などの縞や格子柄をあらわした絹織物。八丈島の特産)などのきものを持ってきた人が、サツマイモやカボチャ、エンドウなどと交換して帰りましたので、きものには困りませんでした。
 戦後になってからは、肌着に木綿や絣のきもの風の簡単な服を着て、もんぺをはき、エプロンを付けてあたご柿の栽培をしました。よそいきは銘仙のきものをほどき、上下二部式(甲型は洋服式でベルト付きの上着に紐付きの下衣。乙型は和服を上着と下衣に分けたもの)の服を作って着ました。」と話す。

 イ 山村の装い

 山間部においても、地域の風土や労働に適した衣料への工夫がなされてきた。山仕事には山林の管理や伐採、木材の搬出、炭焼き、山畑での雑穀類やいも類の栽培などがあった。山仕事を行うときの仕事着(山着)は、木綿や麻の衣服が適しており、麻の衣服は強いうえに通風性がよいので、夏の仕事着に使用した。ハゼやウルシにかぶれないよう、また、マムシやムカデにかまれないように身体を防護するため、長袖の衣服を着たり、衣料を厚地にして強じんにする工夫をした。
 『美川の歴史と民俗』には、衣服の種類やその利用について次のように記述されている。
 「普段着は地味で丈夫なものが多い。昭和20年ごろまでは、股引を着用して着物の裾を帯にはさんで歩く男の人が多く目についたし、冬になれば、インバ、ヒキマキといった防寒着の着用が一般的であった。
 男子の仕事着は、昭和15年ごろまでは、ハンテンやモモヒキ姿であり、女子はタスキがけに腰巻をつけ、着物の裾をスネの高さに折り曲げて、帯にはさんだ姿が多かった。(③)」       
 上浮穴(かみうけな)郡久万高原(くまこうげん)町大川(おおかわ)地区で造林会社を経営している**さん(昭和12年生まれ)と**さん(昭和15年生まれ)夫妻に、山里の暮らしや仕事着、普段着などについて聞いた。
 大川地区は、石鎚(いしづち)山の南西麓に位置し、久万川の支流大川川に沿って人家が点在する。山地はスギ、ヒノキの人工林で覆われ、林業を主産業としている。
 **さんは、「私は昭和12年(1937年)に8人兄弟の末っ子として生まれました。父は炭焼き(木炭生産)を仕事にしていましたが、ミツマタの生産も行っていました。
 やがて、弘形(ひろかた)第一国民学校(現美川小学校)へ通学するようになり、3、4年生までは絣のきものにちり草履を履きましたが、その後は学童服になりました。普段着もきものでしたが、防寒着にはでんちや半纏(はんてん)を使いました。
 昭和26年に弘形中学校を卒業し、国有林の造林の仕事を7、8年しましたが定期雇いでした。チェーンソー(チェーン状の鋸歯を小型エンジンで回転させ、木材などを切る携帯用のこぎり)が入るまでは、幅の狭い手びきのこ(幅10~15cm、長さ60~75cm)でスギやヒノキを切っていました。当時スギの皮は杉皮ぶきの屋根に使われるためによく売れたので、切り倒したスギの木の皮を朝暗いうちから日の暮れるまで剥(は)ぎ、夜遅く月明かりを頼りに積み重ねて持って帰りました。春は杉皮に虫が入って使えないので、夏の土用(どよう)に入ってから剥ぎました。
 そういった作業のときには、シャツにズボンをはき、脚半(きゃはん)を付け、さらに冬の防寒具として下ばきやでんち・チョッキ・ジャンパーなどを使いました。綿入れの帽子をかぶり、雨の日にはわらやスゲで編んだ蓑(みの)をつけ、大雪の日は藁沓(わらぐつ)(わらを編んで作った深ぐつ)や長靴の上にかんじき(深い雪に足が埋まらないように履物の底につける木の枝や蔓(かずら)などを輪にしたもの)(写真2-1-10参照)をつけて仕事をすることもありました。また、父は昭和40年ころまでは、短いきものを着てズボンをはき、ゲートルを巻いていました。」と話す。
 奥さんの**さんは、「私は、昭和30年ころから営林署の仕事によく行っていました。昭和35年(1960年)に結婚してからは夫と一緒に仕事に行きましたが、山での仕事は車から降りて道具、弁当などを持ち、山道を1時間以上歩くこともありました。朝が早いため昼食は10時と午後2時にとりました。
 山での仕事着は、木綿のブラウスに絣のもんぺ、花柄などのエプロンを着用し、脚半を付け、地下足袋を履きました。防寒着はでんちやボタンでとめるジャンパーでした。朝起きると仕事に行き、仕事が終わるのは夜遅くになるため、いつも仕事着で過ごしていたように思います。」と話す。

 ウ 漁村の装い

 愛媛県東部の西条では、海で働く漁師の仕事着は、昭和初期まで夏に沖へ漁に出るときには、男性は赤い褌(ふんどし)にはちまき姿、冬は褌の上にシャツ、股引、半纏を着用し、女性はきもの、腰巻、脚半、手ぬぐいなどであった。また昭和中期までは、絣や縞の端切れを継いでは刺し、当てては刺した1cm近くの厚さの布地で縫った、水を通さない“どてら”と呼ぶ海着(灘着(なだぎ))があり、このような防寒着を着て働いたという(④)。
 今治(いまばり)市桜井(さくらい)地区で漁業を生業としてきた**さん(大正14年生まれ)に、かつての暮らしや衣類などについて聞いた。
 桜井地区は、今治平野の南東端、頓田(とんだ)川右岸に位置し、東は燧灘(ひうちなだ)に面する。漁業のほかタオル・漆器などの産業がある。
 **さんは、「小学校(桜井尋常高等小学校)に入学したころは、絣のきものに草履を履いていましたが、5、6年生ころになると胴着(上着と肌着の間に着る防寒用の下着)にズボンをはいて通学しました。家での普段着も通学時と同じ服装でした。夜は裸で寝ることが多く、寝間着などはあまり着ませんでした。
 小学校を卒業して、昭和12、3年ころから親や兄弟とともに手漕ぎの船で沖に出ましたが、艪(ろ)は二人で押す二丁艪や3人で押す三丁艪を使ってタコ漁に行ったり、3月から5月初めころには四阪島(しさかじま)近海まで行き、サヨリをとりました。17、8歳ころになると電気着火エンジン付きの船になり、底引き網を使ってシバエビやクルマエビを大量にとりました。そのときの仕事着は丸首の綿の肌着やシャツ、ステテコ、作業服などを着ましたが、夏には上半身裸のこともよくありました。寒くなると厚手のシャツやジャンパー、作業ズボンなどを用いました。また、年寄りは股引に半纏姿が多かったように思います。家の中や近所の会合などでは、夏は浴衣、冬は袷などのきものでした。
 若いときには漁に出られる日はほとんど沖に出ていました。」と話す。
 宇和島(うわじま)市石応(こくぼ)地区で煮干加工の海産物製造と農業をしてきた、**さん(大正14年生まれ)と**さん(昭和8年生まれ)夫妻に、かつての暮らしと仕事着や普段着などの衣類について聞いた。
 石応地区は宇和島湾に面し、狭い海を隔てたところに九島(くしま)がある。生業の漁業は、昭和25年(1950年)ころまでイワシ漁を主とした四手網(よつであみ)13統があったが消滅し、その後真珠の養殖が盛んになった。しかし、真珠養殖は昭和42年(1967年)の不況で衰退し、ハマチ養殖が本格化するようになった。
 **さんは、「農業と煮干加工を生業としていた家の長男に生まれましたが、父は田畑を6反(60a)ほど耕作して麦やサツマイモを栽培していました。一方、煮干加工についてはそのころ石応に網元が5軒あり、その1軒からカタクチイワシを買う契約をしていたので、小学校(石応尋常高等小学校)卒業後の昭和15年(1940年)から17年までの2年間、父を手伝って船で沖の漁場までカタクチイワシを受け取りに行き、煮干の製造に当たりました。
 昭和28年に結婚し、同30年ころから真珠の母貝養殖を始めました。スギの葉を海中に浸けて稚貝を付着させ、それを養殖して大きくなった母貝を真珠会社に売りました。この母貝養殖がようやく軌道に乗りかけた昭和37年には、九州の業者に真珠母貝を売った代金がこげつき、不渡りを出してしまいました。この借金を返済するため必死で働きました。
 煮干加工のときには、主に格子縞などの綿のシャツと作業ズボンで仕事をし、冬には綿入れ半纏や袖のないぽんしを着ました。戦前には漁に行くときは、わらで編んだ蓑や前掛けを使い、頭にはタケの皮を使ったタクロバチをかぶっていましたが、しだいにカッパやゴムの前掛けに変わりました。普段着はほとんど仕事着と同じでした。」と話す。
 一方、奥さんの**さんは、「石応尋常高等小学校への通学服は、男子は学童服、女子は赤や紺色のセーターともんぺに脛(すね)くらいまである袖なし半纏を着ていました。履物は色布を入れて作ったきれいなわら草履でした。
 仕事をするときには、シャツともんぺにエプロンや割烹着(かっぽうぎ)を着け、手袋・腕貫(袖口の汚れを防ぎ、汗・虫の侵入や外傷を防ぐ腕をおおう筒形の布)・麦わら帽子・日本手ぬぐい・ゴム草履などを使いました。
 普段着は、もんぺの代わりにスカートをはくこともありました。防寒着はだいたい半纏やちゃんちゃんこ(袖なし半纏)でした。寝間着は浴衣やネルで作ったきものでした。化粧品はほとんど使いませんが、頭髪には水油(液状の油。特に椿油などの髪油)を使いました。
 また、子どもには、宇和島市内で赤や青色の毛糸を買って手編みのセーターを着せたり、ネルの布で洋服を縫って着せました。」と話す。
 今回の調査では、その当時のスナップ写真を見つけることは困難であった。ハレの日の写真は、残されていたものの、普段着の姿を撮影した写真はまれであり、カメラが一般家庭へと普及するには、高度経済成長の訪れをまたなければならなかったのである。


*1:南満州鉄道会社 ポーツマス条約により、ロシアから獲得した長春(チョンチュン)以南の鉄道及び付属事業を経営する
  目的で、明治39年(1906年)に設立された半官半民の国策会社。
*2:座繰り製糸 生糸製造法の一つ。手回しで煮繭鍋から繭の糸目を繰り枠にかけて、適当な太さの生糸を作る。

写真2-1-8 綿帽子

写真2-1-8 綿帽子

大洲市大洲。**さん宅。平成16年12月撮影

写真2-1-10 かんじき

写真2-1-10 かんじき

上浮穴郡久万高原町大川。平成16年7月撮影