データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(3)祭りのときに①

 ア 祭りと芸能

 年中行事として行われる県内の伝統的な祭りは、農耕の営みと結びついて春季と秋季に行われることが多い。春祭りで五穀豊穣を神に願い、秋祭りで豊作を神に感謝するのであり、祭りは特に農村の人々にとって極めて大切な行事であった。
 祭礼行事の一つとして、神楽(かぐら)、田植神事(例えば今治市大三島(おおみしま)町大山祇(おおやまずみ)神社の一人角力(ひとりずもう))、練り物(多人数で練り歩く催し物)、あるいは各種の踊りなど、地域ごとに特色ある芸能が奉納される。『愛媛県史 民俗下』によると、これら諸芸能には一人で1頭を舞う獅子舞(ししまい)など全県に広く分布するものと特定の地域にかたよって分布するものがあるとし、後者の例として東予西部地域の海岸部・島嶼部(とうしょぶ)の継獅子(つぎじし)(獅子の立ち芸)・櫂練(かいね)り(船で行う練り物)、南予地域の鹿踊り・伊勢(いせ)踊り(三重県伊勢地方から伝わった祝い唄である伊勢音頭にのって踊る踊り)・花取り踊り(太刀(たち)や鎌(かま)などを持って踊る踊り)などをあげている(①)。現在では伝統芸能として、無形民俗文化財に指定されているものも多い。
 高度経済成長期以前の地域社会では、祭りのときにこうした芸能を演じ、またそれを見物するのが人々の大きな楽しみであった。

 イ 春祭りと獅子舞

 (ア)獅子舞と奴練りの衣装

 今治地域では、秋祭りよりも春祭りが盛大であり、その主役とも呼ぶべき存在が華やかな獅子舞である。今治地域の獅子舞は、鳥生(とりう)村(現今治市祇園町、北鳥生町、南鳥生町など)に生まれた高山重吉(こうやまじゅうきち)が明治初期に伊勢(いせ)(現三重(みえ)県の中部地方)のあたりから持ち帰って広めたともいわれ(④)、祇園町の三嶋(みしま)・祇園神社には、昭和49年(1974年)に「獅子舞発祥ノ地」の石碑が建立された。三嶋・祇園神社の獅子舞には多彩な演目があり、今年(平成16年)5月9日の春祭りでは軽快な太鼓の伴奏で、「ダイバ」(天狗(てんぐ)面をつけて悪魔(あくま)払いの舞を舞う。)、「ひょっとこ」(ひょっとこと獅子のユーモラスな掛け合いの舞)、「三番叟」(獅子の上に立つ子どもが三番叟を舞う。)、「キツネ」(狐面をつけた二人が馬跳びや組運動など激しい動きを繰り返す。)、「立ち芸」(継獅子)などが披露された。わけても、見物人からひときわ大きな拍手がわいたのは獅子の立ち芸である。一連の獅子舞の演目が終わると続いて宮出しに移り、神輿(みこし)、奴練(やっこね)り、獅子舞の一団が神社を出発して街を練り歩く。
 三嶋・祇園神社のある鳥生地区(旧鳥生村域をさす総称)は市の中心部に近く、かつては農村地帯であったが時代の流れとともにベッドタウン化し、現在も人口増加が続いている。鳥生地区の自治会長を務める**さん(大正15年生まれ)に、獅子舞の話を中心として昭和20年代の春祭りについて聞いた。
 「獅子舞には、雄・雌2頭の獅子が登場します。獅子頭(がしら)は二つとも同じですが、当時のものは今のものに比べてひと回り大きく、鈴などの飾りをつけると重さが6kgくらいはあったと思います。獅子頭の後ろにつく大きなふろしき状の布は“ゆたん”といい、この中に20人くらい入ることができます(写真2-2-8参照)。
 獅子の舞い方は、鈴がシャッシャッと歯切れのよい音をたてるのがよく、激しい動きのときには鈴がはずれて飛んでしまうこともしばしばでした。獅子舞を演じるのはすべて青年たちですが、それでも獅子頭を使って舞うのは大変な重労働です。   
 獅子舞は単に舞うだけでなく多くの演目に分かれていますが、何といってもみんなが注目するのは獅子の立ち芸でしょう。三継(みつぎ)といって3人で継ぎ、1段目と次の2段目は青年が、一番上の3段目は身軽な小学1、2年生が務めました。1、2段目の青年は、綿の白い長袖シャツに体操ズボン、兵児帯(へこおび)を締めて白足袋(たび)の格好で、手ぬぐいをほおかぶりしました。2段目の頭の手ぬぐいには、3段目を乗せた際のすべり止めの役目があります。履物は、1段目が雪駄(せった)(草履の底に皮をはった履物)などを履いたのに対し2段目・3段目は裸足(はだし)で、これもすべり止めのためです。なお、3段目の小学生の装いは獅子頭をかぶって裾をからげたきもの姿です。
 1段目はなかなか一人だけでは上段を支えられず、左右から一人ずつ肩を入れて支えました。2段目は、自分自身がバランスをとりながら、上に乗った子どもを立たせたり横に持ち上げたりしなければなりません。3段目の小学生もバランス感覚が大切で、重い獅子頭にも耐えなければなりませんでした。
 現在の立ち芸では、段を継ぐ青年たちは袴をはき見栄えのする衣装を着ていますが、当時袴姿で演じていたのはダイバだけです。また、獅子連(ししれん)(獅子舞を演じる集団)の人たちの装束も今はカラフルな法被(はっぴ)ですが、当時は法被自体全く着ませんでした。時代が下るにつれ、全体的に衣装が派手になってきたように思います。
 宮出しから始まる奴練りについては、衣装は昔と全く変わっていません。奴練りは大名行列をまねた総勢18人の行列で、小・中学校生の男子(今は男女混合)が務めました。奴のいでたちは、下から、草鞋(わらじ)、白足袋、脚半(きゃはん)、白い半ズボン、襟なしの白シャツ、手甲、そして三嶋神社の紋が入った法被です。あとは鉢巻きをして、小さな刀を腰の後ろに回して差しています。」

 (イ)獅子舞と地域の青年たち

 獅子舞は戦時中に一時中断を余儀なくされ、戦後に軍隊から復員してきた青年たちが中心となって復興させた。その一人であった**さんは、当時を振り返って次のように語る。
 「獅子舞は、青年団の活動として昭和21年(1946年)に獅子連を作って再開しました。その当時はたいした娯楽がないこともあって、団員が我も我もと参加して50人くらい集まりました。
 練習は祭りの前に40日間程度行いました。大きな農家が練習場所として納屋を提供してくれて、これを宿(やど)と呼んでいました。メンバーのほとんどが農家の息子で、時間を決めて毎晩宿に集まり、夜遅くまで太鼓の音を響かせて練習しました。青年団の女性たちも毎晩やって来て、炊き出しをしてくれました。獅子舞の先生は床屋さんで、なかなか厳しく指導されましたが、私は練習自体が楽しみでした。ですから太鼓の音が聞こえ始めると、何もかも放っぽり出して駆けつけたものです。
 現在の祭りは一日だけですが、当時は5月16日、17日と二日間ありました。獅子は、その間に“使い込み”といって家々を回って御祝儀を集め、それを費用として最後に全員で打ち上げをやりました。昭和20年代前半の打ち上げ前の集合写真が残っていますが、ここに写っている女性たちが着ているのは、物資が不足している当時としては精一杯の“いっちょうらい”(一張羅(いっちょうら))のよそいきだと思います。」

 (ウ)家で祭りを楽しむ

 昭和20年代の春祭りについて、**さんは話を続ける。
 「春祭りには、獅子舞見物のために近郷近在から多くの人が出て、警察官が交通整理に来るほどでした。当時の見物人たちの服装はよそいき程度で、あまり着飾った印象はありません。当時はすでに洋服が圧倒的に多く、和服を着ていたのは少数の年配者だったと思います。
 麦焼き(肥料にしたり防虫の目的で麦わらを焼く。)が終わって、これから田植えにかかる骨休めの時期を野休(のやす)みといいますが、5月の祭りはちょうどこのころにあたります。ですから、祭りになると親戚連中がお互い訪問しあって親ぼくを深めました。祭りには、訪問する側も迎える側も“いっちょうらい”を着ます。すしや刺身などのごちそうを食べて酒を飲み、皆でにぎやかに話していると、やがて家に獅子舞が回ってくるのです。一家の主(あるじ)が羽織・袴姿で獅子舞を出迎える丁寧な家もありました。」

写真2-2-8 獅子頭と“ゆたん”

写真2-2-8 獅子頭と“ゆたん”

三嶋・祇園神社境内。平成16年5月撮影