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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(3)祭りのときに②

 ウ 秋祭りと鹿踊り

 (ア)鹿踊りとお練りの衣装

 鹿踊りは南予の広い地域の秋祭りで演じられる伝統芸能であり、江戸時代初めに仙台(せんだい)藩主伊達政宗(だてまさむね)の長男秀宗(ひでむね)が宇和島(うわじま)藩主として移封(いふう)されたおりに、東北地方の鹿踊りが伝わったとされる。そして、その中でも北宇和郡鬼北(きほく)町清水(せいずい)地区の五(い)つ鹿(しか)踊りは、現在まで古式を伝える鹿踊りの一つだといわれている(⑤)(口絵参照)。
 清水地区は鬼北町内の西部に位置し、東西を山に挟まれ、大宿(おおじゅく)川が形成した細長い谷底平野に沿って集落の点在する農村地域である。ここにある天満(てんまん)神社の11月の秋祭りで演じられるのが五つ鹿踊りで、5頭のシカたちが里に下りて遊んでいるうちに、いつのまにか雌(めす)鹿が行方不明となり、残る4頭の雄(おす)鹿が探し求めて最後にススキの中にいるのを見つけ、お互いに喜び合って山に帰って行く筋書きを表現した踊りである(⑤)。かつては、小学校高学年から中学生までの各家の長男が踊ることになっていたが、子どもが減少した現在は、清水下組(しもぐみ)に住む適齢者を中心にしながら他地区の希望者も募って踊り手を確保している。
 清水地区で五つ鹿踊り保存会長を務める**さん(大正14年生まれ)、同じく清水地区在住の**さん(昭和20年生まれ)、**さん(昭和22年生まれ)に、五つ鹿踊りの話を中心に昭和20~40年代の天満神社の秋祭りについて聞いた。
 「五つ鹿踊りは、1段目から8段目までに分かれています。4頭の雄鹿と1頭の雌鹿による踊りで踊り手は全員で5人、お囃子(はやし)として笛役が3人、長唄役が一人つきます。あとは『天満神社鹿(しか)』と染め抜いた旗を持つ旗持ちがいます。
 鹿踊りの衣装を身につける順序は、まず、肌着の上に股引と法被を着て足袋を履きます。股引は桃色、法被は薄い青色の天竺(てんじく)木綿(比較的あらい木綿織物。天竺はインドの古称)で、昭和7年(1932年)から使い続けています。次に、お腹の位置に太鼓を固定し、鹿の頭(かしら)を自分の頭の上に載せます。さらに前絹(まえぎぬ)を垂らして太鼓を隠し、後ろにはタスキと呼ぶ帯状の布切れを垂らします。
 タスキは鹿が踊るのにつれてきれいに揺れ、お飾りの役目をします。鹿の背筋の形になったものを白い麻で作って付けたり、女の子の着物の帯を付けたりしました。現在は赤・黄・紫の色鮮やかなものになっていますが、派手に見えるようにそうしたのだと思います。
 笛や長唄の役は、かつては深編笠(ふかあみがさ)(顔を隠すように深く作った編笠)をかぶり、紺色の着流し(袴をつけない和装)で足元は白足袋・下駄でした。今は深編笠はかぶらず、天満神社の梅鉢(うめばち )の紋がついた羽織を着て袴をはきます。」
 秋祭りでは、お練りと呼ばれる行列がある。その衣装についても聞いた。
 「五つ鹿は『鹿の子』とも呼ばれ、天満神社のお練り行列を構成する一集団でもあります。行列は『猿田彦(さるたひこ)』(神話に登場し神々の先導役を務めた神)を先頭に『鉄砲』・『弓』などが歩き、中団に『鹿の子』・『代々神楽(だいだいかぐら)(*5)』・『牛鬼(うしおに)』(悪魔払いをする牛の形をした大きな練り物)など、そのあとに神輿が続きます。目(め)見当で言うと、かつてのお練りは全部で100人以上はいたと思います。
 お練りを構成する集団には、それぞれ特色ある衣装がありました。例えば『猿田彦』(写真2-2-13参照)は鼻高面(はなたかめん)をつけて太刀を帯び、高下駄を履いて装束も当時としては派手なものです。また鉄砲役の人々は、陣笠・陣羽織に地下足袋を履き、鉄砲の入った袋をかかげて隊列を組み行進しました。本物の鉄砲を持ち、お練りの出発時やお旅所に着いた時などに号砲として撃ったこともありました。
 お練りの衣装の多くは、幾人かの篤志家(とくしか)が施主(せしゅ)としてお金を出して作ってくれたもので、普段は施主の家に置いて、祭りになると借り出して使っていました。」

 (イ)祭りの装い

 戦前の昭和10年代から昭和30年代にかけての清水地区の秋祭りについて、清水地区在住の**さん(大正4年生まれ)、**さん(大正15年生まれ)、**さん(昭和10年生まれ)の3人の女性に聞いた。
 「秋祭りは、親戚同士で行き来して親ぼくを深める数少ない機会の一つでした。お客さんが来るとせいいっぱいのもてなしをし、また、自分たちもよくおよばれに行きました。帰りには、お土産としてごちそうを入れた重箱を二つもらって風呂敷(ふろしき)に包み、手ぬぐいで身体の前後に振り分け荷物のように下げて持って帰りました。
 戦前の祭りの衣服はきもので、普段のものよりはちょっと見栄えのする銘仙(めいせん)(*6)を着ました。もう少し上等のものでは金紗(きんしゃ)(絹織物の一種。金糸を織り込んで文様を表した高級織物)やお召し(お召し縮緬(ちりめん)の略で上等の絹織物)(写真2-2-14参照)がありました。しかし、今見ると当時のきものはどれも地味で、あまり着る気がしません。
 男性もきもので、羽織を着るかどうかは場合によりました。きものは縞(しま)模様の大島(絹織物の大島紬(つむぎ)の略で鹿児島(かごしま)県の奄美大島(あまみおおしま)を主産地とした。)が多く、若い人は比較的大きな縞柄だったような気がします。下は股引で、山越えをするときなどはきものの裾をはしょって股引を出して歩きました。ちょっと粋(いき)な人はハンチング(鳥打(とりう)ち帽(ぼう))をかぶっていました。
 お客さんを迎えるときには、主婦たちは白い割烹着(かっぽうぎ)(家事や料理などをするときに着る袖のある白いうわっぱり)をつけて、できるだけ小ざっぱりした格好を心がけました。何か地区の行事でお手伝いに出るときにも必ず割烹着でしたが、戦後いつのころからか、あまり見かけなくなりました。」


*5:代々神楽 伊勢で演じられた神楽の一種だが、ここでは白装束で太鼓を打ちながら練り歩く人々をさす。
*6:銘仙 絹織物の一種。縞柄(しまがら)や絣柄(かすりがら)の平織りで、実用着としての丈夫さと絹の風合(ふうあ)いを併
  せ持つ。大正期から昭和前半期にかけて需要が多かった。

写真2-2-13 お練りの猿田彦

写真2-2-13 お練りの猿田彦

鬼北町清水。平成16年11月撮影

写真2-2-14 祭りに着たお召し

写真2-2-14 祭りに着たお召し

**さんが大正期から昭和20年代まで着用。清水下組集会所にて。平成16年7月撮影