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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)文楽を伝える

 ア 大谷文楽の起こり

 文楽は人形浄瑠璃(じょうるり)とも呼ばれ、人形遣(つか)い・太夫(たゆう)ともいう浄瑠璃の語り手・三味線弾きの3者が一体となって演じる人形劇である。代表的演目に『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』(お初(はつ)・徳兵衛(とくべえ)の心中物語)・『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』(赤穂浪士の討ち入りを題材としたもの)などがあり、江戸時代に全国各地に数多くの座(劇団)が結成された。
 県内で、今も文楽の保存活動が行われている地域の一つとして大洲市肱川町大谷地区があげられるが、ここの大谷文楽は、幕末の嘉永6年(1853年)に始まったとされる。この年に12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)が亡くなったため、幕府は全国諸藩に命じて歌舞音曲(かぶおんぎょく)(歌、舞、楽器演奏などの総称)を一斉に停止させて喪に服させた。淡路(あわじ)文楽(現兵庫(ひょうご)県の淡路島の文楽)の一座がたまたま大谷で巡業中であり、命令を受けて一座の大部分の人々は帰郷したものの、一部の座員が庄屋の世話でこの地に滞在し、村の青年たちに文楽を伝授した。それが契機となって大谷文楽の一座が結成されたといわれ(⑨)、以来、大谷地区において淡路流の文楽が長く保存、伝承されて今日に至っている。

 イ 演じ手たちの装い

 大洲市肱川町大谷地区は、肱川の支流大谷川沿いの傾斜地に幾つかの集落が点在する農業地域で、山間部ながら米どころとして知られている。
 大谷文楽について、大谷文楽保存会座長を務める大谷地区在住の**さん(昭和10年生まれ)に話を聞いた。まず、演じ手たちの衣装について語ってもらった。
 「人形を操るには一体につき3人の遣(つか)い手が必要で、それぞれ主(おも)遣い、左遣い、足遣いと呼びます。主遣いは人形の頭(かしら)と右手を動かし、左遣いは左手を、足遣いは足を動かします。3人の中で主遣いがリーダー的存在で、人形の頭の振り方や身体の動かし方により、左遣いや足遣いを無言でリードします。左遣いは人形の左手を自分の右手で操るとともに、あいた左手を使って刀や扇子など小道具を出す役割も果たします。
 主遣いは紋付のきものと袴の姿で人形を操り、まれに裃(かみしも)(上は袖なしの肩衣(かたぎぬ)、下は袴からなる。)をつけることもあります。左遣いと足遣いの二人は、黒い頭巾(ずきん)をかぶって顔にも黒布を垂らし、全身真っ黒の黒子(くろこ)の衣装を身につけます。
 次に、太夫と三味線弾きは、二人とも紋付のきものを着て裃をつけます。かつては太夫が裃を二つ持って来て、その一つを三味線弾きに貸していました。袴は二つとも全く同じですが、肩衣に大小の違いがあって、三味線弾きは小さい方の肩衣をつけました。」

 ウ 文楽の人形

 続いて、文楽の人形について聞いた。
 「現在、この地区にある郷土文化保存伝習館(通称大谷文楽伝習館)の中にたくさんの人形や道具を保存していますが、それらは明治ころから他の文楽一座からこつこつ買い集めたり、新調したものです。
 集めた人形の中には、名人とうたわれた初代天狗久(てんぐひさ)や人形友(にんぎょうとも)(本名清水友三(しみずともぞう)。現徳島市に生まれ、のちに宇和島市に移って明治・大正期に活躍した人形師)が製作した頭(かしら)も多数含まれています。また、人形の衣装も豪華な金糸銀糸(きんしぎんし)の縫い取りのある立派なものが多く、裏地がしっかりしています。縫い付けた龍(りゅう)にガラスの目玉をはめ込んだ凝った衣装もあります。
 昭和58年(1983年)に伝習館が完成するまでは、簡単な小屋を建てて、そこに人形や道具を保存していました。ネズミに食われたりして人形の衣装を幾つかなくしてしまったのは残念です。衣装の破れた部分に裏地だけ作って縫い付けるなどして補修の努力も重ねてきましたが、金糸銀糸などの細かい補修はなかなかむずかしいのです。」
 **さんは、大谷文楽の人形は大阪文楽の人形よりもひとまわり大きいのが特徴だと言う。
 「淡路流の大谷文楽は、本来は野掛(のがけ)舞台(屋外の舞台)で上演しますから、ある程度遠くからでも見えるよう、屋内で演じる大阪文楽のものよりもひとまわり大きく作られています。また、夜に松明(たいまつ)で照らされた中で演じることもあるため、人形の表情がよくわかるように顔の彫りを深くしています。ですから、人形の表情を見ると悪役はすぐに悪役だとわかります。顔の塗りについても、野掛舞台で太陽を受けて顔が輝くように塗りが何回もなされています。
 舞台の演台の高さはだいたい65cmほどあり、しかも人形が大きいですから、人形の遣い手はある程度の身長を必要とします。そこで背の低い人は、ちょうどの背の高さになるように自分で箱型の高下駄を作って履きます。高下駄を履いて動き回ると危ないようにも思えますが、実際にはけっこう安定感があります。下駄の鼻緒を緩めないこと、左右の鼻緒の締め具合を同じにしておくことが大切です。」

 エ 昭和30年代の大谷文楽

 **さんに、昭和30年代の大谷文楽について語ってもらった。
 「私は大谷で農業を営んでいますが、大谷文楽に初めて参加したのは青年時代の昭和34年(1959年)です。そのころは、毎年春の4月か5月に、現在の郷土文化保存伝習館の裏山にある稲荷駄場(いなりだば)の広場に野掛舞台を作って文楽を上演していました。当日は、朝から重箱にごちそうをつめて近隣の人たちが集まって来て文楽を楽しみ、昼になるとそれぞれが料理を分け合ってにぎやかに食べました。見物の人たちは、あまり着飾っていたようには思いません。年配者にはきものの人もいましたが大半は洋装で、野良着でない程度の普段着でした。このころは娯楽が少なく、文楽公演は地元の人たちにとって大きな楽しみだったのです。
 当時の農業は、朝早くから農作業を始める代わりに、正午から午後3~4時にかけてゆっくり休みをとっていました。その間に人形を保管している座長の家に集まり、家の庭で練習しました。野良着のままやるのですが、練習が始まると近所の人たちが見物に集まって来ます。ついつい熱が入って、夕方遅くまで練習が続くこともしばしばありました。
 その後昭和40年代になると、皆だんだんと生活が忙しくなり昼間に集まれなくなったので、練習は夜に変わっていきました。そのころを境に、生活全体が変化していった気がします。」