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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)村芝居を演じる

 ア 村の素人芝居

 かつて人々が楽しみにした地域的行事として、村の素人芝居があった。演じ手は村の青年たちであるが、見物する年配の人たちも経験者であり、村人たちの熱気に包まれた中で芝居が上演されたのである。松山平野の村々では、おおむね昭和30年代まで村芝居が続けられていた。

 イ 村芝居と青年団

 松山市の南に位置する伊予郡松前町中川原地区の昭和30年代の村芝居について、この地区に住む**さん(昭和14年生まれ)、**さん(昭和11年生まれ)、**さん(昭和10年生まれ)、**さん(昭和10年生まれ)に語ってもらった。中川原は水田地帯だが、近年は松山市への通勤者のベッドタウンとしての性格を強めており、人口増加が続く地区である。
 「中川原の芝居は青年団が主催していて、昭和35年(1960年)くらいまで続いたと思います。3部構成の芝居で、まず新派劇(近・現代をテーマとした劇)、続いて幕間(まくあい)に踊りが入り、最後が時代劇です。新派劇では『父帰る』(大正・昭和期の作家・劇作家である菊地寛(きくちかん)の代表作)などを上演しました。また踊りでは、日傘(ひがさ)を持って野崎小唄(のざきこうた)(*7)で踊ったり、タップを踏むダンスを披露しました。観客を最もわかせたのは最後の時代劇で、だいたいは股旅物(またたびもの)(*8)のチャンバラ劇でした。『国定忠次(くにさだちゅうじ)』や『番場(ばんば)の忠太郎』、股旅物以外では『白波五人男(しらなみごにんおとこ)(*9)』などを上演しました。
 当時の青年団は男女合わせて50~60人ほどいて、その半数くらいが役者として出演しました。年齢の比較的若い者がせりふの多い役を務め、先輩にあたる人たちが『その他大勢』の役や裏方にまわることが多かったと思います。」
 **さんたちは、公演に向けて1か月以上前から練習を始めたという。
 「毎年、芝居の公演は5月1日の春祭りの日でしたが、稽古(けいこ)は3月下旬から1か月以上行いました。毎晩、夕食が済むころに青年たちが次々と公民館(現中川原集会所)に集まって来て、稽古が始まります。
 素人ながらも芝居に詳しい人がいて、その人が師匠役で教えてくれました。芝居の演目や配役はすべて師匠が決め、師匠の指名で男性が女役をやったり、女性が男役をやったりする場合もありました。指導は厳しかったですが、『女役は両膝(ひざ)をくっつけて内股(うちまた)で歩け。』など細かい点まで熱心に教えてくれました。台本は、師匠が使い古したものを1冊持って来て、それをもとに青年団でガリ版刷りして皆に1部ずつ配りました。台本を見てせりふを覚えるのはなかなか大変でした。
 芝居の衣装は公演当日に師匠が借りてきますから、稽古は適当な服装で行いました。まだ寒い時期で、ジャンパー姿が多かったと思います。家のきものを着て時代劇の稽古をしていた人は、自分の出番が終わるとすぐに防寒用のどんざ(丹前。衣服の上に着る厚く綿を入れたきもの)や半纏(はんてん)を羽織りました。チャンバラの稽古も、刀がないので竹の棒で行いました。
 稽古は毎晩あり、終わると0時ころになります。そのあと酒を飲んで公民館で寝てしまい、翌朝飛び起きて会社へ急いだこともありました。本番より稽古の方が楽しかった気がします。」

 ウ 近づく本番

 次に、芝居の前日から公演直前までの様子を聞いた。
 「公演前日には、会場となるお寺の境内に舞台を組み立てなくてはなりません。隣りの神社の床下にしまっている部材を引っ張り出して舞台を設営しました。舞台の大きさは間口(まぐち)が6~7mくらいあり、それに続く花道も長さが4~5mほどあります。皆で力を合わせても、舞台を組むのに丸1日かかりました。
 芝居公演は夕方暗くなってから始まりますが、当日になると、観客は明るいうちから舞台の前に筵(むしろ)を敷き、座布団を置いて場所取りをしていました。場所取り役はだいたい子どもで、ずっと座って待っていることもありました。
 師匠が、衣装や小道具をどこからか借りて運んで来ると、私たちも忙しくなります。師匠に補助役の女性が一人ついて来て、衣装を着せたり化粧をしたりしてくれました。ただ、芝居のあとで化粧を落とすクレンジングクリームだけは自分の家から持って来ました。
 お寺の部屋を借り、そこに鏡を置いて着替えや化粧を行いました。時代劇だと配役によって、草鞋・脚半の旅姿の者、着流し姿の者、紋付きの羽織・袴姿の者など衣装はさまざまです。化粧が大変で、肩口から上をすべてドーラン(俳優が使う化粧用の油性おしろい)で真っ白に一度塗り、さらにその上からもう一度塗りました。男の肌は日焼けしていますから、二度塗らないと化粧がうまくつかないのです。化粧の仕方は善玉・悪玉で全く違います。悪役は、眉を太く描いたり、目じりがつりあがった感じにしたり、口紅を口の周りに広く塗ったりして、一目で悪い奴(やつ)だとわかるような化粧をしました。
 これらすべてを、師匠と同行の女性の二人でしてくれました。自分で勝手に化粧して来ても、役のイメージとは違うからと直されました。」

 エ いよいよ本番

 続いて、公演本番の様子を聞いた。
 「ほかに楽しみの少ない時代でしたから、公演の始まる夕刻が近づくにつれ、早めに晩ご飯を食べた観客の人たちが普段着姿でおおぜい集まって来ました。中川原だけでなく近隣の古川(ふるかわ)や市坪(いちつぼ)(ともに現松山市)などからも来て、会場は一杯になりました。
 幕が開いて舞台に出る直前には、よく師匠に『大きな声を出せ。』と言われました。恥ずかしがってうつむいてはだめで、胸を張ってしゃべれとの意味です。司会者用にマイクが1本あるだけですから、役者は生(なま)の声でせりふを言わなければなりませんでした。
 台本の自分のせりふを覚えるだけに精一杯ですから、本番でしゃべる順番を間違えて芝居の筋がつながらなくなったことがありました。また、多くの観客を前にしてあがってしまい、一度せりふがつまったらあとは頭の中が真っ白になってしまったこともありました。舞台裏からこっそりせりふを教えてもらったところ、教えられたせりふも間違っていました。すかさずお客さんから、『しゃんと言わんか。』と声が飛んで大きな笑いが起こったりして、これが田舎(いなか)芝居の良いところだと思います。
 そのほか、踊っている最中に鬘(かつら)が飛び、あわててかぶると前後さかさまだったり、大道具の格子戸(こうしど)が本番で開かず通れなくなったり、ハプニングはたくさんありました。
 一つの芝居が三景くらいに分かれていてそのたびに幕を開け閉めしますが、回り舞台ではありませんから、一景ごとに幕をおろしたら急いで舞台の大道具をすべて変えなければなりません。役者だけでなく裏方さんたちも大変でした。それだけに、やり遂げたあとのみんなの充実感は大きかったと思います。」
 かつてはこういった村芝居が、地域に密着した行事としてさかんに行われていたのである。


*7:野崎小唄 大阪(おおさか)府大東(だいとう)市の野崎観音のPRに作られた歌で、戦前・戦後を通じて活躍した人気歌手
  東海林太郎(しょうじたろう)が歌ってヒットした。
*8:股旅物 旅の流れ者を主人公とする小説・劇の総称。「国定忠次」や「番場の忠太郎」はその代表的作品。
*9:白波五人男 河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)作の歌舞伎の演目で、江戸時代のお家騒動に5人の盗賊の話をはめ込んだ作
  品。「白波五人男」は通称で、「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)が正式な名称。