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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(3)傘

 「かさ」には「笠(かさ)」と「傘(かさ)」の文字がある。頭につけるのが「笠」、頭上にさしかけるのが「傘」で、「かぶり笠」と「さし傘」といって使い分けている。かぶり笠は昭和期になると蓑笠(みのかさ)は別として、単独ではほとんど使用されなくなった。今では遍路や僧侶の使う笠が見られるくらいである。この項では、さし傘を取り上げた。今治市大浜の人たちに傘の思い出を語ってもらった。
 **さん(昭和2年生まれ)は、「戦前には、男の子は白っぽい飴色(あめいろ)のような傘で、女の子は少し小さくて黒い傘でした。小学校に上がるまでは自分の傘などありませんでしたが、小学校に上がると子ども傘を買ってもらっていました。大人になったら蛇の目傘で、竹の骨も細く優しい感じの傘でした。色はさまざまでしたが、中骨に赤糸で色々の模様がついていました。私が大人になったときは、もう、こうもり傘の時代でした。戦前には、蛇の目よりもっと細く丈も短い、油塗りの和傘を娘さんが夏の暑い日に日傘としてさしているのを見ました。」と話す。**さん(昭和9年生まれ)は、「小学校(近見国民学校)には、黄色っぽい地に学校名を黒く入れた傘があって、急に雨になったときなどには、小使いさん(校務員さん)が世話をして貸してくれていました。」と話す。
 大洲(おおず)市八多喜(はたき)町で傘店を経営し傘の職人でもあった**さん(昭和7年生まれ)に話を聞いた。
 「私が国民学校(昭和16年[1941年]にできた義務教育の学校で、就学期間は8年間)を卒業したのが昭和21年(1946年)3月で、行きたい者は新制の中学3年生に入れてやるといわれたどさくさの年でした。だから学校時代は戦時中で、食糧増産といってソバ作りやイモ作りに出掛ける毎日で、たまの授業で運動しても運動帽などない時代ですから、日の丸に“神風”とか“一億一心”などと書いた鉢巻きをしてやっていました。戦時中の雨の日は、傘もないので竹の皮を竹ひごでとめて作った大きなたっころ笠をかぶって通学していました。直径が50~60cmもあるような大きなかぶり笠でした。雨の履き物もなくて、夏は裸足(はだし)で通学していました。
 卒業した翌年の昭和22年、何か手に職をつけようと、戦争から帰ってきた八多喜の傘屋さんに弟子入りしました。昭和30年(1955年)代には、こうもり傘に替わり始めますから、私は最も若い和傘職人でしょうね。 
 和傘職人といいましても二職(ふたしょく)になっており、和傘の骨を作る職人と、和傘を組み立てて紙をはる職人がいます。それに、紙やろくろ(親骨、子骨を受けている木工品)は傘職人以外に頼んで部品ができあがります。私は、骨作りが専門で、はったのは子ども傘や日傘くらいです。
 和傘にも幾つかの種類があります。番傘は最も一般的に使われた傘で、骨も太くて丈夫でした。蛇の目傘(写真2-3-14参照)は、程度の差はありますが、高級品でした。最近は、女の人がきものを着てこうもり傘でもおかしくないですが、昔は、きもののときにこうもり傘をさしているのは、和服で長靴(ながぐつ)履いているほどの違和感があって、蛇の目傘じゃないといかんといわれていました。嫁入り道具として、下駄(げた)と一緒に下駄箱に入れてあるのが普通でした。子ども傘は、子ども用で小型の番傘です。日傘は、油を引かないし子ども傘程度の小さな傘で、作り方も簡単です。この辺りでは日傘は子守用に使っていました。昔はおんぶして子守をしていたから、そのときに使っていたのです。朝顔の絵やアヒルなど涼しい感じの絵を吹き付けて描いていました。
 和傘の構造は、紙をはりつける骨が親骨、内側で傘を開いたときに親骨を支えている子骨(中骨・受け骨)、ろくろ、そして全体を支える柄になります。親骨の長さで傘の大きさが分かりますが、番傘や蛇の目傘は2尺(約60.6cm)が普通です。蛇の目傘には寸延びといって、2尺1寸(約63.6cm)の物がありました。子ども傘は、尺8寸(1尺8寸のことで約54.5cm)以下いろいろの大きさのものがあります。骨の数もいろいろです。寸延びの蛇の目傘は54本、大人がさす番傘や蛇の目傘は52本、尺8寸の子ども傘は48本です。
 和傘の骨は、マダケ(真竹)で作ります。それも節と節の間が特に長いタケでないと作れません。山でヒノキやスギと背比べして伸びたような上質のマダケです。大洲市の恋木(こいのき)や柳沢(やなぎさわ)地区のタケを使っていました。傘の骨に使うタケは、回りが少なくとも8寸(約24.2cm)以上は必要です。9寸(約27.3cm)のタケが一般的で、中には尺竹(周囲が1尺のタケの意味で、1尺は約30.3cm)などという立派なタケもありました。マダケの回りは根本から7節上がった所が最も大きいので、その真ん中を計っていました。本(もと)の方は子骨に使い、節の間が長くしかも肉厚の所は番傘の親骨です。節の間が一番長くて肉薄の所3節くらいが蛇の目傘になります。それより肉が薄くなると子ども傘です。和傘の親骨は途中に必ず節が必要です。中節(なかぶし)といって竹の内側の節ですが、それを削って糸を通す穴をあけ子骨と合わせて組み立てます(写真2-3-15参照)。
 親骨の作り方を簡単に言います。タケを切るときには、まず全体の長さを決め、中節が子骨に組み合わせられるように中節中心に寸法を測ってタケを切ります。次いで竹の表皮をはぎ、外側の節は跡も分からないようにかんなで削ります。これはのりがつきやすくするためです。そのタケを二つに割り、目印として片方に1本線を、もう一方に2本線を斜めに入れます。その理由は、出来上がった骨をその線に合わせて、元のタケの形になるようにするためで、そうしないと傘の形が丸くならないからです。例えば、蛇の目傘の骨は特に細く2cm前後の幅のタケを8本の骨に分割します。最後に52本の骨を組み合わすとき、線をつけ忘れていたら、まともな傘に仕上げるには泣くような思いをすることになります。
 子骨には、親骨の中節を受けとめる溝をつけ、親骨と子骨を結ぶための穴をあけます。さらに、蛇の目は子骨に飾り糸をつけますから、ここにも穴を開けます。傘をはるのりは、僕らのころは蒸したもち米と水と柿渋で作っていました。こうして作ったのりは固まることはなかったですね。
 紙をはるのも蛇の目傘と番傘では違います。蛇の目傘は、はる前に色付けしてあります。番傘の傘紙は、五十崎(いかざき)(現内子町)の和紙などを購入して白紙をはり、それをしばらく干して、乾いたら折りたためるように紙に折り目を入れ、その後べにがら(紅殻。酸化第二鉄を主成分とする赤色顔料。ベンガラのこと)を塗り、その上に油を塗っていました。油は、エゴマ(荏胡麻。クチビルバナ科の一年草で実から油をとる。)の油に乾燥剤の役割をするキリ(桐)の油を合わせたものでした。乾いたら薄い茶色になりますが、キリの油が効くと中に白い模様が出て、これを『星が出た』といっていました。
 親方から独立して実家の方に帰り、和傘の仕事を始めたのが昭和27年(1952年)です。専ら骨を作って松山や大洲の傘屋に卸していました。そのころには、こうもり傘をさしている人もぼつぼつ見かけるようになっていました。そんなこともあって、雨の多い年は金回りも良かったのですが、天気のいい日が続くと納品しても集金ができないんです。それで、納品した和傘の骨代の代わりに完成品の和傘やこうもり傘を持って帰ったりして売り始めました。正式に店を持ったのは昭和36年(1961年)です。まあ『雨の降らんことはなかろうけん、傘屋も良かろう。』と思って職人になったんですが、こうもり傘に代わるとは思っていませんでした。昔は、こうもり傘は村長さんか校長先生がたまに持っているくらいでした。そのころのこうもり傘は舶来品で、骨が鋼で出来ているのかと思うほど丈夫で、折ったらピーンと金属音がしていました。今ごろのくにゃくにゃの骨とは全然違っていました。
 和傘は紙が破れた程度なら修理が出来ます。破れたところを切り取って、その周辺を灰だったと思いますが、これでこすって油を落とし、のりを付きやすくします。はりつける和紙は、はさみで切ったりせずに、周囲が毛羽立つように指先で破ります。そうするとはった跡が分かりにくくなるんです。はさみで切った紙ははった跡がはっきり分かります。ただ和傘は、骨が折れると修理は出来ませんでした。こうもり傘の修理は逆で、張ってある布が破れると買い替えた方がよくなりますが、骨が折れたのなら簡単に直せるようにさまざまな部品がそろっています。ただ、最近のワンタッチの傘の心棒(柄)は折れたら直せません。以前のこうもり傘なら心棒だけ替えられましたが、ワンタッチの傘は心棒と骨がつながっているからです。最近は、修理を頼んでおいても、直った傘を取りに来ないお客様が増えました。こうもり傘もワンタッチ傘や折りたたみ傘、三つ折れ傘など種類も豊富になり、最近では中国製の傘も出回って安くなりました。和傘だけでなく高級品だったこうもり傘も、使い捨ての時代になったんですかね。」

写真2-3-14 蛇の目傘

写真2-3-14 蛇の目傘

大洲市八多喜。平成16年9月撮影

写真2-3-15 蛇の目傘の親骨と子骨

写真2-3-15 蛇の目傘の親骨と子骨

親骨・子骨が集中している所がろくろ。子骨の中央部及びろくろ近くに糸で模様を作っているのは、蛇の目傘の特徴。大洲市八多喜町。平成16年9月撮影