データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)草履

 草履は、わらなどで編んだ台に鼻緒をすげた履物である。したがって、その材料や用途、名称も多岐にわたる。昭和前期には、稲わらで編まれたわら草履、草鞋(わらじ)、足半(あしなか)(かかとの部分がなく、足の裏の半ばくらいの短い草履)などが多く使われていた。これらは、早く消えていった草履である。つづいてゴム草履が登場する。一方、かかとを高くした女性用の草履は早くから使われ、今も和装とともに使われているし、雪駄(せった)も形を変えながら残っている。この項では、これらを含めて取り上げる。

 ア わら草履

 (ア)わら草履を作る

 わら草履は、本来わらを編んで作られたものであるが、わらに限らず、植物性の繊維を編んだだけで作られた履物をも含めて見ていく。昭和前期までは、主に自宅で作られ消費されるものであった。わら草履作りの話を中心に、南宇和(みなみうわ)郡愛南(あいなん)町網代(あじろ)地区の**さん(昭和2年生まれ)に聞いた。
 網代は、北宇和(きたうわ)郡津島(つしま)町と愛南町の境界にのびる由良(ゆら)半島にある集落では最先端に位置する漁業集落で、南宇和郡愛南町に属している。まぐろを中心とする定置網(大敷(おおしき)網)漁業で栄えた地区で、網元が漁業権を独占していた。これを変えたのが昭和24年(1949年)に行われた漁業制度改革であった。昭和40年(1965年)ころから真珠養殖に転換できたのも漁業権が特定の個人から漁業協同組合に移ったためである。真珠に転換してからは、個々人の収入は大きく増加した。
 **さんは、「私はこの地区に生まれて、成人してから同じ地区の**の家に養子に来たんです。祖父が元気なころは、この地区でどこにも負けないくらいたくさん草履がありました。兄弟が5、6人おりましたが、だれの草履かれの草履と兄弟みな大きさが違うでしょう。それに合わせて祖父が作ってくれていました。倉庫には、柱がしわるほど草履がつってあるという近所の評判でした。小学校が片道5kmほど離れた魚神山(ながみやま)地区にあったので、2日履くと草履が壊れていました。特に年寄りが作ると力がないので軟らかく締まりが悪いのです。若い人が作った草履は4、5日は保っていました。それでも歩き始めたばかりの子どもの草履は小さすぎて固いものは作れませんでした。
 私らが高等小学校になると、自分の草履は自分で作りなさいというので、学校で校長先生が草履作りを教えてくれました。往復10kmの通学ですから、自分の作った草履も長くは保ちませんでした。通学に靴下(くつした)履いて靴履いて行っとったのは網元さんとこの子ぐらいのもので、みんなは素足の草履履きで行くことが多かったので、みんなあかぎれを切らして通学していました。足袋を履くのはよほど寒い日だけでした。雨の日は下駄(げた)でした。」と、戦前の通学状況を振り返る。
 高等小学校を卒業すると網漁業に従事する。定置網漁業は依然行われていたが、マグロ漁などの漁獲も減ってくるようになる。それで始められたのが、点火(てんか)漁法である。
 **さんは、「沖まで艪(ろ)を押して出て、バッテリーを使って海の中に火を灯(とも)します。それでしばらくすると魚が寄ってくるので、船の灯(あか)りで魚を引きつけながら陸(おか)まで漕(こ)いで帰り、地引き網でひく漁法です。原始的なものでしたが、やがて沖の灯船(ひぶね)を巻くようにして網を下ろし、その網も機械で引き上げる巻き網の漁法になっていきます。
 私は灯船に乗ることが多かったのですが、魚が集まるのを待つのが退屈ですから、灯船の上で草履を編むのを毎晩の日課にしていました。前もってわらを叩(たた)いて、葉などの部分を除きしなやかにしたものを2把(わ)(1把は、大人の男性が両手でゆるく握る程度の分量)だけ持って行くのです。草履を5足、つまり10個編むとちょうど待ち時間が終わるくらいでした。私が養子にいった**の家は、祖父が早く亡くなっていましたので、私が昭和22年(1947年)に婿入りして草履を作り出すと母が、『何十年ぶりかで、草履を遠慮なく履ける。』と言って喜んでくれました。 
 原料は稲わらですが、網代では水田が無く稲作はできませんでしたから、農協から購入していました。わらにも善し悪しがあって、もち米のわらが長くて粘りがあるので、特にもちわらと呼んでいました。うちには、わら叩(たた)き用の石と木の槌(つち)(わら砧(きぬた)ともいわれる道具)がありました。石は、上がやや平らになったすべすべのもので、下部を埋めて動かないようにしてありました。
 わらの外にマオラン(*4)を使っていました。これは灯船の碇綱(いかりつな)が80尋(ひろ)(約144m)ほど要りましたから、その材料として栽培されるようになったものでしょうが、ほご(わらで編んだ入れ物でものを運ぶ道具)のひもの部分にしたり、草履に編み込んだりもしました。繊維の取り方はいろいろですが、一番簡単なのは広い葉を5、6枚に裂いて、それを干して乾いたら槌でたたいて繊維にする方法です。これを、草履のかかとや足指の付け根など力の入る部分に編み込むと、2、3日は草履の寿命が伸びましたね。鼻緒は普通の縄とは逆に綯(な)います。鼻緒には、トウモロコシの実を包んでいる皮や布を多少織り込んで使います。トウモロコシの皮は干すと真っ白になるでしょう、それと赤い布を使うと紅白の鼻緒ができます。女の子の鼻緒はたいていこれでした。まあ、柔らかい肌に直接当たるところは柔らかいものを使うんですがね。
 外に、かかとの部分が少し短いとんぼ草履(足半(あしなか)とも呼んでいた)がありました。とんぼ草履の鼻緒は、前緒で横緒を縛って余りを切りそろえますので、前緒の余りがとんぼの羽のようになるのです(写真2-3-16参照)。普段に履いていた草履の前緒の止め方は違っていて、横緒に巻いて草履の裏で止めます。」と話す。

 (イ)わら草履を使う

 わらを使った履物もさまざまで、その種類や用途について、上浮穴(かみうけな)郡久万高原(くまこうげん)町西明神(にしみょうじん)地区の**さん(大正13年生まれ)、**さん(昭和9年生まれ)の話に、前述の網代の**さんに聞いたことを加えて記す。
 久万高原町西明神は、国道33号を松山側から三坂(みさか)峠(標高720m)を越えてまもなく、標高500mを超える久万高原に位置する。産業は主として農林業である。網代の漁業制度改革と同様、戦後の農地改革が行われるまでは、一握りの地主と多くの自小作で構成されていた。**さんは、「米を作っても、半分以上は地主に渡す状態で、生活レベルの差は大きかったです。」と話す。
 わら草履といっても材料はいろいろあって、既にわら、マオラン、端切れ布、トウモロコシの実の皮を混ぜて作るわら草履を述べた。この外に、西明神や**さんの実家がある旧小田(おだ)町上川(かみがわ)(現喜多郡内子町小田)ではマダケの竹皮(たけかわ)草履を、さらに上川ではシュロの新芽を台にするシュロ草履もあった。かかとなど力の掛かる部分を補強するのにシュロの毛を使用した例もある。竹皮草履も各地にあったが、網代ではタケがないので作らなかったとのことで、それぞれの地区にあるものを工夫しながら使っていたのが分かる。**さんは、「わらの履物も色々です。ちり草履(一般的わら草履)、とんぼ草履といって足半ほど短くはないが、かかとの部分が短くなった草履、それに草鞋(わらじ)がありました(写真2-3-16参照)。人間の履物ではありませんがウマやウシの履物もわらで作って、くつと呼んでいました。ちり草履は、男女とも履いていた一番普通の草履です。とんぼ草履と草鞋は男が仕事に行くときに使ったもので、普段は男もちり草履です。
 草鞋は山などへ遠出するときの履物でした。枝打ちや植えた木の下草刈り、それに昔は山の草を刈って来て、それを田に鋤(す)き込んで肥料にしていましたから、よく山に出かけていました。秋に割り当てられた草刈り場に行って草を刈って丸めておき、春先に枯れた草を降ろしに行っていました。ウマが通れる道まで負いこに担って降ろすのですが、ウマを飼っていない場合には下まで人手で降ろしていました。これを肥おろし(肥草(こえくさ)おろし)といっていました。冬の雪の中でも、山に入る必要は結構あったんです。そのときにはわらずがけといって、足袋の底を刺して分厚くしてそれに草鞋を履いて寒さをがまんして山に行っていました。足袋がぬれますから、囲炉裏(いろり)の回りに置いて乾かしたりしていました。やがて、地下足袋になっていきました。」と話す。
 **さんは、「私が身重のときに、父親があとかけといって、ちり草履の鼻緒に結んだ縄を、かかとの方に回して草履が抜けないようにしてくれたことがありました。この辺りはお遍路さんも多い所ですが、女のお遍路さんは草鞋ではなく、あとかけでした。」と話し、女の人の草鞋はまず珍しいとの話であった。
 **さんは、「肥草は、特大のでっちめん(押切り)というワラなどの草を切る道具で切って、ウシが荒起こしした田んぼに水を引き、さらい(刃が四つに枝分かれしている鍬)を使って混ぜ込みます。その後で長い木に金属の歯をうえこんだ馬鍬という農具をウシに引かせ、さらに何度かの代(しろ)かきをして田を作ります。ていねいに代かきするほど田植えのときも楽でした。田の作業にはウシは必需品で、たいていの家ではウシを飼っていました。この辺りでは平野部の松山より1か月早く田植えをしていましたので、五月の初めは大忙しで、『もう、百姓は嫌じゃ。』などと話し合ったもんです。」と話す。
 **さんは、「ウシを飼っていない家は、里牛(*5)を使って耕作していました。自分のウシがいるところも里牛を預っていましたが、餌にする草刈りで夏は大忙しでした。それに、里牛を松山まで迎えに行くときは、三坂から桜へ、今はお遍路しか通らない道になってしまっている急な道を、ウシのくつと提灯(ちょうちん)をもって一日がかりで往復していました。帰りにウシが動かなくなって夜になり、提灯がいることもあったのです。ウシのくつは里牛迎えのときだけではなく、山田に行くときなどもよく使っていました。」と話す。
 **さんは、「この田を作る作業から田植え時分には、よくとんぼ草履を使っていました。田んぼの中は裸足(はだし)で入っていましたが、田植え時分に湿った田んぼのあぜ道を移動したりするときに、とんぼ草履は便利だったんです。この草履はかかとまで台の部分がないから跳ねが上がらないし、わらだから滑らないのです。祖父は草刈りでもなんでも農作業はとんぼ草履でした。戦後も、雪の日は滑らないように長靴や地下足袋(じかたび)に荒縄を縛り付けていました。」と言う。
 網代の**さんの話でも、力仕事のとき、例えば段畑の急坂に下肥を担ぎ上げ、サツマイモをほごで担って降りる作業などには、この固く締まったとんぼ草履が欠かせなかった。青年学校(小学校修了後の勤労青少年を対象とした教育機関。昭和10年[1935年]から昭和22年まで存続)に通っていた昭和17年ころは地下足袋で通学したが、その時分でも畑仕事や磯仕事はとんぼ草履で、地下足袋は平地を歩くのに用いた。昭和20年(1945年)代は、まだわら草履を作っていたが、ゴム草履が出始めた昭和25年~昭和30年ころには作らなくなったと言う。わら草履の利点は滑らないことのようである。
 この草履も戦後しばらくして姿を消した。**さんは、「わらの履き物は、今では葬式などの儀式や祭りなどしか使わなくなりました。その時のために作り方を知っている程度です。」と話す。
  
 イ その他の草履類

 植物性の繊維を編み、ゴム・革などの裏をつけた履物もある。ここでは、麻裏(あさうら)草履、雪駄(せった)、八折(やつおれ)(板裏草履のこと)さらに女性用の高級草履とゴム草履を取り上げた。これらそれぞれの履物については、前述した久万高原町西明神の**さん、**さん、及び西条(さいじょう)市丹原(たんばら)町で履物店を経営する**さん(昭和14年生まれ)に話を聞いた。
 麻裏草履について**さんは、「小学校の上履きはちり草履でしたが、3、4年生ごろに麻裏草履が学校の上履きに利用され始めました。麻裏草履は、畳表にゴムを縫いつけたものでした。ゴム飛び遊びをするときには、この麻裏を手につけて飛ぶと手をついても痛くないので、よくこれで遊んだりしていました。」と話す。**さんによると、「麻裏草履は、編んだ表の裏にタイヤのゴムを縫いつけたものです。だから、室内で仕事をする人、例えば大工さんなどは愛用していました。釘(くぎ)で底を止めた履物などは、新築の家に傷をつけかねませんから。最近でも需要はぼつぼつあるんですが、麻裏草履を作る職人さんが歳をとっていなくなりました。」と説明する。
 雪駄(せった)は、もともとは竹皮草履の裏に革をはり丈夫で湿気が通らないようにしたもので、千利休(せんのりきゅう)(茶道の大成者といわれる16世紀の茶人)が考案した履物と伝えられる。**さんは、「子どものころの手まり歌に、『芸者は席駄(せきだ)の裏の金、金があるときゃチャラチャラと…』という歌がありました。裏に金が打ってあったようです。雪駄のことを席駄といったらしく別の手まり歌でも『席駄』と歌っていました。相撲取りさんや道楽者みたいな人が履くものだと思っていました。」と話す。
 **さんは、「雪駄は男の履物でした。昔の雪駄はシュロやトウ(藤)で編み、裏は牛革でした。かかとの部分に半月形の金属を打っていましたが、今はこれも牛革です。久万高原町の方が言われるような傾向もありますが、結婚式のときは、女性が草履なら男性は雪駄としたものでした。今は表にクサ表(イネやシュロの葉・トウ・パナマ草などの総称)をはり、鼻緒は正絹などを使ったりします。」と言う。表は色々変化しても、植物繊維を編んだ表に裏をつける形が原型である。
 さらに、**さんは、「親がお盆のときに、男の子には八折(やつおれ)という履物を、女の子には赤い扇子とこっぷり下駄(ぽっくり下駄)を買ってくれていました。八折は、表が畳表で涼しいし、裏には幅3cm、厚みが2cmくらいの板切れが、2cmくらいの間隔でつけられていたと思います。1枚板ではないので歩きやすかったですよ。私の高等小学校時分に流行していて、男の子が親にせがんでいました。終戦後もしばらくはあったと思います。」と言う。**さんは、「裏に5枚くらい板がはってあったでしょうか。鉄工所の人たちがよく買いに来られました。鉄工所では、旋盤(せんばん)を使ったりするとだらいこ(ぜんまい状の鉄くず)が出るでしょう。普通の履物でだらいこが立つとだんだん中に入っていくのです。八折は裏が板でしたから立ちません。今ごろは安全靴といって、中に鉄板の入ったものが出来ています。」と話す。
 女性用の厚みのある草履は、かかとを高くした大正期の千代田草履(草履の表は布地で台の中をばね仕掛にした安ものの空気草履)の形が原型とされる。**さんは、「昔の草履は、かかとの部分が少し高くなっていて、裏には革をはっていました。芯(しん)はキルク(コルク)でした。珍しいものでは、フェルトを入れた高級品もありました。鼻緒は別珍(べっちん)(表面に短いけばがある布地。綿や化繊を材料とする。)やコール天(てん)(綿織物。うね状のすじを織り出した暖かく、丈夫な布地)でした。女物の草履は、冠婚葬祭に使うものです。お金持ちの人は旅行にでも使ったかもしれませんが、一般の人は使いません。家庭を持つと質素になりますが、娘さんなどはお祭りなどにも履いたでしょうかね。買い物くらいでは履きません。結婚式にはエナメル(油性の塗料を塗った革)の草履を使ったりしていましたが、私たちのころ(昭和16、17年ころ)の結婚式は畳表をはった下駄で白足袋(『白多美』と書いていた。)でした。」と話す。
 その後の女性用の草履について、**さんは、「草履の表はもとはクサ表です。キルクの芯は、今はウレタン樹脂に変わりました。外側は、ビニールもあったが、西陣織になりました。裏の革は、8割方は水牛の白い革を使っています。耐久性は無いんですが、牛革より軽いんです。草履の種類は、訪問着に合わせたおしゃれ用の草履と浴衣草履があります。浴衣草履は、全体的に厚みが無く1.5cmくらい、おしゃれ用の草履はかかとの部分が6cm、前でも2cmくらいあります。いずれにしてもよそ行きです。現在は成人式か結婚式のときの和装のセットとして残っているくらいです。」と話す。
 わら草履に取って代わったゴム草履は、緒も台もすべてゴムでできている。これは、戦後間もなく登場し、今も形を変えながら残っている。**さんは、「水に弱いわら草履と違って、ゴム草履は足を洗うときでも、履いたままでザブザブ洗えるでしょう。昔は川がきれいでしたから洗濯のゆすぎから何からよく使っていたので、ゴム草履は、本当に便利でした。最初のゴム草履は、型の中にゴムを流し込んでいたようで、台の部分も鼻緒の部分もくっついていました。やがて台がスポンジ、鼻緒がゴムのスポンジ草履が使われ始めましたが、軽くショックが伝わりにくいので楽でした。」と言う。
 丹原町では、メーカーの名前だったのか今でもゴム草履を万年草履という。**さんは、「海水浴などに使う化学樹脂製の履物として、今でもゴム草履の系統が残っています。」と話す。


*4:マオラン(ニューサイラン) ニュージーランド原産で、原産地では葉から強力な繊維を取って利用する。**さんによ
  ると、戦時中に網代で栽培され始め、日陰の湿気のあるところでよく育つと言う。
*5:里牛 『久万町誌』によると、春から秋まで松山地域のウシ(里牛)を久万地域で預かって育てること。預ける松山の農
  家は餌が豊富で冷涼な地域で育てられる利点が有り、預かる久万の農家ではウシの労働力や厩肥(きゅうひ)、お礼の品など
  を得る利点があった。久万の田植えは5月、松山の田植えは6月のため、ウシは4月に久万に上がり、田の準備が済むと松
  山へ降り、松山の田植え準備が終わると、再び久万へ登る里牛もいた。なお、畜産業者から預かって手間賃をとる預かり牛
  の習慣もあった。

写真2-3-16 さまざまなわら草履

写真2-3-16 さまざまなわら草履

左からシュロ葉を使ったちり草履、とんぼ草履、草鞋。草鞋には足の甲を通りかかとで縛るひもがある。久万高原町西明神。平成16年7月撮影