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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)窮乏期の社会とくらし

 ア 国民服ともんぺ

 昭和15年(1940年)、「国民服令」が公布されて国民服(*1)が正式に制定され、同17年には婦人標準服の制定、同18年には繊維の消費節約のために「戦時衣生活簡素化」が決定された。それによると、和服は短袂(たんたもと)(筒袖)とし、男子の服装は国民服甲(詰襟)と乙(折襟・開襟型)、色はカーキ色(*2)とし、帽子、儀礼章についてもカーキ色と定められた。昭和18年ころになると国民服はほとんど平常服化し、特に都会での服装はカーキ色一色になっていった。
 一方、女子の服装について、厚生省(現厚生労働省)は昭和17年に婦人標準服を制定した。婦人標準服は甲型(洋服式)・乙型(和服式)・活動着の3種に分かれ、各々一部式と二部式に分かれていた。一部式はベルトをつけた和洋折衷で、ワンピース式の前合わせの和装(筒袖)に洋装を取り入れた感じであった。二部式の場合、甲型は洋服式でベルトつきの上着と下は紐(ひも)付きのもんぺ、乙型は和服を上と下に分けたものである。活動着には、ズボンの裁ち方をまねたものや、もんぺが利用された。さらに、女子はもんぺでないと外出できないようになり、女学生もセーラー服に下はもんぺとなった。

 イ 衣料品の切符制 

 昭和12年(1937年)に日中戦争が始まり、戦時体制が強まる中、「国民服令」により戦時下の男子用の服装としてカーキ色の国民服が制定された。国民服は平常服にとどまらず、冠婚葬祭にまで通用したのである。国民服が男子全国民の制服と見なされるような雰囲気さえ生まれ、衣生活の基調となった。
 昭和17年には、衣料事情は極度に悪化し、全国的に衣料品の切符制が実施された。衣料切符は点数制で、点数は一人1年当たり都市部では100点、郡部では80点と決められた。人々は背広50点、国民服32点、ワイシャツ12点、もんぺ(きものの上からはいた裾を足首でしぼった女子の下衣。活動的な下衣として太平洋戦争中に全国に普及した。)10点などの点数とお金と引き替えに衣類を購入した。外出着は下着にいたるまで名前を書いた布を縫い付け、頭には戦闘帽、足元にはゲートル(厚地の木綿、麻、ラシャ、革製ですねを包む帯状の布)を巻き、男女とも水筒を携帯し、防空頭巾(ぼうくうずきん)の戦時態勢が義務付けられた。

 ウ 生きるための闘い

 昭和20年(1945年)3月18日、松山(まつやま)が米軍の艦載機により爆撃されて以来、愛媛県内でも空襲が相次ぎ、松山・宇和島(うわじま)・今治(いまばり)の市街地の大部分が焼け野が原となり、8月15日にはポツダム宣言を受諾し終戦を迎えた。『愛媛県史 近代下』によれば、空襲を受けた3市など県下全般の被害状況は、死者1,346名、重軽傷者1,509名、罹災者(りさいしゃ)約12万3,000名、家屋被害2万8,372戸(全焼2万7,141戸・全壊332戸・半焼256戸・半壊643戸)となっている。
 松山や宇和島は、焼け野が原の中で終戦を迎え、今度は生きるための闘いが始まった。配給(経済統制のもとで、数に限りのある物資などを一定量ずつ消費者に売ること)で足りないものをヤミ市(不法なヤミ取引の品物を売る店が集まった所。ブラックマーケット)や買出し、代用品で補った。空腹と物資不足は戦時下と変わらず、人々は我慢を強いられる耐乏生活を続けなければならなかった。
 物資の欠乏に加えて加速するインフレのなかで生活は大きく混乱した。人々は食料確保に奔走(ほんそう)し、手持ちのきものや帯、背広などを米やイモなどと交換する“たけのこ生活”(たけのこの皮を剥(は)ぐように衣類を少しずつ売って食いつなぐ苦しい生活)が始まった。統制の配給品だけではとうてい暮らしは成り立たず、高価なヤミの物資に手を出さざるを得なかった。

 エ 食から衣へ

 食料の確保から出発した戦後の極限的な生活も、昭和25年(1950年)に勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争による特需景気が“てこ”となり、生活は急速に改善された。国民の生活水準は、昭和25年から30年にかけて戦前の水準へ復帰した。“たけのこ生活”という食べることだけに精一杯の時代が過ぎ、いくらかの“ゆとり”ができたことで、その余力はおのずと衣生活の向上に振り向けられた。


*1:国民服 国民が常用すべきものとして4種類(1号〔甲・一般大人用〕と4号〔乙・青年用〕が普及した)制定され、太
  平洋戦争中、広く男子に用いられた服装。型は軍服に似て詰襟と折襟とがあった。
*2:カ-キ色 黄色と茶色の混じったような、くすんだ枯れ葉色。旧陸軍の軍服に用いられたため国防色といわれた。