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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)愛媛の繊維

 ここでは、昭和初期から高度経済成長のころまで、愛媛県内で生産されていた織物(太布(たふ)、麻布、絹布、綿布、化学繊維)について、『愛媛県史』の記述などを参考にしながらたどった。

 ア 太布

 楮(こうぞ)・科(しな)の木などの皮の繊維をつむいで地機(じばた)で織った粗い織物を太布という。
 『愛媛県史 民俗上』には、「木綿と書けば、万葉の時代は『ゆう』と読む。楮(こうぞ)を原料にして織った布をいうのである。万葉の時代、麻や絹もあったが、一般的には木綿(ゆう)がもっとも用いられた。この木綿は中世になると、タフ(楮布)といわれた。麻のできない地方の衣料として中世にも用いられていたのだが、丈夫なため木綿(もめん)が江戸時代中期以降、一般庶民の衣料となったのちも、山間部などでは山行きの働き着として昭和の初めごろまで残ったのである。(①)」と記されている。
 愛媛県教育委員会が昭和39年(1964年)に刊行した『民俗資料調査報告書』(昭和38年8月・9月の2か月間30名の調査員により実施。調査地区は、藩政時代の村を単位とし、中央との文化的交流の少ない山村や漁村で、比較的生活様式の地域的特色が失われていない地区を選定)によると、宇摩(うま)郡新宮(しんぐう)村木颪(きおろし)(現四国中央(しこくちゅうおう)市)、伊予三島(いよみしま)市金砂(きんしゃ)町小川山中之川(おがわやまなかのかわ)(現四国中央市)、宇摩郡別子山(べっしやま)村瓜生野(うりうの)(現新居浜(にいはま)市)や北宇和(きたうわ)郡日吉(ひよし)村犬飼(いぬかい)(現鬼北(きほく)町)では、明治の初めころまで太布を織っていたとの記録が残っている。
 徳島(とくしま)県那賀(なが)郡木頭(きとう)村で太布についての調査を実施した民俗学者竹内淳子氏は、太布の特徴や使用法について、次のように記している。「太布は洗濯をすればするほど繊維が柔らかくなって、織り目がつまってくる。だから、新しいうちは風通しがよいので夏用に、着古したものは冬用に着たのである。(中略)衣服以外にも太布の使いみちは多くあった。その第一がモジ袋(角袋(つのぶくろ))とよぶ穀物袋で、穀物の保存や運搬には欠かせない道具であった。また、豆腐や醬油(しょうゆ)を作るときの絞り袋も太布で作った。太布の強靭(きょうじん)さゆえに畳の縁布にも使われた。太布の縁布は畳の表と裏に使い、さらに次の新しい畳の表と裏に、つまり畳二代はもったのである。(②)」
 生活の中で多様に使用された太布を自家用として細々と織り続けていた木頭村でも、昭和30年(1955年)ころには、だれも織らなくなったという。ところが、昭和53年(1978年)、老人の生きがい事業として太布織の経験者を中心に太布の復興が計られ、若い世代に受け継がれている。

 イ 麻布

 アサは丈夫で、繊維を分離しやすいため、最も古くから用いられ、高温多湿の日本の夏季に適した繊維である。
 『愛媛県史 近世下』によると、強靭(きょうじん)さを特長としたアサは、近世を通じて自給用に栽培され、衣料の他、縄や魚網・蚊帳などに用いられた。宇和島藩では特にアサの栽培を保護し、麻畠は無年貢地とし、小物成(江戸時代、田畑から上納する年貢以外の雑税の総称)のみを課し、領内全村で栽培させた(③)という。
 明治21年(1888年)当時、県内のアサ作付面積は139町2反3畝(約1.4km²)あり、1万7,271貫(約64.8t)の麻を産していた。主産地は当時の上浮穴郡でほぼ半分を占め、次いで東宇和郡、北宇和郡、喜多郡の南予山村地域、そして旧周布(すふ)郡、西宇和郡などが続き、その他の地域ではきわめて限られた栽培しかなされていなかった(①)。
 前出の『民俗資料調査報告書』には、30か所の調査地域のうち、中・南予地域を中心に18の地域でかつてアサを栽培し、シャツやズボン、カタビラなどの衣類や蚊帳(かや)を作成していたと記録されている。
 また、昭和62年(1987年)に刊行された『むらのくらし 三善(みよし)生活誌 第三輯(しゅう)』には、大洲市三善地区における明治から昭和初期にかけての農村の様子が紹介されている。同書には、アサについて、「麻をジバ着(普段着)に織るには太めの麻糸に木綿糸を混ぜ、ヨソイキ用には麻だけの細糸で織った。これをカタビラといい、夏の代表的な着物で汗が出てもべとつかず着心地がよく、娘たちは盆踊りの晴着にした。浴衣が普及したのは明治末で、それまでは麻はもっぱら夏着に重宝した。そして、仕事着、ジバ着には丈夫で最高であったが保温性はなかった。蚊帳には最適でシワにならず、すがすがしく、色は黄ばんだ白地のままもあったが緑や納戸色(ねずみ色がかった藍色(あいいろ))に染めたものもあった。(中略)
 麻はロープや緒(お)によく使われ、白い緒は神事や御輿(みこし)のかざりつけにも使った。麻綱は最高に強く、相当大きな石の重さにも耐え、すれ合っても切れなかった。小さなものでは下駄(げた)のヨコ(はなお)、ぞうりの裏にもした。(④)」と記されており、昭和初期においてもアサが民衆の衣料材料として、重要であったことがうかがえる。

 ウ 絹布

 クワを栽培して蚕(かいこ)を飼育し、繭(まゆ)から糸を繰り、その生糸で絹を織るという養蚕の技術が日本に伝来した時期については、弥生時代中期(紀元前後)ころとする説が一般的である。
 『愛媛県史 古代Ⅱ・中世』によると、天平18年(746年)、伊予国から調として貢納された絁(あしぎぬ)(太糸で織った粗製の絹布)が正倉院に現存している(⑤)という。「伊豫國越智郡石井郷戸主葛木部龍調絁6丈天平18年9月(⑤)」と墨書された絁(あいぎぬ)は、当時すでに伊予国で絹織物が作られていたことを示している。
 さらに、『愛媛県史 近世下』によると、近世前期にはアサと共に自家用の布を織るために蚕(かいこ)の飼育が行われたが、初期は技術も低く、春蚕1回に限られ、クワも自生のものを使用し、林地や荒地、屋敷地等にわずかに栽培される程度であった。貞享・元禄期(1684年~1704年)から、中国産白糸の輸入制限や京上方での絹織物の需要増により、生糸の生産が伸び始め、移出も行われたが、その後は度々の倹約令や綿作の普及により、東・中予の平野部では養蚕が衰退した。寛政期(1789年~1801年)には先進地からクワの接木や仕立法、進んだ掃立(はきたて)法(孵化(ふか)した直後の蚕を蚕卵紙から羽箒(はねぼうき)ではきおろし蚕座(さんざ)へ移すこと)が伝えられ、夏蚕に加えて天保期(1830年~1844年)ころから秋蚕も行われた。嘉永期(1848年~1854年)以降、各藩では更に蚕業(さんぎょう)が本格化し、開港以後は藩が先進地から技師を招き、普及と改良に務めた(③)。
 明治期に入ると、養蚕・製糸業は士族授産事業として勃興(ぼっこう)し、県の積極的な殖産興業政策によって推進された。明治20年(1887年)代には養蚕が県内各地の農村に普及し、繭・生糸生産額とも急増した。大正2年(1913年)に、愛媛の工産品で年産額が100万円を超えるものは、織物963万円、清酒480万円、生糸325万円、和紙302万円、綿糸約300万円の5つであり、工場生産額に占める紡織工業の割合は、全国平均が44.6%であるのに対し、愛媛県は実に76.5%に達していた(⑥)。
 その後も愛媛県の養蚕業は発展を続け、県内の桑畑は、大正9年(1920年)の8,754町歩(約86.8km²)から昭和4年(1929年)の15,137町歩(約150.1km²)へと倍増し、昭和4年のピーク時には、愛媛県の畑地の3分の1は桑畑となった。養蚕戸数も、大正9年の39,000戸から昭和4年には57,000戸へ増え、最盛時には愛媛県の農家の4割以上が養蚕農家であった。大正8年には、県下の製糸工場数は126を数え、その90%が器械製糸ないし原動力使用工場であり、地域的には北宇和郡と喜多郡に工場の64%が集中していた(⑥)。
 愛媛の製糸業は、世界恐慌をはじめとする長い不況の期間を乗り越えて、昭和初めまでは愛媛の代表的産業であったが、太平洋戦争における徹底した戦時統制によって衰退していったという。

 エ 綿布

 ワタはアオイ科の一年草である。成長すると60cmから1mの高さになり、白または黄色の五弁の花を咲かせる。花はたった1日咲いただけでしおれるが、やがて実がつき、実ははじけてコットンボールと呼ばれる白いワタ毛(写真補-4参照)があふれ出す。この白いワタ毛をたくさん集めれば、布団に入れるワタや木綿布を織る糸などを作ることができる。
 愛媛県ではワタは慶長・元和期(1596年~1624年)に新居(にい)郡福武(ふくたけ)村(現西条市福武)で栽培され始めたと伝えられ、その後元禄から享保期(1688年~1736年)が普及期であった(⑦)とされる。明治期の様子は、『愛媛県史 民俗上』には、「県下の綿栽培は明治中期より盛んになり、明治20年(1887年)には1,365町歩(約13.5km²)、45万2,673貫目(約1,697.5t)を産して商品作物化していった。伊予郡をはじめ宇摩・新居・周布・越智・久米・下浮穴・温泉の各郡を中心に栽培されたが、なかには稲作をとりやめて麦作の裏作として栽培したところも多い。(中略)こうして綿栽培が普及していったのであるが、輸入綿の増加とともに明治末年にはしだいに減少し、松山地方では自家用のものを2~3畝植える程度の農家が多くなっていったのである。(①)」と記されている。
 愛媛の綿織物は今治(いまばり)地域を中心に発展し、江戸時代中期以降いわゆる「綿替(わたがえ)方式」(商人が織機と原綿500匁(もんめ)〔約1,875g〕を農家などの婦女子に与え、織り上がった白木綿2反のうち、1反は織賃として織子に渡し、残りの1反は原綿の代金として商人に納める方法)で製織され、大坂(現大阪)市場に向けて大量に出荷された。天保期(1830年~1844年)に入ると、綿替木綿の生産は伸び、幕末期には年産30万反に達し、「伊予白木綿」として声価を高めた。松山でも文化期(1804年~1818年)に入ると白木綿が生産され藩内外へ販売されるようになるが、松山地方の木綿織は、明治10年(1877年)代まで「伊予結城」と呼ばれた木綿縞が中心であった。こうして愛媛県は江戸時代後期には綿織物産地の一つに成長した(⑥)。
 明治期に入ると、綿替制手紡製織の白木綿は、激増する外国産綿糸布や関西の半紡績糸による低廉(ていれん)な木綿製織に対抗できず、生産が減少していった。明治19年(1886年)には、綿ネル(木綿布を起毛した生地)のマニュファクチュア(工場制手工業)生産を開始し、年を追って生産を拡大していった。先晒(さきさら)し・先染めで、織り込みにより模様を出し、片面起毛であった伊予ネル(今治産の綿ネル)は、大正初期において、和歌山に次いで全国2位の生産量であった。このころの伊予ネルの販路は、そのほとんどが内需であったが、海外への販路が広がるにつれて、リネン(シーツ・枕カバーなどの総称)としての用途をもつ縞三綾(しまみつあや)の生産が盛んになり、大正末期には、今治地域は全国一の産地となった(⑥)。
 明治27年(1894年)に製造が始まった今治タオルは、第1次世界大戦の好況を契機に発展した。全国のタオル産地の中では後進地であった今治のタオルは、昭和8年(1933年)には全国トップの大阪とほぼ肩を並べるまでになった。太平洋戦争で生産設備の大半は灰燼(かいじん)に帰したが、タオルは国内用として生活必需品であり、輸出産業としても重視されたため、その復興が急がれた。昭和24年(1949年)には、愛媛県は全国の輸出タオルの約80%、高級紋織タオルの95%を生産していた(⑥)。
 伊予絣(いよがすり)は、木綿を原料とする紺染の絣織物であるが、農民の野良着として広く関東・中部・東北へ移出された。伊予絣の特徴は低廉な大衆品であり、その値段の安さで大正から昭和初期にかけて全国市場で最大のシェアを占めた。当初は、伊予郡垣生(はぶ)村今出(いまず)(現松山市西垣生町)周辺の農村の副業として織られ、「今出絣」と呼ばれた。その後松山周辺の北条、温泉郡などでも織られるようになり、明治10年代より愛媛県外へも販売され、「伊予絣」と呼ばれた。明治39年(1906年)には全国の絣生産の約4分の1(約200万反)を占め、伊予絣は生産量日本一に輝いた。さらに第1次世界大戦(1914年~1918年)の好景気により、大正12年(1923年)、最高生産量(約270万7千反)を記録し、伊予絣の全盛期を迎えた。しかしその後、太平洋戦争による生産・配給統制、企業整備で転業者が相次ぎ、昭和20年(1945年)の松山空襲で生産は一時中止となった。戦後、操業を再開し、昭和30年代には生産量100万反を回復したものの、海外からの衣料輸入、洋服化、化学繊維の出現、後継者不足などにより、伊予絣の生産は年々減少した(⑦)。
 江戸時代末期に始まったとされる八幡浜(やわたはま)地域を中心とした綿織物は、明治初期「宇和木綿(うわもめん)」と呼ばれ、九州方面に盛んに移出された。明治20年(1887年)には、川之石に四国初の紡績工場として宇和紡績会社が設立された。明治末には、西宇和郡の年産量が110万反を超え、愛媛県全体の織物生産額の11.4%を占めた。八幡浜地域の縞三綾(しまみつあや)は、大正から昭和初期には東南アジア方面に輸出されるようになり活況を呈したが、太平洋戦争が始まると戦時統制が強化されて綿花の輸入も困難となっていった。終戦後、衣料品の絶対的な不足と輸入食糧の見返り物資としての綿製品は必需品となり、八幡浜地域の綿織物業も急速に復興したが、昭和40年(1965年)代に入ると、生活水準の向上による衣服の多様化や発展途上国の綿業の発達などによって、八幡浜地域の綿織物業は衰退していった(⑧)。

 オ 化学繊維

 化学繊維の開発は、貴重品であった絹をヨーロッパで人工的に作る試みから始まった。17、18世紀には、にかわやゴム液などの粘液から糸を作ることが試みられた。19世紀に入ると、綿に硝酸を作用させてできるニトロセルロースが火薬として登場してから、セルロースの化学が発達し、人造絹糸(人絹)の開発が進展した。
 『愛媛県史 社会経済3 商工』によると、愛媛県では、昭和8年(1933年)の日本化学製糸新居浜工場をはじめ、西条(さいじょう)市、周桑(しゅうそう)郡壬生川(にゅうがわ)町(現西条市)、伊予郡松前(まさき)町などに、人絹・スフ(ステープルファイバーの略。化学繊維で作った紡績用の短繊維)工場が建設された。これは、昭和8年の国際連盟脱退以後は、原料の綿花と羊毛の海外からの輸入が削減されるにいたり、衣料品の国内自給を高めるためには、人絹とスフに依存せざるを得なかったという国際情勢の反映であった(⑥)。
 太平洋戦争の終戦直後、愛媛県のスフ生産設備は全国の残存設備能力の約25%に当たり、稼働能力においても全国の36%を占め、府県別生産能力において全国最大であった。昭和36年(1961年)には愛媛県は、ビスコース・スフの生産においては全国2位であり、20.4%のシェアを占めていた。化学繊維においては、アセテート人絹糸・アセテートスフ・ポリエステル長繊維・ポリエステル短繊維の4品目の全国生産の約半分を占め、全国一の生産量をあげていた(⑥)。

写真補-4 白いワタ毛とワタの花

写真補-4 白いワタ毛とワタの花

四国中央市金生町。平成16年9月撮影