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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)畳

 畳は日本固有の床材で、わら、イグサ、布など昔からわが国のどこにでもあるものを素材とする。
 その構成は畳床、畳表、畳縁(たたみべり)からなり、短い辺を框(かまち)、長い辺を貫(ぬき)という。素朴でさわやかな感触・保温性・吸音性があり、和室に上品で落ち着いた雰囲気を与えてくれる。
 手縫い畳職の専門家として、マイスターの称号(愛媛県知事認定)を持っている**さん(松山市元町 昭和3年生まれ)と**さん(昭和6年生まれ)御夫婦、息子さんの**さん(昭和26年生まれ)は畳の作り方、敷き方などについて、次のように話した。
 「終戦のとき、私は内地におりまして、家族が朝鮮半島から引き揚げて来ました。それまで祖父も父も向こうで畳屋をしておりました。松山から3人職人を雇って、現地の人の弟子も入れて働いていました。晋州(ちんじゅ)(現大韓民国)という、人口が7万人くらいの町でした。官庁の仕事が多くありました。また日本人家庭の畳や、現地の上流家庭の畳などの仕事もあって、けっこう忙しかったようです。畳床は自家製でした。床を作る機械を据えて、弟子に床を作らせていました。職人がそれを畳に仕上げていました。ワラも豊富で生産者が牛車に積んで運んできたものを、50坪(約165m²)ほどの倉庫に保管していました。その内戦時統制が始まって、わらも自由に買えなくなってきました。
 私が海軍の予科練から復員して帰り、松山駅に降りたのが10月8日でした。ちょうど松山祭りの翌日のことで、松山駅はバラックでした。台風が来ていて土砂降りの雨で、兵隊のことですから傘などは持ってなく、ずぶ濡れでした。4~5歳のときに来ただけでしたから、市内電車の乗り方も分からず、大手町から堀端の青年師範学校の横を通って、叔父さんの家を訪ねて行きました。そして家族が10月28日に三津へ引き揚げて来て、やっと一家がそろいました。親父と一緒に、三津の機織り工場の所に、掘っ建て小屋を建てて、両親、兄と私と弟、そして妹3人の8人家族で住むようになりました。
 引き揚げてきた当時は、まだ物資の統制中でしたので、畳表にしろ糸や縁にしろ、すべて配給でした。実績のある業者は割り当ても多いのですが、引き揚げて来たばかりですから、割り当ても微々たるものでした。それでもなんとか商売やらないと、食べていけません。親父一人では大変でしたので、『お前も畳職するか。』と言うことで、手伝うようになりました。予科練から帰った私が17歳のときでした。経済統制が昭和22年(1947年)か昭和23年に解除され、それからは材料が自由に入ってくるようになりました。

 ア イグサ

 イグサは岡山県を中心とする瀬戸内地方で栽培されていましたが、今は熊本が全国一で、福岡、岡山、高知、佐賀などで栽培されています。12月に植え付けて、5月ころまで田に水を入れたり切ったりして、根を発育させます。1m以上になると倒れやすくなるので、6月には網を張って茎を支え、7月の末ころまでに刈り取ります。刈り取りは重労働で朝早くか、日暮れ前に収穫します。
 収穫したものを直径20cmほどの束にして、泥染めをします。泥染めは、つやを良くし、変色を防ぎ、良い香りを付けるためにするのです。その後水を切って、地面に並べて天日で干します。茎の太さがそろっており、長さが150cm以上のものが上級品とされています。

 イ 畳床

 初め、名古屋の豊田織機からサカエ式という畳床を作る機械を買いました。モーターなどは付いていない、手回しの機械でした。たしか10万円くらいしたはずです。機械の頭の所に、金のシャチホコが付いていました。朝鮮半島にいるときもその機械を使っていました。それで私が床を作り、注文が来ると親父が製品に仕上げました。そのころの私は技術を十分覚えていないので、床作りだけでした。
 よく乾かした稲わらで、出来るだけ一年越しのものを使います。まず枠に裏菰(うらこも)というござを敷きます。次に畳縁と平行にわらを置きます。これを縦配(たてばい)といいます。次に1cm未満の切りワラを敷き詰め、その上に畳縁と直角にわらを置きます。これを横手配といいます。この作業を4層から6層繰り返し、圧縮しながら麻糸で縫い上げて行くのです。わらの並べ方が悪いとでこぼこが出来ます。わらを均一に並べるのが職人の腕なのです。
 廊下に敷き詰める薄畳や、床暖房用の暖房畳など、畳の種類によって床の厚さや縦配横配を工夫します。
 戦後はほとんど機械縫いですが、ときによって、手縫いの床を親父がしていました。これは明治生まれの人でないと、技術を持っておりません。わらを並べるのは、ほぼ同じような並べ方ですが、縫って行くのが特殊で、横一列ではなく千鳥に縫って行く(糸を互いに斜めに打ち違えて縫うこと)のです。親父や祖父(じい)さんはそれをしていました。
 せっかく買った機械も、税金が高くかかってきたので、結局売り払うことになりました。自家製の床はやめて、松前(まさき)の業者から仕入れておりました。品物があまり良くなかったので、結局伊予市のKさんという業者から仕入れるようになりました。この床は大変良かったので、ずっとそこの製品を使うようになりました。Kさんは昔気質(かたぎ)の職人で、良い製品作りにこだわる人でした。どこの畳屋も機械は置いていましたが、戦後はもっぱら専業化して、床は床屋になって行きました。床の運搬も初めは大八車でしたが、後にはオート三輪で20枚くらい床を運んで来ていました。それを湿気のないところに立てて保管していました。
 畳の大きさとしては、関西間(京間)が6尺3寸(約191cm)に3尺1寸5分(約95.5cm)で、近畿、中国、四国、九州に多く見られます。名古屋付近の中京間がちょっと小さくなって、6尺(182cm)に3尺6分(91cm)でサブロクと呼ばれます。関東ではゴハチ間と言って5尺8寸と2尺8寸で、さらに小さくなります。団地サイズはもっと小さくなります。

 ウ 畳表

 畳表はイグサを横糸に、麻糸または木綿糸を縦糸にして織ったもので、機械織りと手織りがあります。機械で織れば量産できますが、それでも本当に良い物をというと手織りになります。昔は広島県の尾道(おのみち)市辺りでも本表は手織りでした。
 以前は畳表といえば備後でしたが、今は肥後表が製品数、生産量、ともに日本一です。他に備中表、高知表などがあります。また琉球表は七島表(しちとうおもて)ともいい大分県の国東(くにさき)半島で作られた特産品です。本表のイグサは丸いのですが、琉球表は七島(カヤツリグサ科)という三角のイグサを、二つに裂いて織ったものです。その色から青表とも呼ばれ、丈夫なので柔道畳などに使われます。以前は庶民の家の畳にもよく使われました。ところが今はこの方が高いのです。手織りでイチビといいます。機械がないころの畳なので、機械では織れないのです。今でも特に『七島を。』と言って注文されるお客さんもおります。縦糸が麻糸のものと木綿糸のものがあります。また最近ナイロン糸のものもあります。表の良し悪(あ)しで麻糸だけのもの、あるいは麻糸と木綿糸のダブルものなどがあります。
 終戦からいえば、昔の文化がだんだん消えかけてきて、私のところなどはまだ残しているほうです。畳の良さは、昔の人じゃないと分からないようになりかけてきました。
 今ここにあるのが床の間用の畳です。これは尾道の手織りですが、表の色が茶色というか、赤っぽいというか普通の畳の色とは違います。その加工が問題で、草のときからこういうふうな色に染められているのです。熟練したお婆(ばあ)さんが染めていたそうです。今は座敷のお床は板を張りますが、その昔は畳を敷いたのです。昔からなじみのお客さんからの注文で、丁寧に仕上げて納めると非常に喜んでくださいます。
 またイグサの長さや織り込み方での区別もあります。イグサを束にして、製品にするときに、畳表の幅に合う長い物から引き抜いて使います。これを引通し表といいます。短いイグサは中央で継ぎ、表から分からぬように裏へ織り込むのです。これを中継ぎ表といいます。また短いイグサを交互に通し真ん中で先端が重なる飛込み織りもあります。
 現在非常に安い畳も出回っています。本来の畳の良さを守ろうとしても、若い人は安い品を喜ぶので、商売が難しくなっています。吸湿性や弾力性の少ない板のような畳床もあります。家のために良く、住む人のために良い、上質の畳を納めようと思う職人の心を分かってくれる方も少なくなってきました。

 エ 畳縁

 縁はアサ製品が上等です。無地縁、模様縁、紋縁などがあります。また愛媛県独特のものとして、絣(かすり)の絞り糸で織った縁もあります。藍壺(つぼ)に漬けているので、非常に深い藍色です。また大変丈夫でもあります。茶室の畳の縁は木綿で、色は黒かえび茶です。わび、さびの世界なので、派手なものは使いません。一般には化繊なども使うようになりました。若いお母さんの御希望で、ピンクの縁を付けたという話も聞きました。
 昔は畳縁は階級によって使い方が決められていました。繧繝縁(うんげんへり)とか高麗縁(こうらいへり)などは宮中や神社、仏閣などで階級に応じて使われていましたが、今は自由でいろいろな柄が選ばれます。ただ24時間共に過ごすものですから、飽きの来ない落ち着いたものが良いように思います。

 オ 畳の仕立て方、敷き方

 畳床に合わせて畳表をマチ針で仮づけします。框に返しわらを当ててきちんと縫い上げます。縁の幅を決めて、縁下紙を敷き、折り返して縫い上げます。仕上げで特に難しいのは四隅です(写真1-18参照)。同じ厚さに角を縫い上げないといけません。機械で縫うとはやいことははやいのですが、細かいところは自分で調整しながらやらないといけません。
 敷き方の基本として、回り敷きをしないことが大切です。入り口からは畳表の繊維方向に添って入るように敷くことを基準とします。そうすれば畳がいたまないのです。また床の間に対しては、畳の長辺が床の間と平行するように敷きます(⑧)。施主とよく相談してその部屋の使い方を確認して敷くことが大切です。たとえば、4畳半の半畳は、一般では奥の隅に敷きますが、掘りごたつがある場合は回り敷きをして、半畳を中央に敷き込みます。茶室などは流儀によって、炉の場所が違ったりしますから、よく確かめないといけません。
 畳はその家の、その部屋の、その位置の畳として敷かれます。なので、ほかの位置やほかの部屋へは持っていけません。隙間なしにきちんと敷き詰められていても、畳の寸法は同じではないのです。
 松山市の五明(ごみょう)まで自転車でリヤカーを引いて、畳を敷きに行ったこともあります。また長浜の沖の青島へ畳を敷きに行ったこともありました。三津から、船に畳を積んで出かけました。新婚1週間でしたが、仕事第一ということで単身で行きました。1週間かかって全部で60枚くらい敷いたと思います。食事の世話は島のおばさん方がしてくれました。ホゴ(カサゴ)の良いのが釣れるころで、おかずによく出ていたのを思い出します。
 2階建ての家が多くなりまして、畳を2階へ上げるのに苦労します。回り階段で畳を縦に持って、少しずつ向きを変えながら2階へ担ぎ上げます。力もいるので、70歳くらいまでが限度です。
 畳を敷いたお家の人に喜んでもらえるのが、なによりのはげみです。そのお家の人が『あそこに頼んだら非常に具合良かった。』などと言って、近所の人を紹介してくださったり、『20年前にしてもらった。』と言ってまた注文してくれたりしますと、まことに嬉しい思いがするのです。」

写真1-18 畳の隅の仕上げ

写真1-18 畳の隅の仕上げ

松山市元町。平成17年8月撮影