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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)ランプのくらし-**家-②

 ウ 母屋

 **家の母屋(図表2-1-7参照)は左側に居室があり、横くい違い4間取りになっている。隠居部屋もそうであるが、畳の長辺が6尺3寸(約191cm)で、広い敷居の部分は含まれないから大変広い1坪(標準的には3.3m²である。)になっている。また、戦後まで電気が引かれていなかったのも特徴である。この母屋は昭和39年(1964年)に解体されたという。
 **さんは、「この辺りは戦後までランプの生活(写真2-1-6参照)でした。ランプは大きさもいろいろで一番大きいのはオキャク(宴会)のときにつけるランプでハチブ、このときには三つも四つもつけていました。普段に使うランプがゴブでした。手燭(てしょく)代わりの一番小さいランプはカンチョロと呼ばれていました。灯油はこの辺りで売っていました。ジョウマツというのが一番いい灯油で悪い灯油を買うと、煙が出てすぐランプを磨かんといけません。ランプは大黒柱の所にだけありました。夜は真っ暗で、小便に行こうとして『灯をつけよー、灯をつけよー』と親に言ったものです。親が枕元に置いているカンチョロをつけてくれるときはいい方で、親も昼間の重労働で眠ってしまっている場合もあり、そういうときは本当に淋しかった思い出があります。戦時中になると灯油も手に入らなくなり、マツが枯れた山の辺りに行って、肥松(こえまつ)の根を取ってきて、古い羽釜で燃やして明かりをとっていました。
 母屋の屋根は草葺(ぶ)きでした。大抵の家が草葺きの家でしたから、上鍵山だけでも幾つかのカヤ(ススキ)場がありました。大体30軒に一つくらいのカヤ場です。カヤ場は3町歩ほどあって、春の彼岸ころには総出で防火線を作ってから火をつけていました。カヤを刈るのは、その年葺き替えが当たった家の人が刈っていました。
 屋根を葺(ふ)くときには組合があって上鍵山で草屋根を持っている人が全部集まってきて手伝うんです。屋根の角に当たるところは角引(すみひ)きさんという技術を持った人がやっていましたが、残りは手伝いの者でやっていました。大きな家ですと最低でも2日はかかっていました。屋根の一番上はカラスオドシ(『宇和地帯の民俗(①)』ではカラスオドリ)といって竹や杉皮あるいは瓦で葺いたりしていました。風当たりが強いところだからです。毎年何軒かは葺いていました。だいたい20年くらいで葺き替えていました。屋根の厚みは、下の端で1mほどあったと思いますが、これは下が一番水が流れるからで、上に行くほど厚みは薄くなっていくものです。
 井戸はカマヤ(台所)にありました。浅い井戸で、手で水が汲(く)めるくらいでしたがきれいな水が出て、よほどの干魃(かんばつ)でないと干上がることはありませんでした。ただ、水量が足りませんので風呂の水には谷川の水を使っていました。クドでは羽釜でご飯を炊いたり、湯を沸かしたりで、おかずはユロリ(いろり)(写真2-1-7参照)で炊くことが多かったです。ユロリにはクンゼといって大きな木をくべ、明かりとりの意味もあったのか夏でもたいていました。直径10cmもある木を2、3本入れとけば1日中燃えていました。主食は、芋か1升(約1.8ℓ)の麦に米を2合(約0.4ℓ)ほど入れたものでした。麦もしゃげ麦(薄くつぶした麦)などなかったから、1時間も炊かないと丸麦は開きません。開くとそこへ米を入れて炊いていました。米のご飯は正月か盆か、月初めか15日にしか食べられませんでした。記憶に残っている食べ物は、自在かぎに掛かっていたハチマイズルという鍋に、トウキビを挽き割ったときにできる粉のハナゴと、きざんだ菜っ葉と、ぱらりと米を入れて味噌で炊いて食べるもので、こうするとお菜にも主食にもなっていました。オイレといっていた食べ物です。ユロリの回りで、めったに洗わない食器の入った個人専用の箱膳で食べていました。
 一番端にあるクドは平釜が掛かっていました。これで、こんにゃくを作ったり、カジ(コウゾ)の皮を剥(は)ぐので蒸したり、豆腐も作っていました。餅(もち)をつくときに糯米(もちごめ)を蒸すのにも使いましたが、大きすぎるので、真ん中に穴の開いたふたをして使っていました。
 座敷は、地区の常会、お祭り、冠婚葬祭、それにお講などのときに使うんです。座敷は人が集まる場所でいつもは空けておく所です。地区の人みんなが集まるときなどには、個人の座敷では入りませんから、お寺を使っていました。お祭りは11月3日に決まっていまして、村外の親戚(しんせき)を呼んでいました。お土産に渡すのは餅と決まっていました。餅といっても正月などにつく餅も、普通の餅の外にトウキビ(トウモロコシ)やオレ(米をつくときにできる屑米(くずまい)、こごめ)を入れた餅もついていました。これを大きな瓶に水餅にして保存するんです。これも主食にしていました。最初に食べるのが普通の餅、それがなくなるとオレの餅で、最後にトウキビの餅に手がいっていました。
 子どもはオモテや4畳で寝ていました。4畳は産室にもなっていました。畳はないし、そこに大きな渋紙を敷きまして、布団はナカワタでした。板間だったのは、私の子ども時代はまだお蚕さんを飼っていたためだろうと思います。ナカワタいうのは不用になったぼろ布を何枚も縫い合わせたもので、重たかったですよ。パターンと掛けたら、なかなかはぐれないぐらい重かった。こんな状態ですから冷えるし、寝小便は出るし、出てもだれがやったか分からんような寝方でした。綿の入った布団を買ったのは昭和10年(1935年)ころでしょうか、綿は高くて買えなかったのです。綿の入った布団も初めは古手屋(ふるてや)さんから古布団を買っていました。ナカワタは布団の綿代わりになったりしていました。布団の片付けは部屋の隅に置いていました。タンスは座敷に置いていました。布団ダンスなどはなかったし、回りは障子か襖(ふすま)で押入れもない構造ですから。障子の張り替えは大変でした。ユロリでどんどんどんどん火をたいているんですから、くすぼってしまって、毎年お祭り前とお正月前には張り替えていました。障子の量は多いし、大変で、多分庭で二人一組で張り替えていました。途中障子が破れたときなども張り替えていました。
 桑室(くわしつ)と芋つぼ(写真2-1-9参照)は床下を掘って作っていたものです。桑室はお蚕さんを飼っていた時代の名残です。お蚕さんにやるたびにクワを取ってくるわけに行きませんから、まとめて取ったクワを入れて置いた所です。地下ですから温度は低いし、風も通さないからクワがしおれずに保(も)つのです。当時はどの家にもありました。芋つぼは今も残っています。床が高いですから腰板を除け、外からサツマイモを出し入れできるようになっていました。使い方は、サツマイモを生のままで芋つぼに入れ、その上に籾殻を掛けてやるんです。サツマイモの量が少ないと寒い冬には腐るので、できるだけたくさん入れてやるのが要領で、お互いがぬくもるのか冬保ちがよかったです。春まで腐らずに保ちますよ。」と話す。

図表2-1-7 昭和30年ころの**家母屋

図表2-1-7 昭和30年ころの**家母屋

**夫妻からの聞き取りにより作成。

写真2-1-6 ランプ

写真2-1-6 ランプ

鬼北町上鍵山。平成17年7月撮影

写真2-1-7 いろり

写真2-1-7 いろり

鬼北町下鍵山。明星草庵。平成18年1月撮影

写真-2-1-9 芋つぼ

写真-2-1-9 芋つぼ

鬼北町上鍵山。平成17年7月撮影