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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(1)手漉き和紙工場の住まいとくらし①

 四国中央(しこくちゅうおう)市金生(きんせい)町(旧川之江(かわのえ)市金生町)で手漉き和紙工場を営む**さん(昭和22年生まれ)、**さん(大正15年生まれ)親子に話を聞いた。**さんの製紙所の創業は85年前の大正期。**さんで3代目になる。金生町下分(しもぶん)は古くから手漉き和紙づくりが盛んな町であり、**さんの住まいは、下分の土佐街道沿いの古い集落と官公庁の立ち並ぶ旧国道192号の間に立地している。

 ア 川之江の手漉き和紙産業

 『平成15年度(2003年度)工業統計表(経済産業省)』によると、愛媛県の手漉き和紙出荷額は福井県についで全国2位であり、全国の1割程度を占めている。愛媛県には、大洲(おおず)和紙(内子(うちこ)町五十崎(いかざき)と西予(せいよ)市野村(のむら))、周桑(しゅうそう)手漉き和紙(旧東予(とうよ)市)、伊予手漉き和紙(宇摩(うま)地方:四国中央市)の三つの手漉き和紙があるが、伊予手漉き和紙の歴史は比較的浅く、18世紀半ばに生産が始まったといわれている。伊予手漉き和紙は、明治期にはすでに愛媛県の和紙の約半分を占めており、現在県内第一の産地となっている。旧川之江市の金生(きんせい)町で製紙が始まったのは19世紀初頭といわれている(②)。以来金生町は愛媛の手漉き和紙の中心として発展してきた。大正年間に伊予手漉き和紙の出荷量はピークとなり、手漉き業者も761軒(大正2年〔1913年〕)を数えたが、昭和になり機械漉き和紙の生産が拡大するにつれて衰退し、現在は7軒を残すのみとなっている。

 イ 手漉き和紙の仕事 

 手漉き和紙の仕事について**さんに聞いた。
 「うちでは、昔から書道半紙を製造しています。この仕事を始めたのは、私の祖父(明治22年生まれ)で、手漉き職人としてよそで勤めた後、独立したと聞いています。下分に手漉き和紙の工場が多いのは地下水が豊富だからです。ここの地下水は軟水(カルシウムやマグネシウムなどをあまり含まない水)で紙づくりに適しています。工場の従業員は、多いときで15、6人いましたが、現在は7人になりました。私の父の時代には、住み込みの従業員もいたらしいのですが、それは戦前(昭和初期)の話です。戦時中は風船爆弾(第二次大戦中に日本がアメリカまで和紙製の気球で運搬した爆弾)の原料となった気球紙も作っていたと聞いています。手漉き和紙工場は昭和30年代には100軒を超えていましたが(昭和34年〔1959年〕119軒)、現在は7軒になりました。
 昔は川之江に企業が少なかったため、手漉き和紙工場に就職する若者が大勢いましたが、今は企業が多くなったため、若者が手漉き職人の道を選ばなくなりました。書道人口が減ったことや、中国産の安い手漉き和紙が流通し始めたことも大きく影響しています。
 私は高校を出て昭和41年(1966年)にこの道に入りました。当時は手漉き和紙業界の景気が悪く、周りの人は将来を心配してくれましたが、何とか今まで続けられています。ただ現在うちの職人さんはみんな60歳代で、若い後継者がいません。一人前の紙漉(かみす)き職人になるには、若くしてこの道に入る必要があります。中学校卒業くらいが素直で技術を吸収しやすく、一番良いように思います。私がこの世界に入ったときは、下ごしらえ(原料を作ること)から覚えました。紙漉きを始めることができるのは2~3年たってからで、紙を漉き始めても一人前になるまでにはさらに2~3年かかります。紙漉きには体力が必要なため主に男性の仕事で、女性は主に乾燥の仕事をします。給料は紙漉きのほうが乾燥より5:3の割合でよいため、昔は体力のある女性が紙漉きをやったこともありました。
 紙漉きは気温によって製品の品質が異なります。水温と気温の差が余りない冬場のほうが良く、『寒漉き』といって、1月、2月に良質の紙ができます。冬場の方が原料が腐りにくく、のりもよくきくからです。製品は地元の問屋を通じて、関東を中心に全国に販売されています。」

 ウ 住まいと仕事場の屋敷取り・間取り

 創業当時の敷地は、現在の半分くらいだったが、昭和20年代末と、44年(1969年)に敷地を広げ、敷地面積は約500坪になった(図表2-2-3参照)。隣との間に小川が流れており、これが境界となっている。昭和30年代初めころ、家の周りは見渡す限り田畑で、遠くまでよく見渡せたそうだ。
 住まいと仕事場の屋敷取り・間取りについて、**さん親子に聞いた。

 (ア)母屋とその間取り

 「昭和46年(1971年)まで生活していたのは、門を入って左にあった母屋です(図表2-2-4参照)。この母屋は江戸期に建てられたもので、300年はたつと聞いています。屋根は入母屋型で日本瓦(かわら)でした。当時この近辺では一番古い家であり、近所に旅館がなかったため、別子(現新居浜市別子山)にある南光院(なんこういん)という寺の和尚さんなど、よそからきた偉い人を泊めるのはうちでした。
 畳の部屋は六つあり、部屋の仕切りはほとんどが襖(ふすま)でした。畳のサイズは本間(約191cm×95.5cm)であったと思います。玄関は2枚の引き違い戸で、カギは簡単なもの(カンヌキ〔猿〕および心張棒(しんばりぼう))でした。玄関を入ったところはニワ(土間)で、左に台所があり、ご飯は板の間で食べていました。私たち親子の部屋はその奥で、祖父母の部屋は一番奥にありました。取引先や原料屋さんがきたときは玄関右の6畳間に通しました。その奥には8畳の座敷があり、人が集まって何かをするときには、襖をはずして2間を一緒に使いました。台所は『かまや』といっていました。かまどは、焚(た)き口が二つある大きなもので、上に小さな神棚がありました。台所の神様は『サンポウさん』といっていたように思います。台所には、人造石研ぎ出し(セメントで固めた小石を石板状に研ぎ出したもの)の流しがあり、地下水を使っていましたが、昭和40年代になると飲料水には水道を利用するようになりました。
 昭和46年(1971年)に建てた新しい母屋には、ステンレスの流し台があるキッチンを造りました。新しい家に移ってからしばらく古い母屋は空家でしたが、51年に断裁場・製品置き場として建て替えました。」

図表2-2-3 屋敷取り概略図

図表2-2-3 屋敷取り概略図

**さんからの聞き取りにより作成。

図表2-2-4 古い母屋の間取り図

図表2-2-4 古い母屋の間取り図

**さんからの聞き取りにより作成。