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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(1)手漉き和紙工場の住まいとくらし②

 (イ)各仕事場の役割

〈原料倉庫〉
 原料の古紙、稲藁縄(いねわらなわ)、麻、パルプなどを保管。現在コウゾやミツマタは使っていない。
〈さらし場〉
 原料から不純物を取り除き、繊維を軟らかくするため一度煮釜(にがま)で炊(た)く。煮釜の中に苛性(かせい)ソーダを一緒に入れ、煮ると軟らかくなる。炊き終わったら苛性ソーダを完全に除くために水槽でさらす(きれいな水で流す)。次にもう一つの水槽で苛性ソーダを取り除いた後の原料をさらす。今度は次亜塩素酸ソーダ(さらし液)を使う。さらすのは2~3時間くらいで、その後何度も水を入れ替えてすすぐ。**さんが子どものころは、夏になると、この水槽をプール代わりに遊んでいたそうだ。
〈原料粉砕場〉
 ビーター(*1)で原料が遊離しやすいように細かく砕き、それを調合して原料を作る。
〈紙漉き場〉
 昭和30年ころまでは離れだったのを改築した築100年になる建物。昔は漉槽(すきそう)を六つ使ったが、現在はそのうちの二つだけを使用している。漉槽に水、原料、のり(ねり)を入れて紙を漉く。漉きあがった紙は後の台(紙床)に重ねて置く。紙漉き場には「春日(かすが)さん」(奈良の春日大社(かすがたいしゃ))を祀(まつ)っている。昔は中庭で、石臼(うす)を使い原料となる「とろ」をつき、のりを作っていた。現在「とろ(*2)」は家庭用のミキサーで作っている。
〈圧搾(あっさく)場〉
 漉きあがった紙は水分を大量に含んでいるため、圧搾機にかけて水分を徐々に絞る。
〈乾燥場〉
 昭和30年ころ建てられた。昭和20年代までは、中庭でトチの木の板に貼(は)り付け天日乾燥していた。乾燥機は現在3台使用しているが、全盛期には7台使用していた。乾燥版は三角柱の構造になっていて、1面に2枚、3面で6枚を一度に乾燥できる。中にボイラーの蒸気が通っており、1回転する間にほぼ乾燥してしまう。
〈断裁場〉
 乾燥した紙を半紙の大きさに断裁した後、千枚単位で包装する。断裁機はドイツ製。昔は専門の職人さんが、断裁用の包丁で500枚ずつ断裁していた。
〈ボイラー室〉
 乾燥場に蒸気を供給。風呂(ふろ)のお湯もここから供給。燃料は現在重油だが、昭和44年(1969年)までは「おがくず」を燃やしていた。おがくずは市内の製材所を大八車(木製二輪の物資運搬用車両)でまわり、かます(むしろを二つ折りして袋状にしたもの)に入れて運んだ。

 エ 住まいの1日・1年・一生

 戦後から昭和40年代までの、住まいでの生活について、**さん親子に聞いた。

 (ア)住まいの1日

 「朝一番早く起きるのは母と祖母で、『かまや』でご飯の支度をしました。朝ご飯は子どもが学校に行くのにあわせて食べました。食事はちゃぶ台(折りたたみのできる脚のついた低い食卓)でとりました。ご飯は当時たくさん食べたし、家族が多かったので大きな釜(かま)で炊いていました。昭和30年代になると電気釜、続いて冷蔵庫が入ってきました。家に電話を引いたのもこのころです。洗濯機は昭和30年代初めに買いましたが、洗濯をしたのは圧搾場で、母屋でしたことはありません。手漉き工場は普通の家庭と違い、各所に水の出る蛇口があります。その中で一番都合が良かったのが圧搾場で、ここの蛇口は直径が大きく、一度にたくさん水が出るので短時間で洗濯がすみました。洗濯物は母屋の軒下に干していました。
 朝は5時ころ起きて、夜7時ころまで働きましたが、うちには決まった勤務時間というものがないので、職人さんは出勤した時点で働き始めました。仕事の後は圧搾場と乾燥場の間にあった風呂(ふろ)に入りました。職人さんも家の者も一緒に入りましたが、昭和30年代には男女かまわず一緒に入浴しました。当時家に風呂があるところは少なかったので、近所の人も入りにきました。風呂は私が生まれた昭和22年(1947年)にすでにありましたが、10年くらい前から使わなくなりました。
 夕食の時間は、子どもは6時ころでしたが大人は少し遅かったように思います。テレビのない時代はラジオを聞くくらいで、これといった娯楽もなく、夕食の後は寝るだけでした。昭和33年(1958年)にテレビを買いましたが、当時テレビのある家は少なかったため、夕方になると近所の人がたくさん見にきました。テレビは玄関右の6畳間に置いていました。」

 (イ)住まいの1年

 「昭和30年ころまでは、盆と正月以外に休みはほとんどありませんでした。ただ『電気休み(電休)』というのがありました。当時は電気事情が悪かったため、月に一度か二度停電の日があり、事前に連絡があるので、その日は仕事を休みにしました。小学校の参観日は手漉き工場が『電気休み(電休)』の日に合わせてありました。それほどこの地域には、手漉き和紙工場が多くありました。
 年末になると木臼(きうす)で餅(もち)をつきました。子どもは10円もらって駄菓子屋に行くのが精一杯の時代だったので、餅はご馳走(ちそう)であり、つく量は多かったです。ヨモギ餅、キビ餅、イモ餅などもつくりました。保存は水餅にしましたが、昔は餅をたくさん食べたので、カビが生えるころにはほとんどなくなっていたように思います。年末は12月30日まで仕事をし、大晦日(おおみそか)は掃除をして正月の飾り付けをすると夕方になりました。正月三が日は休みにし、初詣(はつもうで)は近くの金生八幡宮に行きました。当時は旧正月も祝っていました。子どもは男の子だけだったので、5月の節句にお祝いをしましたが、鯉のぼりはあげず、武者人形だけを床の間に飾りました。盆と正月の前日には、母と嫁がご馳走(ちそう)をつくり宴会を開きました。襖(ふすま)をはずして座敷と6畳間を続きにし、多いときは20人近くの従業員、家族でしました。おいしいものを食べてお酒を飲んで、それが唯一の楽しみでした。
 夏は蚊が多かったので蚊帳(かや)をつって寝ました。蝿(はえ)も多く、小学校のときは蝿取り紙にかかった蝿の数を地区で競いました。うちは住吉地区ですが、他の地区に負けまいと蝿のついた蝿取り紙を学校によく持っていきました。味噌(みそ)や漬物は自家製でしたが、『どぶろく』(白く濁った粗製の日本酒)も祖父が作って飲んでいたように思います。家には富山の薬売りが年に1~2回来ました。物売りは他にかき氷屋と大判焼き(太鼓饅頭(まんじゅう))屋、紙芝居屋(紙芝居の前に、水あめを売っていた。)が来ていました。」

 (ウ)住まいでの一生

 **さんに昭和20年代の結婚と出産について聞いた。
 「私がここに嫁入りしたのは、昭和21年(1946年)です。物のない時代でしたが、実家が大きな農家だったので、米と交換して着物や履物、布団などの嫁入り道具を持たせてくれましたし、『おいり』(引出物にする米菓子)も配ることができました。たんすは実家の山からケヤキを切り出して、職人さんに作ってもらいました。明くる年に**が生まれましたが、出産は離れ(現在の紙漉き場)でしました。子どもは二人おりますが、二人ともお誕生ころに1升餅(もち)を背負わせて歩かせました。」
 **さんに昭和40年代の結婚式の様子を聞いた。
 「結婚式は座敷でやりました。式の当日は、まず仲人と一緒にタクシーで嫁の家に行きます。すでに近所の人が花婿を見に集まってきています。家に通され、あいさつの後、酔わない程度にお酒を勧められます。それから私は先に帰り、仲人は残って別のタクシーで嫁と一緒に私の家に向かいます。私の家では近所の人が花嫁を見に集まってきます。夫婦がそろうと座敷にある仏壇に手を合わせて拝み、そこで三々九度をし、式をあげます。嫁は『歩きぞめ』といって、近所周りを歩きます。美容師が着物のすそを持って、婿の母親の案内で『うちの息子の嫁です』と近所20軒くらいを一軒一軒あいさつして回ります。結婚したのは昭和45年(1970年)でしたが、40年代まではこのような結婚式がこのあたりでは一般的でした。」


*1:ビーター 明治期に取り入れられた機械で、原料を細かく砕く労力を軽減した。ビーターで細かく砕くことを「ビーター
  をうつ」という。
*2:とろ のり(ねり)の原料となるトロロアオイ(アオイ科の1年草)の根。つぶして水につけると粘度のある液が多く溶
  け出す。