データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)季節的移住集落②

 イ 大泊地区からの季節的移住集落-網ノ浦-

 松山市中島粟井大泊(あわいおおとまり)が漁村集落として定住者をみたのは明治7年(1874年)越智郡岩城島(いわぎ)(現上島町)の漁民12軒の移住にはじまる。大泊の彼らはほとんど農地を有しない純漁家である。網ノ浦の砂浜には、南側の大泊から夏のイワシの漁期に地引網を引くため小屋掛けして移住し、一時的に集落が形成されていた。一時は網が6統もあったが、昭和39年(1964年)には網元の**網1統となっていた。昭和7~8年(1932年~1933年)ころには、網ノ浦へは興居島(ごごしま)(松山市)からも手伝いに移住していたので、バラックが60軒もあったという(⑦)。
 大泊地区は、昭和22年(1947年)に37戸あり、その後、多いときは61戸もあった。昭和39年に41戸、平成17年(2005年)8月は3戸7人である。 
 旧中島町粟井大泊の網元の次男として生まれ、家を継いだ兄とともにいわし漁を経験し、網ノ浦での生活を体験した**さん(松山市 昭和9年生まれ)、**さん(昭和11年生まれ)夫妻と娘さんの**さん(昭和34年生まれ)に大泊と網ノ浦での住まいとくらしについて聞いた。

 (ア)大泊の住まいとくらし

 「私は中島町粟井(あわい)大泊(写真2-3-13参照)に生まれました。曾祖父(そうそふ)は岩城島の出身で、中島の周辺海域に好漁場があり、曾祖父の代に地引網(じびきあみ)を始め、港も良いので住みついてこの地域での権利を持ったと聞いています。
 私の家はいわし網の網元でした。昭和25年(1950年)に中学校を卒業してから、兄と一緒にいわし網のひき子として昭和46年(1971年)に独立するまでやってきました。地引網は人手がいりますから、私もその一員でした。
 船には4、5歳から祖父に乗せられて海に出ていたと思います。そのころから櫓(ろ)をこぐのを教えられてきました。長男が家を継ぎ、弟の私は家を守り立てるための労働力提供者でした。
 いわし網は2隻の船で網を引きます。一つの舟に12人位乗っていて、そのうち2人は女性で、引き上げた網を整理していました。船の上に網を巻き上げる『ろくろ』(縄の端を重いものに結び、軸に取り付けた柄を押して軸を回転させ、縄を巻いて引くもの)というものがあって、人力で巻いていました。網を上げるのに約1時間はかかっていました。ひき子はこの地域の人が大部分でしたが、三津(みつ)地区や伊予郡松前(まさき)町からの若い人もきていました。 
 昭和42年(1967年)ころまではいわし網も何とか稼ぎがありましたが、その後は、漁も少なくなるし、ひき子も高齢化し、若い人は他の産業に働きに行くなどで、人も集まらなくなりました。網を巻くのも機械化され、人手もあまりいらなくなっていました。松山市に引っ越したのは、昭和50年(1975年)の3月でした。
 私たちが結婚したのは昭和31年(1956年)で、実家の隣りに空家があったのでそこを借りて住みました。新婚旅行などできる状況ではありませんでした。その家は普通の土壁の小さな家(図表2-3-12参照)でした。
 この家は6畳の部屋が2部屋と4畳半の部屋が1部屋、食事場所の4畳半の板の間と台所のある土間がすべてでした。
 寝所は、両親は山側の納戸と呼ぶ6畳の部屋で、子どもたちは女3人と男1人の4人が小さいときは4畳半の海側の部屋で寝ていましたが、子どもたちが大きくなって座敷の6畳の部屋も使いました。
 水は井戸が外にあり、共同で使用していました。滑車も何もなく水は自分で引き上げなくてはなりませんでした。4軒ぐらいが共同で使用していましたが、他の人も風呂の水などに欲しいときはここに汲みにきていました。ここでは水がなくなることがたびたびあり、粟井の本部落にある農家の井戸まで水をもらいに行くことがありました。当時、風呂のある家はあまりなく、私たちは実家の風呂を使っていました。近所の人も大部分がその風呂を使っていましたから、順番待ちみたいなところがありました。
 トイレは、共同トイレが外にあり、4軒ぐらいで使用していました。共同のトイレはここだけでした。処理するのも共同で、畑などありませんでしたから、海に持って行って捨てていました。漁業の道具類などはすべて本家のものでしたから、納屋は必要ありませんでした。
 神棚は座敷の6畳の部屋にありました。縁起棚が3畳の部屋にあり、エビス様を祭っていました。
 香川県の金比羅さんには冬、広島県の宮島(みやじま)様には夏におまいりをしていました。親父の時代には櫓をこいで宮島までいっていました。
 私たちが住んでいた家から海までの距離は3m~4mしかなく、家のすぐ前が海でした。家の前は道らしい道はありませんでした。今でこそ防潮堤(写真2-3-14参照)ができていますが、それも当時はなく、台風のときなどは大変でした。」
 娘の**さんは、台風のときの様子を「小学生ころの思い出ですが、現在のように防潮堤などありませんでしたから、波しぶきが直接家に打ち付けていました。ですから雨戸を閉めてじっとしているしかなすすべがありませんでした。それは怖くて気持ち悪い思いをしました。雨戸に板を×印のようにお父さんが打ち付けていたのを覚えています。風の強いときなど満潮と重なれば陸まで潮がきていました。」と語る。
 さらに**さんは次のように語る。「子どもたちも海に落ちたりすることもなく、よく育ったと思います。南の風が吹くと船の管理が大変でした。風の強いときは防波堤のしっかりしている大浦の港へ行きました。漁師は魚がとれたといっては飲み、とれなくても飲むといった状態でした。私たちは雇われでしたから、自分の家でなく本家でいつも飲み食いしました。
 私たちの結婚式は母屋の座敷でしました。昔は式などきちんと挙げる者はいませんでしたが、私たちは2日くらいの飲み食いがありましたでしょうか。2日目は後座(あとざ)といって両家の親戚(しんせき)が集まり、後片付けもかねての酒宴がありました。
 出産は自分の家で、4人の子どもは皆助産婦さんに世話になりました。産室は自分のうちの納戸(なんど)と呼んでいた寝室でした。私らの小さいときは、その地区の取り上げ婆さんという人に頼っていました。私の母は9人育てましたが、助産婦さんなどいませんでしたから皆取り上げ婆さんでした。
 正月の15日のトンド祭りや秋祭り、亥の子など集落全戸が参加してにぎやかでした。トンド祭りは、丸竹を三角すい状に組み合わせ、頂上に家内安全、大漁などと書いた短冊で飾り付けをし、中に入れている松葉に火をつけて、その火で、正月のお飾りや鏡餅などを焼くのです。その餅を食べたり、煙に当たると1年間は無病息災でいられるといわれていました。恵比寿神社の前の海岸にももう一つ同じようなものを造り、これは燃やしませんでした。この世話は青年団がしてくれていました。私たちが三津に移転するころもあり、正月最大の行事でしたので、今でも懐かしく思い出します。
 大掃除は畳を全部上げて正月前にしていました。集落で一斉にするということはありませんでしたが、ほとんどの家が正月前の天気のいい日を選んでしていました。夏は網ノ浦のいわし漁に行っているので行事らしいものはありませんでした。
 この地区の秋祭りは皆が楽しみにしていました。粟井の本部落に桑名(くわな)神社があり、10月の17日がお祭りで、その神社に大泊の神輿(みこし)がありました。祭りのときは大泊の家1軒1軒を神輿で回って、終われば神輿を納めに行っていました。この納めに行くときに大人も子どもも粟井までついていきました。
 本家では、女の人が常時二人ぐらい食事の世話や、洗濯などしてくれていましたから、その人たちのことをおなごしさんと呼んでいました。ひき子さんの数人は本家に住み込みでいました。」

 (イ)網ノ浦の住まいとくらし

 夏の網ノ浦での生活について**さんは次のように語る。
 「夏場は、大泊集落全部が網ノ浦へいわし漁に行きます。まさに民族大移動です。7月に入ったら出かけていました。先に網元が行き、網の修繕や小屋などを見て、私たちは2、3日遅れで生活に必要な家財道具をもって行きました。**の網だけでも100人以上はいたと思います。子どもも一緒に行き、学校がある間は山を越えて粟井の城山小学校まで歩いて通っていました。 
 網ノ浦の家は、長屋式の小屋みたいなもので、6畳程度の1間と土間兼台所と食事が何とかできる2畳ぐらいの広さの板の間が海側にありました。  
 移動式のかまどでしたから、天気のいい日は浜でご飯を炊きました。食事は外で用意もしていましたので、隣の食事は今日はどんなものか、すべてわかりました。
 私は6人家族でみんな一部屋で寝ていました。蚊帳をつったら子どもがはみ出していました。隣との境は板か杉皮で仕切ってあり、入口はむしろをたらしただけのものでした。天気のいい日は1日中開けっ放しでした。家の中の窓はむしろをたらすものやしとみ戸のような板を支えて開けるようなものでした。昼間は、大人も子どもも何か仕事がありましたから、家の中にはいませんでした。
 私が子どものころは電気がなくランプでした。戦後は電気もつきましたが、1部屋に小さな裸電球があるだけでした。
 風呂は一時期、たらいを使ったりもしましたが、共同風呂がありました。網元がそれぞれ風呂を作っていましたから、それを皆が利用していました。イワシを煮る釜を下において上は土管かドラム缶を利用してコンクリートで固めて風呂にしていました。そしてちょっとした洗い場を作っていました。最初のころ風呂には屋根がありませんでした。
 水は井戸が網ノ浦に4つありましたからそれを利用していました。井戸にロープを落としたことがあり、別のバケツやロープを買うところもありませんから、それを拾い上げるのに苦労した記憶があります。
 **の網元の家は2階建てで、家はある程度きちんとした戸があったようです。昭和30年代後半には**の網元の家にテレビが入り、夜は観客でいっぱいでした。
 網ノ浦では、朝早く4時ころからいわし網で、日が暮れるまでその仕事です。男は朝から夕方まで船の上ですから、別の小さい船で弁当を届けていました。魚見小屋や魚群探知機などはありませんでした。魚を見る人がテブネと呼ぶ船に魚を見つける人がいて、その人の誘導で網船を行かせます。『テブネが招きよるぞ、はよいけ』言うて行っていました。テブネの判断で漁が決まるといってもよいくらいです。
 イワシをとったら塩ゆでにします。これが女性の仕事でした。ゆでる場所は、それぞれの網元で作業場が決まっていました。チリメンイワシは小さい魚ですから余り仕分けしなくてもよかったですが、少し大きなイワシが取れるようになると大きさをそろえるために仕分けていました。この作業も大変でした。海水でゆでるのですが、またその上に塩をいれていました。製品は問屋が毎日のように呉方面から買いにきていました。
 網ノ浦でのいわし網が終わる10月に大泊に帰り、12月ころまではたい網漁をしていました。たい網漁はヨゴチといって、闇夜に出かけていました。自分たちはヒイキ(海ほたる夜光虫のこと)といっていましたが海面ですごく光るものが闇夜に見られました。たい網がすんだら、サヨロコギといって2隻の船でサヨリとりにも行きました。休みはしけのときぐらいでした。
 私は、網元の家に生まれ分家しましたから、本家を助けるのが務めでした。しかし魚がとれなければ賃金をもらえないわけですから、子どもが4人できても別の商売をすることができず、生活が非常に苦しくなりました。漁だけでは生活ができないので、ミカンもしばらく作りました。子ども4人を育てるのに松山の学校に進学させれば余計な費用がかかりますから、一時は兼業漁家です。とうとう親の反対を押し切って、独立したのが昭和46年(1971年)で、同50年3月に松山市三津浜に移住しました。
 大泊の戸数は多いときで61戸ありました。それが大部分の人が三津浜へ移住してきたり、年寄りは亡くなったりして過疎化が進み、今は3戸しか残っていないと思います。ミカンを作る人もいなくなりましたからもう網ノ浦に行く道も獣道になっていると思います。」
 **さんは子ども時代の思いを次のように語る。
 「私は物心ついたころはすごく網ノ浦の生活がいやでしたが、今になってみると他の人が経験したことのないことを経験しましたからいい思い出かなと思っています。愛媛県歴史文化博物館が出版している村上節太郎先生の撮られた写真集(『村上節太郎がとらえた昭和愛媛』2004)の中に、網ノ浦の写真を見たときにはすごく感激しました。夏でしたから草履や靴など履いたことがなく裸足でしたので、砂浜が太陽熱で熱くなっていて『足が熱い、熱い。』とよく言っていました。」
 さらに**さんは、「現在も夫婦で小型底引き船に乗っています。長年しんどいことばかりでしたが、漁師仲間で何かあればすぐに連絡しあって夫婦で集まれることが何より嬉(うれ)しいことです。昔から考えたら楽になりました。家内は今、昔のことを考えれば女王陛下暮らしです。大泊から夏に網ノ浦で生活していたころは夏の暑さと、煮干を作る暑さで女性でも上半身裸の人が多くいました。孫たちに網ノ浦の生活を話すと、『じいちゃんらは難民みたいな生活をしていたんじゃ』言います。」と語る。
 奥さんの**さんは、「今考えると子どもはほったらかしで、大きくなったと思います。私たちが子どもを育てたのではなく、子どもたちがほったらかされていて、よく成長してくれたと思います。」と子どものことについて語る。

写真2-3-13 大泊の集落

写真2-3-13 大泊の集落

松山市中島粟井大泊。平成17年7月撮影

図表2-3-12 大泊の住宅の見取り図

図表2-3-12 大泊の住宅の見取り図

**さんからの聞き取りにより作成。

写真2-3-14 現在の防潮堤

写真2-3-14 現在の防潮堤

松山市中島粟井大泊。平成17年8月撮影