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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)今に残る防風・防潮石垣②

 イ 水の確保に

 蒋渕大島での水事情について**さんはさらに次のように語る。
 「この地区では水の確保が最大の課題でした。水の確保には苦労させられました。自分たちで簡易水道を造りましたが、雨水を貯めて各戸に配る仕組みのもので、雨が降らなければ水は出ませんでした。この大島地区には飲み水に適する井戸は、現在の農協裏のハイカラ井戸(写真2-3-20参照)一つしかありませんでした。水を探すために三つも四つも井戸を掘りましたが、どれも飲料水になるものではありませんでした。
 飲み水に適する農協裏の井戸は、1日に1回、かまぼこ板より少し大きい木札(縦25cm・横5cm)の井戸廻り札と呼ばれる板と水桶(みずおけ)が二つ、各家庭を順番に回ってきます。それを持って井戸に行き、水を汲んで担い棒で担って帰るのです。少しでも多くと、桶一杯に水を入れてゆっくりこの坂(口絵参照)を登って家まで持ってきていましたが、これは大変な重労働でした。この木札がきてはじめてその水を汲むことができるのです。飲み水に適した井戸はハイカラ井戸と書いてありました。他の井戸の名前はオモヤ井戸(公民館の西の井戸)、この井戸の上にイノウエ井戸、下にハマ井戸がありました。ハイカラ井戸の近くにナカ井戸と呼ばれる井戸がありました。これらの井戸も廻り札が作られていました。昭和30年代には60戸以上ありましたから、その家を回ってくるのですから時間もかかります。洗濯には水がたくさんいりますから、家の中ではできませんでした。約700m東の蔵良(くらら)地区の海岸に井戸がありましたので、そこにセメントで洗濯場を作り、そこまで洗濯物を持っていきました。飲み水には適さない井戸も、同じように札が1日に三つくらい回ってきていました。ここの女の人はこの水汲みをして足が悪くなっている人が多いのです。飲み水はハイカラ井戸一つしかなく、集落の全戸が汲むわけですから夕方には水が汲めないこともありましたが、翌朝にはまた水がわいていました(昭和32年簡易水道、昭和60年山財ダムからの給水が開始された。)。
 共同で使う井戸は、毎年夏に井戸がえをするといって、掃除をしていました。終われば世話役をしている人が御神酒(おみき)を供えて簡単な神事をしたり、正月には各井戸に鏡餅を供えたりしていました。この地区の命の水ですからそれは大切にしていました。
 私も昭和49年から真珠母貝養殖をはじめましたが、はじめた時期が遅く、もうけるところまでいきませんでした。長男(昭和22年生まれ)が嫁さんを関東から連れて帰って、真珠養殖の手伝いをしていましたが、水の苦労がありましたから都会育ちの娘さんには我慢ができず、約3年で息子と一緒に上京してしまいました。そのころ真珠母貝の値段もよかったのですが約10年でやめてしまいました。」

 ウ 地区の行事

 **さんは続いて地区の行事について次のように語る。
 「地域の行事として、オシメと呼んでいましたが、1月14日は綱引きをします。これは神社の注連縄(しめなわ)をはずして、それで綱引きを、男と女で分かれてします。男と女が3回ずつ勝つような行事でした。昭和30年代は集落の全員が出てにぎやかな行事でした。その年の無病息災、家内安全などを願っての行事でしたでしょうか。
 寄り合いもありましたが、地区の寄り合いは、常会(じょうかい)と呼ばれていました。地区のさまざまなことを決めたり、市役所からの伝達があったりで、大島地区では定期的に年4回、4月、6月、9月、12月に開かれていました。常会の席順などは特別決まってはいませんでしたが、昭和30年ころから議長制を取り入れ、4月の常会でくじを引いて、1年間の席順を決めていました。
 結婚式は家でしましたが、昭和21年(1946年)のことですから、酒はないし食べるものもイモに麦ですから、ご馳走はありませんでした。役場からも爆弾(太平洋戦争後の酒のないときに出まわった、急造の下等な密造焼酎)というアルコールをくれました。これで三々九度をしました。酒がありませんから爆弾ばかりでした。やがて今度はホケと呼ばれるいも焼酎でした。近所の人が頭を結ってくれたりして、今とは大違いで簡素なものでした。
 昭和45年(1970年)に亡くなった母は土葬でした。私の家の隣りが遍照院という住職のいないお寺です。
 この寺にはお大師様が祭ってあり、この集落で面倒をみています。その世話も皆年をとってきましたから、大変です。1月16日、3月21日、8月16日、11月21日の年4回、お供え物をしてお祭りをします。正月には朝から晩まで皆が集まり念仏を唱えます。8月にはお寺の前に幟(のぼり)を立てます。
 大島には、鷣鷹(はいたか)神社がありますが、これはいつできたのか定かではありませんが、近年建て替えられました。秋の9月11日に祭りを行います。朝、神社に男性が集まって拝み、幟を立て、注連縄を飾り、お供えをします。その後、公民館に集まって宴会をしていました。各家庭でもご馳走を作ってお祝いしていました。現在は昔のようなにぎやかさはありません。年寄りばかりの地区になってしまいました。私は85歳になりましたがいまだにこの集落の世話役をやっています。この年になってもその役をやらないと人がいないのです。私の4人の子どもは皆地区外に出ています。」

写真2-3-20 ハイカラ井戸

写真2-3-20 ハイカラ井戸

宇和島市蒋渕大島。平成17年7月撮影