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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(2)山村の子どもたち-久万高原町ニ名の話-

 昭和30年代の前半に、とある公民館で農繁期に開設された託児所の記念写真である。このころ、生活改善運動の一環として田植えや稲刈りなどの農繁期になると県内各地に「季節託児所」が開設されていた。この写真には、30人を超える子どもたちが写っている。この子どもたちが入学したであろう二名小学校は昭和33年度に児童数のピークを迎え、全校で170人となった(⑤)。その後、過疎化、少子化の進行の中で平成16年3月末をもって閉校となり、父二峰小学校へ統合された。平成18年10月1日現在、父二峰小学校は全校児童数24人で、このうち二名地域から通う児童はわずか7人である。
 冬にキンマ(木馬)と呼ばれる、手づくりのソリで遊ぶ子どもたちの一こまである。軍手やゴム長靴をはいている。背景には、ワラグロのほか、稲木が写っている。
 また、縁側で雑誌『幼稚園』を広げる姿である。二人は、お面をつけ、着物を仕立て直したデンチ(ちゃんちゃんこ)姿も写っている。
 「もはや戦後ではない」のフレーズで知られる昭和30年の経済白書からもわかるように、日本が次第に高度経済成長期へと入り始めたころの話である。
 当時子どもたちを虜(とりこ)にした、スケート(現在のキックスケーターにあたる。)と三輪車とが写っている。
 民家の前の畑で、モンペ姿で、クワ仕事をする子どもたちである。クワ仕事は「カッチンコ」と呼ばれていた。草葺の屋根やガラス障子、洗濯干し場、焚(た)き木が写っている。この写真に写っている三人は、いずれも故郷を離れた。
 これは、日本の小さな山村で起きた出来事とはいえ、高度経済成長期の地方の様子を典型的に物語っている。
 昭和30・40年代の「高度経済成長」は、農山漁村からの移住を加速する。「金の卵」と呼ばれた子どもたちは、中学校卒業もしくは高等学校卒業とともに都会へと向かった。
 「高等学校への進学率の全国平均は昭和35年51.5%(愛媛県50.5%)、昭和40年70.7%(同67.2%)、昭和50年91.5%(同92.7%)と急激に上昇、高等学校は大部分の青少年を教育する国民的教育機関としての性格を強めるに至った。(⑥)」
 しかしながら、将来性が高く、安い給料で雇用できることから「金の卵」としてもてはやされていた若年労働者の雇用にもかげりが見え始め、彼らを都市部へと運び続けていた集団就職列車も昭和50年(1975年)の運行を最後になくなっていったのである。