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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(1)寺のくらし-今治市朝倉上の話-

 朝倉上の中心集落となる、水(みず)の上(かみ)には、上朝(かみあさ)小学校、龍門(りゅうもん)保育園、今治南農協上朝事業所などがある。中央を県道東予玉川(とうよたまがわ)線が頓田川(とんだがわ)と並行して横断し、東端は県道今治丹原(たんばら)線につながり、北東部で県道朝倉伊予桜井(さくらい)停車場線と分岐している。昭和40年ころより県道や市道が舗装され、耕地整理や河川の護岸工事も進み、大きな変貌(へんぼう)を遂げている(⑦)。
 寺院に生まれ育った**さん(昭和20年生まれ)、**さん(昭和23年生まれ)兄弟に聞いた。

 ア まれびと

 **さんは、「毎年どこからか『のいしきさん』と呼ばれる男性が、バスに乗って風呂敷包みを担いでやってきました。どうやら法衣(ほうえ)や仏具を訪問販売していた京都の業者さんで『野一色(のいしき)』という苗字だったようです。この人は毎回、寺に一泊することになっていました。
 鮮魚は、桜井の浜(現今治市桜井)から行商にきました。一人は『トラさん』と呼ばれる男の人で天秤棒(てんびんぼう)に魚桶(おけ)を振り分けて売りにきていました。もう一人は、『シャンばあさん』と呼ばれる女の人で、こちらは乳母車のような小さな車を引いていました。『トラさん』も『シャンばあさん』も、本当の名前は知りません。」と話す。

 イ お店でのやりとり

 **さんは、「この辺りには、『トコヤミセ』、『シンガイ』、『アオノミセ』の3店舗がありました。3店舗とも同じような品物を扱っていました。よくアイスキャンディーや駄菓子を買いに行きました。
 当時は、対面販売(顔見知りとして互いに向かい合い、顧客との良好な関係性を構築しながら行う販売方法。店舗だけではなく、富山の置き薬など訪問販売も含まれる。)でした。私の成長とともに商業形態がだんだんと変化して、対面販売よりもセルフサービス販売(顧客自らが陳列棚から商品を選択して、レジまで運んで精算する販売方法。)が多くなっていきました。平成に入ると、通信販売(広告やダイレクトメールなどによって注文をとり、商品を発送する販売方法。)も多くなっています。薄利多売が主流なのでしょうが、かつての対面販売には、店舗の人とあれこれとやりとりをする中で、社会性を身に付ける効果があったように思います。
 例えば、お使いでタバコを買いにいくと、『ぼく、このタバコは、だれが吸うのかな。まさか、ぼくじゃないよね。』と聞かれます。『お客さんに頼まれたんよ。』と答えると、『そうかい。お使い、御苦労様。』というような、やり取りがありました。地域社会で子どもたちを見守るような働きかけがあったのでしょう。最近のスーパーマーケットでの買い物なら、お店の人とほとんど会話もしないうちに商品が手に入ります。便利なようでも年齢の異なる世代間でのやりとりがなくなったので、社会性を伸ばす効果までは期待できなくなりました。」と話す。

 ウ ラジオと白黒テレビ

 **さんは、「ラジオ放送が楽しみで、夕方は、少年剣士が主人公だった連続ラジオ劇の『赤銅鈴之助』、夕食後は推理物の『私は誰(だれ)でしょう』や、浪花千栄子と花菱アチャコが演じていた連続ラジオ劇の『お父さんはお人よし』をよく聞きました。なかでも『赤胴鈴之助』は、子どもたちの間で大人気でした。チャンバラでは、たいていだれもが『真空斬(ぎ)り』のまねをしました。風呂敷(ふろしき)を三角に折ってから、覆面にしてかぶり、鞍馬天狗のまねをする子もいました。」と話す。
 一方、**さんは、「白黒テレビの方は、当時は宿直の先生がいたので、隣地にある上朝小学校へ行って見せてもらいました。人気番組は『大相撲』で、そのほか『怪人二十面相』とか『月光仮面』なども見ました。真空管の受像機は、スイッチをオンにしてから映像が映り始めるまでの待ち時間が長くて、スイッチをオフにしてからもブラウン管の真ん中に点が灯(とも)っていました。本当に消えてしまうまでかなりな間があったので、ぼんやりとながめている時間ができました。今のように24時間放送などはなくて、午後になるとテストパターンだけを流す時間帯がありました。緩やかな時間が流れていたように思います。
 昭和30年代を足早にたどると、ダイハツミゼット(昭和33年[1958年]発売の軽3輪の貨物自動車。)のCMで知られる人情喜劇の『やりくりアパート』が記憶に残っています。大村昆が「ミゼット」を連呼する生CMが人気を博していました。それから、ヒーローとしては空手チョップの力道山、巨人の長嶋(茂雄)でした。遊びでは、メンコやダブリッチンをよくしました。このあたりでは、ビー玉のことをダブリッチンと呼んでいました。
 昭和34年の皇太子御成婚の翌年、35年(1960年)の10月から、カラーの本放送が始まりました。街頭テレビが脚光を浴びていました。昭和39年(1964年)の東京オリンピックも懐かしい思い出です。男子体操の『山下跳び』とか、女子バレーボールの『東洋の魔女』などが話題になりました。一般家庭にカラーテレビが普及したのは、もう少し後のことで、昭和43年(1968年)のメキシコオリンピックか、翌年のアポロ11号の月面着陸のころだったように思います。」と話す。

 エ 手伝いの話

 **さんは、「春になるとお釈迦(しゃか)さんの誕生を祝う、花祭り(灌仏会(かんぶつえ))の準備をしました。小さなお堂状の祠(ほこら)に紙をはり上げてから、その上に花飾りを飾り付けました。参拝していただいた皆さんには、甘茶(アマチャヅルの葉を蒸してからもみ、乾燥させたものを煎じた飲料。4月8日の灌仏会のときには釈迦像にかけたり、飲んだりする。)の接待をします。
 当時は寺の庭が、盆踊りの会場になったり、野外映画の会場になったり、いわば集会場のような機能を果たしていました。確か、盆踊りのときには3晩ぐらい、会場を移しながら踊っていましたが、最後の晩は、うちの寺の庭が会場になりました。
 冬が近くなると、漬け物にするダイコン干しを手伝いました。漬け物にするダイコンは、鐘撞(かねつ)き堂(どう)に縄をかけて、干してから漬け込んでいました。渋柿の皮を入れるのが不思議でした。
 寺で寄り合いがあるときには、火鉢の世話をしました。当時は、二人に一つずつ火鉢をあてがうことにしていましたので、炭加減を見ながら、炭籠(すみかご)を片手に炭を補給する必要がありました。今のようにライターはありませんから、朝、火起こしをするのが母親たちの務めでした。
 幼い兄弟の面倒をみたり、風呂(ふろ)を沸かしたり、ニワトリの世話をするのも子どもたちの仕事でした。家でニワトリを飼っていたので、上朝中学校に通っていたころは、学校給食がなく、昼休みに昼食を食べに帰ったついでに家のニワトリ当番をしました。餌(えさ)は、刻んだスイジンコ(スイバ。タデ科の多年草。道端、畑地、田の畦(あぜ)などに生育。全体に酸味がある。)に米糠(こめぬか)を混ぜて与えていました。田植えは、まだ手植えの時代で、田休みがありました。麦弁当、押麦なども懐かしい思い出です。また、年末になると、それこそ一日がかりで餅(もち)つきをしましたが、男四人兄弟だったので、小学校6年生のころからは一手に任されました。お手伝いをするという意識でしていたのではなく、家族の一員としての務めを果たすのが当たり前の時代でしたから、これといった見返りを求めたりはしませんでした。大人から一人前に扱われ、期待されるのがうれしかったように思います。
 今治市内の高校へは、実用自転車で通学しました。道路は未舗装でした。乗合バスの車体がボンネット型からキャブオーバー型に変わったころでした。バスの後を走るときには、舞い上がる土ぼこりに閉口しました。洗濯板のようにでこぼこになった往還を削って平らにならす車も走っていました。」と話す。

 オ 自然の恵み

 **さんは、「野山には、自然の恵みがいっぱいありました。スイジンコやツバナ(チガヤ。イネ科の多年草。野原や荒地、海浜、畦道などに生育。出穂前の幼穂には、甘味がある。)、野イチゴやアケビなどをよく食べました。
 夏になると、セミとりは近くの飯成(いいなり)神社でしていました。境内は地域の憩いの場になっていました。川での泳ぎは、頓田川の上流にあるタカンド(高野堂堰(たかのどうせき)にちなんだ呼称だと推定されるが、地元の人々は今でも頓田川のことを『タカンド』と呼んでいる。)まで行くのですが、カミノツゴ・ナカノツゴ・シモノツゴ(高野堂堰(たかのどうせき)の上手にある野津子堰(のつごせき)にちなんだ呼称だと推定される。)と呼ばれ、それぞれカミノツゴでは小学校の低学年から中学年、ナカノツゴでは小学校の高学年、シモノツゴでは中学生という具合に淵の深さにより3段階にすみ分けがされていました。
 海へ泳ぎにいくことは、よほど裕福な家庭を除くと、地域で一緒に何年かに一回、出かけるぐらいでほとんどありませんでした。」と話す。

 カ 亥の子

 **さんは、「男の子にとっては、亥の子さんがメインイベントでした。一日も早く、大将になりたいと思っていました。亥の子さんの日の一週間程前に地域の各戸を回って御祝儀(ごしゅうぎ)をもらって、それを準備資金として今治市内へ買出しに行く特権を謳歌(おうか)しました。買ったものでは、石鹸饅頭(せっけんまんじゅう)(今治市内で製造販売されていた石鹸のような形をした蒸(ふ)かし饅頭。)が懐かしいです。そして、亥の子さん当日、お当屋(とうや)へ男の子が集り、その家を振り出しに御祝儀をもらった家々へゴウリンさん(*4)をついて回りました。伝統行事としてはマンド小屋のことを話には聞きましたが、私らのときには、もう廃(すた)れていました。昭和40年代の後半になると、亥の子の在り方も大きく変わってきて、女の子も参加しないと続けることができなくなってきました。時代の移り変わりとともに亥の子の持っていた魅力がそがれてきたのと、大人がリードしないと継続できなくなってきたのとの両方だと思います。団塊(だんかい)の世代は60~70人はいたと思います。しかし、今では2、3年に一人くらいしか新生児が生まれません。一人暮らしとか、夫婦だけの世帯が多くなって、このあたりで3世代が同居をしている家庭は、3軒くらいになってしまいました。」と話す。


*4:ゴウリンさん 亥の子には、「石の亥の子」と「わらの亥の子」の二つのタイプがある。朝倉上は、「石の亥の子」の地
  域で、亥の子石のことを「ゴウリンさん」と呼んでいる。「降臨」に由来するという説もある。