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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(1)玉川の子どもたち

 今治(いまばり)市玉川(たまがわ)町は高縄(たかなわ)半島の中央に位置する。三方は山林に囲まれ、北部だけが今治平野に接し、山林と丘陵が面積の大半を占め、蒼社(そうじゃ)川が町内を南北に貫流している。農林業が盛んであったが、現在は今治のタオル業や造船業への通勤者が増え、兼業農家が大半となっている。
 玉川の子どもたちの遊びやくらしについて、**さん(大正14年生まれ)、**さん(昭和4年生まれ)夫婦、**さん(大正14年生まれ)、**さん(大正15年生まれ)、**さん(昭和6年生まれ)、**さん(昭和6年生まれ)、**さん(昭和23年生まれ)、**さん(昭和23年生まれ)、**さん(昭和24年生まれ)に話を聞いた。

 ア 山の子なのによく泳ぐ

 「竜岡(りゅうおか)小学校の近くの子どもは、帰ったらすぐに学校の下の蒼社(そうじゃ)川に泳ぎに行きました。滝や大岩があって、よく飛び込んでいました。水量も多くきれいで、淵のところは背が届かない深さでした。午後4時ころまで、また唇が紫色になるまで遊んでいました。おなかが空(す)いたら川岸のクルミの木の実をとって、石で割って食べていました。まだ十分熟してなくて、乳白色でココナッツのような味がしました。
 学校から3kmあまり上の子どもも帰ると近くの川で泳いでいました。小学生から中学生まで来ており大人の目はなかったのですが、危険なことはありませんでした。力石(ちからいし)地区に近い良い泳ぎ場でした。どの地区でも大人からなんのかんのと言われることなく、子どもたちだけで遊び、泳いでいました。大きくなってから、うれしかったのは『山の子じゃのによく泳ぐ。』と言われることでした。
 また学校の裏のところには、先生と保護者が川をせき止めて水泳場を造っており、体操の時間にはそこで川上に向かって泳ぐけいこを重ねていました。」

 イ あぜマメ植えて、もみ干して

 「手伝いはよくしました。田植えのときは、お弁当を作って家族全員で出ていました。私の仕事はあぜマメ植えでした。姉が木槌(きづち)でポコポコとあぜに穴をあけてゆきます。その後から私がダイズを三つくらい穴に押し込んでゆくのです。5年生のときだったと思いますが、学級で田圃(たんぼ)を作ってイネを植えたことがあります。中学校の下の空き地に水がたまっているのを見て、『田植えしたらどうかなー。』とだれかが言い出して、『やってみよや…。』とみんなで土をかき混ぜて、家に余っていた苗を持って来て、田植えをしたのです。遊びでしたが、秋にはお米がとれ、炊(た)いて食べました。
 夏にはお盆前のお墓掃除に、シキミをかかえて母について行きます。私道の部分の草を刈って、お墓の周りの掃除をして、シキミを差し替えて水を入れます。
 秋には父が芯(しん)になる棒を田に立て、わらぐろを作る準備をします。子どもはわら束を二つに分けて順に差し出します。わらぐろが次第に高くなると、受け取りやすいように下から投げ上げなければなりません。もみ干しもいつもしていました。庭一杯に何十枚もむしろを敷いて、昼前にはひっくり返して、全体にお日さんが入るようにして、夕方にはむしろのままで納屋(なや)の軒下に積み上げるのです。一日や二日では乾かないし、雨が降りそうになると取り込みに家族総出で大騒ぎでした。
 ムギまきの準備の株掘りも子どもの仕事でした。薪(たきぎ)拾いやスクズ(松の落葉)集めなども子どもの年に応じてしていました。
 冬には今と違って雪がよく降りました。どんな大雪でも学校は休みにはなりませんでした。道と畑の区別もないところを、長靴をはいて学校へ行きました。父は私が入れるくらいの大きさのかまくらを作ってくれました。雪が積もると山の若木が曲がるので、男の子は父の手伝いで山へ行きます。小さい木は手で起こしますが、斜面の大きい木は滑車を掛けて上から引っ張って起こしてやるのです。
 どの家も牛とニワトリは飼っていましたので、餌(えさ)取り・餌やりの手伝いをしました。ニワトリにはその辺りのヒヨコグサをやってから、学校へ行きました。牛は朝晩草を刈らないといけません。ツユクサやヌカが御馳走(ごちそう)なので、わら切り(押切(おしぎり))で切ってまぜて桶(おけ)に入れてやるのです。」

 ウ 人気一番、片岡千恵蔵・力道山

 「葛谷(かづらだに)地区の山の上の方に無線の中継所があって、呉(くれ)(広島県呉市)のアメリカ軍がジープでときどき見に来ていました。外国人を見るのも珍しかったし、一度ジープが谷に転がり落ちたときには、みんなで谷底へ割れたフロントガラスの破片を拾いに行きました。またその中継所の関係で電力会社の人が赴任して、その子どもが組に転校生として入って来ました。
 授業が終わって家に帰ってから、また学校へ遊びに行きました。門も塀もなく出入り自由でした。隣の天神さんのお社(やしろ)に大きいシイの木があり、落ちてくるシイの実をポケットいっぱい拾って食べていました。学校に楽焼き窯(かま)があって、焼き物を作りましたが、その後はイモを焼いて食べました。運動場に大きいクスの木がありましたが、運動会の前の日に台風で倒れて、全校でオーエス(綱引きのときの掛け声)の綱で引っ張って端へ寄せたのを覚えています。校舎はL字型で業務員室、宿直室がありました。保育所も側にあって巡回映画が来ると、そこの講堂に上がって見せてもらいました。小さいから一番前で見ていると、東映のマークが出て、波がグウーと盛り上がって自分にかぶさって来ると、なんともいえない興奮がわき起こって来ました。片岡千恵蔵が颯爽(さっそう)と登場して、『正義の味方…』などという台詞(せりふ)が始まると、みんなが一斉に拍手をしていました。
 映画といえば、学校から今治まで映画を見に連れて行ってもらったことがありました。『砂漠は生きている』という題で、非常に新鮮な印象を受けました。夫は今治で育ち、私より3歳年上ですが、あるとき同じ映画を見ていることが分かり、いろいろと思い出を話し合ううちに共感する場面も多く、当時の子どもたちに強いインパクトを与えた作品だったのだと思いました。同時に上映されたもう一本が『稲尾物語』だったのもよかったと思います。西条高等学校や丸善石油が全国優勝したころなので、子どももみんな野球に強い関心を持っていたのです。
 テレビは地域に2台あり、みんなが押し掛けるので、何曜日と何曜日というように日を決められていました。力道山は一番人気があって夢中で見ました。皇太子さんの御成婚のときは、学校の家庭科室で見せてもらいました。『紅白歌合戦』もテレビのある家で見せてもらいました。家ではラジオで花菱アチャコと浪花千栄子の『お父さんはお人好し』をずっと聞いていました。高校野球もラジオで聞きました。
 集会所へよく田舎芝居が来ていました。その一座の子どもも何日間か、転校生として学校に来ていました。各地区の集会所に寝泊まりして、1週間くらい芝居をして次へ移っていったようです。家族5~6人で任侠(にんきょう)物や巡礼物などをしていました。子どもも役者なので、芝居が終わったら学校へ来て勉強していました。色白のきれいな子でした。舞台で『ととさんの名は…』などと透き通った声で、演じていました。」

 エ たのもさんやとんどさん 

 「たのもさんは『たのめさん』とか『たのもうさん』などと呼ばれ、豊年満作を願って人形を作って祀(まつ)るのです。畑寺(はたでら)地区ではずっと戦前から旧の八月朔日(ついたち)に、青年団の世話で、子どもたちと一緒に人形を作っていたのです。近ごろは愛護班の世話で、夏休みの終わりの8月の末に集会所に子どもたちが集まって作っています。まず餅(もち)米を引いた粉を蒸します。そして赤や黄や緑などの色粉を入れて、丸い50cmくらいの棒状のものを作ります。それを素材にして伸ばしたり、ひねったり、くっつけたりして、子どもたちが自分で工夫して人形を作るのです。旗を持った人形や花やイヌやウサギやときには怪獣などが作られます。昔は『秋が良いように、大きく作れ。』とか『飢饉(ききん)の年にはよく肥えた人形を作れ。』などと言われていました。台紙の真ん中に大きい花や人形を据えて、周囲に小さい人形や動物を置いて、形を整えて神様へお供えしてお祈りするのです。そして旧8月2日には神様から下げて、焼いて食べていました。今は食べずに長らくお供えしているままのようです。
 亥の子は宿を決めて、2~3回寝泊まりして各家をついて回りました。中学校2年生が大将で、お金やお米を事前に集める場合と、ついた家から御祝儀をもらう場合など地区でいろいろでしたが、大将がみんなの納得のいくように分配していました。当日までに荷車を押して町までミカンやお菓子を買いに行っていました。ついた穴は庭のちょうどよい所にあるので、翌朝ちょっと足を入れたくなるのですが、『踏まれん、踏まれん、罰が当たる。』と怒られました。
 とんどさんは注連(しめ)飾りを集めて回り、少しお金をもらうところもありました。子どもが学校へ行く前に自分の家の分を持ち寄って川縁(かわべり)で焼くところもありました。そして竹の串(くし)に刺して焼いたお餅を食べました。真っ黒けなのにこれを食べたら、一年中病気にならないといわれていました。」

 オ イタドリの巻きずし・竹のフラフープ

 「女の子の遊びとしては、ままごとやゴム跳び、着せ替え人形などがありました。むしろを敷いて、イタドリで巻きずしを作ってみたり、ときにはスイジンコ(スイバ)の芯(しん)を入れたりしました。ゴム跳びはスカートをパンツに挟み込んで、高く上手に跳ぶことに熱中しました。布をもらって、いろいろ服を作ってキューピーさんの着せ替えをしました。缶けり、おにごっこ、チャンバラ、隠れ小屋作り、木登りなどの遊びは男女の区別なくやっていました。学校の竹のはんと棒(木登りの訓練をする体操用具)で一本上り、二本上りの練習をしていましたから、木登りは平気でした。スカートのままで上っていると、おじいさんやおばあさんに、『女の子は女の子らしゅうに、尋常にしなさい。』と言われましたが、みんなあまり気にしていませんでした。フラフープも大流行でした。父が竹を薄く削って輪を作ってくれました。器用な男の子は自分で作っていたようです。輪に身体を入れてひょいと回すと、くるくる回り出します。20回くらいは普通に回せますが、30回以上となるとなかなかでした。竹馬や木馬(きんま)もみんな手製でした。木馬は1人乗り、2人乗りがあって、冬は斜面の枯れ草の上をシャーッと滑り下りました。かなりのスピードで、カーブでは身体を斜めにしてバランスを取って、格好良かったです。男の子も女の子も参加、滑り損なっても斜面の下にもみ殻の山があるので、けがをすることはありませんでした。」

 カ 湖底に沈んだ小学校

 「お祭りは春のお祭りの所と秋のお祭りの所があって、親戚(しんせき)同士でお互いに呼ばれて行きました。春の祭りに来て、秋の祭りに行くのです。きれいな服を着て、いとこたちが集まって来るのです。大人はお酒や御馳走(ごちそう)で、子どもたちはお宮の露店へ行ったり、遊んだりわいわいがやがや、にぎやかに楽しい時間を過ごしました。子ども神輿(みこし)も担(かつ)がないといけません。そういうときは、朝学校へ行って黒板へ名前を書いておくのです。そうすると先生が『あの地区は今日はお祭りで子ども神輿が出るので○○君は出席扱い。』と言ってくれるのです。
 運動会は村をあげて行っていました。大人も大勢で紅白に別れて、綱引きをしたり、走ったり、かなり燃えていました。女の子はブルーマではなく、大きいキャラコ(薄くて光沢のある平織りの白木綿地)の真っ白なパンツがはけるので、みんなうれしがっていました。組み立て体操で、上段の子が崩れ、下から二段目にいたH君が左手を折って、今治の病院へ運ばれたことも思い出です。
 昭和42年(1967年)に竜岡(りゅうおか)の駐在所へ金子さんという巡査さんが赴任してきました。その方と森先生のお世話で、剣道の練習をすることになり、その翌年の10月に今治・越智(おち)地区の少年柔・剣道大会で、団体が3位、個人で羽藤悦夫君が優勝しました。当時は剣道着も買えず、白いトレパン、体操服で出場したのです。それがきっかけになって、子どもたちの間でチャンバラごっこより一段上の剣道ブームが起こりました。
 そのことと玉川ダムの建設で竜岡小学校が廃校になることが新聞に大きく取り上げられました。ダム本体の工事は昭和44年6月に始まり、昭和46年3月に終わりました。そうして母校竜岡小学校は湖底に沈んで行きました。地区の中心にあった農協、役場、駐在所、商店なども立ち退きし、また水没したのです。今も渇水でダムの水位が下がると、竜岡小学校の跡や天神橋が顔をのぞかせます。建物はありませんが、レンガ造りの建物の一部やコンクリートの基礎を見ていると、当時の学校や豊かな自然の中で過ごした日々と先生や仲間の笑顔、そして心のぬくもりが次々と思い出されて来るのです。」