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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(3)上須戒の子どもたち

 大洲(おおず)市上須戒(かみすがい)は大洲市の北西部に位置し、肱川(ひじかわ)支流上須戒川の中・上流に広がる農林業主体の山間集落である。南西の出石(いずし)山に金山出石寺(きんざんしゅっせきじ)があり、地区の人々の信仰心は厚い。
 上須戒の子どもたちの遊びやくらしについて、**さん(大正15年生まれ)、**さん(昭和2年生まれ)、**さん(昭和4年生まれ)、**さん(昭和47年生まれ)に話を聞いた。

 ア 繭もりと虫送り

 「小さいときからお蚕(かいこ)さんの手伝いをよくさせられました。クワ摘みに行ったり、お尻替えをしたりしました。お尻替えというのは、四角な座の上に網を敷いて、朝昼晩の3回クワの葉を食べさせるのですが、その後二人で網を持ち上げると、糞(ふん)が下へ落ちるのです。新しい座に網を載せて、糞を外へ捨てるのです。夏蚕(なつご)は扇風機をかけてやったりしました。蚕は大きくなるとよくクワを食べるのです。雨が降るようなザアー、ザアーというクワを食べる音を今でも覚えています。また蚕がマユを作り、1週間ほどすると硬くなり、マユもりをしないといけません。マユの毛羽やわらくずなどを手で取り除くのです。学校から帰ると『マユもらんといけんよー(マユもりをしないといけないよ)。』と言われて、よく手伝いました。お蚕さんが大切で、子どものことは後回し、親が夜遅くまで蚕の世話をしている間は、蚕に部屋をとられて隅の方で休んでいました。
 炭焼きも盛んに行われ、子どももクヌギや雑木の切り出しや運搬、また焼けた炭を山から下ろす仕事などで、大事な労働力でした。昭和30年ころの冬の山では、炭焼きの煙があちらこちらに立ち上っていました。昭和30年代の終わりころには、燃料の変化によって炭焼きも終わりとなり、山仕事がシイタケ栽培などに変わって行きました。子どもはクヌギやナラなどの榾木(ほたぎ)にシイタケ菌を打ち込む作業や、打ち込んだ木を山陰に組み上げたり、斜めに立てかけたりする作業を手伝いました。
 そういえば私たちが子どものころは、山の動物たちが人間の住む里へ下りて来るようなことはあまりありませんでした。住み分けが出来ていたのです。近頃は山のスギ、ヒノキが大きくなって、実のなる木やキイチゴなどが育たなくなって、動物が食べ物を求めて人里へ下りて来るようになりました。カキには上からカラス、下からタヌキが食べにきます。イノシシは柵を跳び越えて、イモ畑を荒らします。一晩に10mくらい掘って、イモを食べてしまいます。
 田植え上がりには、各家から一人ずつ出て虫送りをします。大人が松明(たいまつ)を持ち、鐘や太鼓を鳴らしながら、西峰(にしみね)から『なんまいだんぼ、なんまいだんぼ…』と唱えながら進んで行きます。子どもはその前後を輪になってついて行くのです。子どもには松風というお菓子が配られます。松明の火で田の虫を連れて行き、上須戒の入り口まで来ると集まった虫を焼いてしまいます。この行事は昭和30年過ぎまで続きましたが、農薬の普及とともに廃れて行きました。」

 イ 陣取りや川遊び

 「陣取りはお宮の境内に、ロー石(せき)で陣を描いて順に取り合いをし、陣を広げて行きました。大きい丸を描き、その中に同じ大きさの小さい陣地をたくさん描きます。3~4人がきしゃご(おはじき)を弾(はじ)きながら、順番に自分の陣地を広げて行きます。大きい丸の中の陣地取りが終わると、じゃんけんで順番と陣地取りの幅を決めて、一度決まった隣の人の陣を侵略して自分の陣に取り込んで行くのです。お手玉や石けりも女の子の遊びでした。ケンケンパは男の子も女の子も一緒にやっていました。男の子は豆鉄砲やシャガ玉(リュウノヒゲの実)鉄砲、水鉄砲で遊んでいました。シュロの生葉を切って腰に敷いて斜面を滑り降りる競争もよくしました。
 お菓子などはあまりありませんでした。ヒガシヤマ(東山、蒸して切って干したイモ)とか干菓子をイモ飴(あめ)で混ぜて作ったものやカキモチなどを食べました。カキモチは豆入りが上等で、火鉢や七輪で焼いた熱いのがおいしさを増していました。イクリ(日本スモモ)、ハランキョウ、ウメ、グユミ、ヨネモモ(スモモ)、ユスラなど季節ごとの生(な)り物はたくさんありました。グユミも昔のは小さい実でしたが、今は大きい実となっています。青い梅は毒があるので禁止されていました。ユスラは10個くらいをバッとむしって口に入れ、種をブワーッと吹き出して遊ぶこともありました。カキなどは子どもがとってしまって、熟れるのが間に合わないくらいでした。今は熟してしまって落ちるのに、だれもとりません。カキも8月に始まる盆ギネリという種ばっかりの小さい物からアマガキ、百匁ガキ、ハッキリ、フジサンガキなどいろいろな種類がありました。シブガキは皮をむいて干し柿にしました。白い粉がふくまで干すと甘く上等の味になるのですが、子どもはそれを待ちきれず、こっそりとって食べては叱(しか)られたものです。またタヌキが木に登って人間より先にカキを食べてしまうこともしばしばありました。
 夏の川遊びは小学校の近くの深いところで、よく泳ぎました。水着などはありませんでしたから、パンツ一枚になって手ぬぐいを持って行きました。柳の木があって、その下で二人がかりで手ぬぐいを水に浸けて、上からゴソ、ゴソとやるとエビ、オコゼ、ハヤなどが入ってくるのです。エビはバックして入って来るのです。淵の30坪くらいの広さがある所へも行きました。水はきれいで、深さは1mくらいあり、崖は4m近くあり、青木の側から足を下にして飛び込みました。岩場で飛んだりはねたりするので、切り傷・擦り傷もよくありました。何時間も水に浸かって、唇が真っ青になるまで遊んだものです。いつも5~6人から15~16人くらいが集まっていました。当番がいて、田の畦(あぜ)を踏むなとかいろいろ全体に気を付けていました。今思うと、道具もなにもありませんでしたが、自然の中で近所の仲間と楽しく、思い切り遊べて、幸せだったと思います。」

 ウ 相撲甚句

 「9月の初めくらいから相撲甚句の練習と台詞の覚え込みが始まります。小学校6年生までの男の子で、農家の長男の中から12名が選ばれていました。江戸時代に始まり、中止また復活の試みの後、昭和54年(1979年)から正式に再興が果たされ、現在に至っています。10月25日の秋祭りで、神輿の宮出しとお旅所での休憩のときに奉納されるのです。
 役割は大行司、小行司と東の力士5名、西の力士5名の計12名となっています。力士には十両、小結、関脇、大関の位としこ名が与えられます。30歳代の経験者2名が、台詞(せりふ)や踊りの指導に当たっています。もちろん毎年役割が変わってゆきますから、上の子も下の子どもたちにいろいろと教えます。また昭和14年(1939年)から甚句を演じその世話を続け、保存会を発足させた池田幸徳さんや現在の保存会長の桧田健一さんが全体の運営に目を配っているのです。
 踊りは4部構成で、しこ揉(も)み、甚句踊り、東西文句、弓取り式となっています。学年が上がるにつれて、行司や大関の役を務めるようになります。行司は全体の進行役ですから、台詞の意味を考えながら歌い、早さも踊りのテンポを考えながら調整して行かねばなりません。また踊り手の中に腕白(わんぱく)がいると、その子に行司と上手く調子を合わし腕の振りを大きくさせます。そうすると、歌と踊りが一体になってうまく進行するのです。
 秋の取り入れが終わると、旧10月亥の日に亥の子が行われます。地区によりわらの亥の子、石の亥の子がつかれていましたが、どちらかといえばわらの亥の子が多かったと思います。宿を決めることもなく、小学校6年までの男の子だけでやっていたところや、女の子も一緒についたり、またつかなくても一緒に回って歌い、お菓子をもらうなどいろいろでした。御祝儀はお菓子、果物またお金などをもらいました。特にその年にお嫁さんが来た家に対しては、盛大につき、亥の子歌も十までの数え歌の後に、『ここの嫁さんよい嫁さん はながみちっくりだしかけて おおさかせったですべらんせ。』と付け加えて歌ったそうです。つき終わったわらの亥の子は、自分の家の成り木に掛けておきました。そうすると翌年カキやミカンの実がよく生(な)るといわれていました。
 冬は学校で雪をよせて積み上げて坂を作り、シュロの葉を腰に敷いて滑ったものです。今と違って毎年40cmくらいは雪が積もっていました。雪だるま、雪合戦も盛んでした。みんな霜焼けになって、耳は紫色で、綿入れを着て、ハナを垂らしながら遊んでいました。
 お手玉は自分で手で縫って作りました。1年生から家で雑巾(ぞうきん)を縫っていましたので、枕のような俵形のお手玉を作るのは簡単でした。中へアズキかジュズ玉を入れました。お手玉を上げるのは四つが限度だったように思います。壁の所へ行って、落ちないようにして練習しました。『一番目が一の宮 二で日光東照宮 三で讃岐(さぬき)の金比羅さん…』と歌いながら技を覚えて、競い合ったものです。」

 エ 出石寺参り

 「出石寺の大和尚さんのお住まいが上須戒にあります。戦前は出石寺へ当番制で二人ずつ毎日幟(のぼり)を立ててお参りしていました。地域の守り神のような存在で、みんなが大切に思っていたのです。またお出石(いづし)参りといって月に1回みんなでお参りしたときもありました。自動車のないころは、七曲がりの山道を1時間半くらいかけてお参りしたのです。一番上の打越(うちこし)地区だけは今も日参が続いていますが、上須戒全体では規模は大幅に縮小されました。7月17日のお祭りまで毎日お参りし、当日は参りあげといって酒盛りをするのが習わしでした。その日は昔から青年相撲が行われ、露店も出て大変にぎわい、子どもたちは楽しみにしていました。女の子は長袖を着て下駄(げた)を履いてお参りしました。地域から選ばれて稚児祭りに参加するのは名誉なことでした。昭和42年(1967年)の開創千二百五十年の大法会のときに、娘が稚児に選ばれて、衣装を着、烏帽子(えぼし)を被って、花を持ち行列をいたしました。小学校6年生のときでした。」