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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(2)荏原の子どもたち

 松山市荏原(えばら)地区は松山平野の南部に位置する農村地域で、西は伊予(いよ)郡砥部(とべ)町、東は東温(とうおん)市重信(しげのぶ)町に接する。南方の三坂(みさか)峠に源流がある久谷(くたに)川(御坂川)が、地区の中を南から北へ貫流している。また中心部の恵原(えばら)町に荏原城跡がある。
 荏原地区の子どもたちの遊びやくらしについて、**さん(昭和10年生まれ)、**さん(昭和12年生まれ)、**さん(昭和13年生まれ)、**さん(昭和14年生まれ)、**さん(昭和18年生まれ)、**さん(昭和22年生まれ)の話を聞いた。

 ア 上級生と落ち穂拾い

 「昭和20年代には、学校から帰って上級生が『今日は落ち穂拾いするぞ。』と言うと、1年生までみんな収穫の終わった麦畑や田で、ムギやイネの落ち穂を拾いました。それを学校へ供出し、学校から農協へ出し、そのころの食糧難解決の一助にしていたようです。それぞれの地区で競争して拾いましたが、協力した成果として、点数のようなものをもらっていました。
 また苗代の害虫も竹の筒やサイダーの空き瓶(びん)に入れて持って行くと、一匹なんぼで受け取ってもらいました。朝早く起きて学校へ行く前に、二人一組で苗代に入り、竹棒で苗をなでて二化瞑虫(にかめいちゅう)(ニカメイガの幼虫、イネの茎内を食べる害虫)やその卵をとりました。ミカンにつくテンギュウ(カミキリムシ)などは、農協で一匹5円でした。
 彼岸花のイモを掘って持って行きました。イモをすってでんぷんか何かにしたようです。ある程度量がたまると、ごほうびのドッジボールが帰って来ました。ドングリも拾って供出しましたが、その見返りは苦い虫下しを飲まされた後の飴(あめ)でした。フジの葉やニンドウカズラ(スイカズラの別名、解毒、利尿作用があり薬用。)の葉をとってきて、学校で蒸して、むしろで干してお茶にして飲みました。
 学校が終わるとアケビとりやクリ拾い、またマッタケとりに行きました。また男の子は2~3mに切った木をてんころという一種のクサビを打ち込んで、坂道をドンドン、ドンドン引っ張って下ろすのが手伝いでした。七夕(たなばた)以外の普通の日は田一枚をコロガシ(水田を攪拌(かくはん)する農具)で転がし、またあぜ豆(田のあぜに栽培するダイズ)のもとへ土をかけてから、泳ぎに行ったのです。遊びの前には必ず作業がありました。」

 イ 泳ぎは川、池、泉で

 「奥の方の子は川、中ほどの子は池、下の方の子は泉で泳いでいました。近所の子がかたまりになって行きました。久谷川は水量も多く、きれいな水が流れていました。また池なら傾斜がきついので、みんなが団結して注意しあったり、年長の子が『樋(ひ)の近くに寄るな、こっちへ来い。』とか、川では小さい子は『浅い所で。』とか、自然に気配りが出来ていました。大きい子がそろうと、冒険心が出て、『今日は青淵(あおぶち)へ行こうや。』と言って出かけました。青淵は深く透き通っていてとてもきれいでした。上から飛び込んでスーッと底まで潜ると人魚になったような気持ちがしました。七夕には1日に7回半泳いでいました。そうするものだと言い伝えられていました。
 今と違って岸は石積みでしたから、川には魚がたくさんいました。大きい石の下には、ハヤなどの魚がひそんでいるので、上から石を投げつけると、下の魚が脳震盪(のうしんとう)を起こして浮き上がって来ます。それを手づかみでとるのです(石たたき漁法、ガチンコ漁法などともいう。)。また瓶(びん)をつけて、ハヤをとったり、ヤスで大物を突いたりしていました。昔は水量も豊富で、アユやウナギが上ってきていました。淵には魚が群れていました。籠にニワトリの頭を縛り付けて堰(せき)にしずめておくと、ツガニ(モクズガニ)が頭に群がっているのです。
 また久谷川(御坂川)へはもじ(ウナギをとる漁具、地獄ともいう。)を漬けに行きました。えさはタニシをたたいてもじに入れ、それぞれ自分のなわばりに浸けるのです。もじでは高校2年生が最上級で、いい場所に10本くらいは浸けていました。小学校1年生は2本くらいです。高2が終わるとその場所が次の者に譲られてゆくのです。子ども同士の世界でも、縦の線はきちんと守られていました。女の子はシジミ貝をとりました。ジョウレン(手箕(てみ))とバケツを持って井手や川へ行き、ドジョウやエビをよくとりました。カーバイト(アセチレンガスの原料)を焚(た)いて、夜川(よかわ)へもよく行きましたが、すべって転げ落ちることもありました。また大池を何年かに1回秋に干します。大きいコイやフナが何百匹ととれるのです。たたき(土砂を叩(たた)き固めた土間)を掘り、炭を熾(おこ)し、家族みんなで串に刺した魚を焼いて保存食を作りました。
 泳いで帰っておなかがすくと、柏餅(かしわもち)を食べるのがなによりの楽しみでした。ミョウガやサンキライの葉で包み、ソラマメやエンドウのあんこは、サッカリンが入った甘いような苦いような味のものでした。『柏の葉を山にとりに行ってこい。』と言われると喜んで行ったものです。葉っぱをとる前の日は、家で粉を引き、その手伝いも子どもの仕事でした。いやになって早く回すと粉にならず、叱(しか)られます。引いた粉をスイノ(細かい粉を選別する篩(ふる)い)でコン、コンと降ろします。粉が出来た、葉っぱもある。粉を練り、あんこを丸め、かまどに火を焚(た)いて、子ども自身も参加して作った柏餅です。それだけに食べる楽しみはひとしおでした。」

 ウ 結婚式の手伝いなど

 「女の子も家庭内の母や祖母の暮らしを見ながら育ち、自然にいろいろのことを身に付けて行きました。夏には布団(ふとん)の洗い替えがあり、布にのり付けをし(洗い張り作業のこと)、端を引っ張って縫い合わせるのを手伝いました。お正月には、一年の計画を言わされましたが、あれも、これもと調子づいて言うと、『出来る範囲内のことを、一つにしなさい。』と言われて、たとえば『学校へ行く前に、庭の掃除をします。』と言うと、一年間朝御飯の後、掃除をしてから出かけたものです。御飯をしっかり食べ、掃除で身体を動かし、排便もきちんとすませ、元気そのもので学校へ出かけました。下の子の子守をするのも、当たり前のことでした。
 またあのころは、結婚式は各家でしていましたから、三三九度の杯(さかずき)のオンチョウ、メンチョウ(雄蝶(おちょう)雌蝶(めちょう)を持った二人の女児が夫婦結びの盃ごとをする。)は小学校3~4年くらいまでの女の子の仕事です。これは当日の花形で、学校を休んでもよかったのです。そのかわり振り袖を着て、一度学校の前を通って、『がんばれよ。』などと声援をうけてから式場へ行きました。田植えのときも子どもは大事な戦力でした。縄定規は田の端から端までですから、人数が要ります。子だくさんの家では、大人の間に子どもが入って総勢10人くらい並ぶと、動きも早く壮観でした。近所からもうらやましがられます。イネを刈って稲木に掛けるときは、下で子どもが稲束を七三に分け、上のお父さんに渡すのです。上でそれを交互に締めて掛け、その上にふたをするのです。
 農繁休業は年2回ありました。それぞれ年に応じて手伝いをしていました。父が役場に行っていたので、小学校4年のときには、牛で田んぼすきをしました。小さいので牛のかげに入ってしまい、牛が自分で田をすいとるように見えたそうです。手伝いをかわすのも子どもの知恵で、夏『田一枚転がしとけ。』言われて、しんどいので、一列とばしに転がして、間は足で混ぜてごまかしたのですが、水が澄んで来たら、ばれてしまい、えらいことしかられたりしました。
 古市橋の西側のたもとに、太陽座という映画館がありました。高い建物で近在の人が大勢来ておりました。父がチャンバラが大好きだったので、夕食を早くすませて、いつも座布団を持ってついて行きました。『新吾十番勝負』、『新吾二十番勝負』、東千代之介、片岡千恵蔵などを思い出します。また学芸会は太陽座で行っていました。その日は朝から座席の取り合いでいつも大入り満員だったようです。先生に教えていただいて、『汐汲(しおくみ)』という舞いを踊りました。練習を重ねた踊りを披露して、盛大な拍手をいただきました。」

 エ 肥後守さえあれば

 「秋には亥の子があります。わら亥の子を作るのも、自分で作りました。わらの中へ竹を入れてしっかりと締めて、より高い音が出るように工夫しました。すんだら上級生の指示で、午後9時くらいから10時半くらいまで陣取りをしたり、お墓で肝試しをしたりしました。
 奈良原(ならばら)さんのお祭りは上級生が大八車を借りて各農家を回り、わらや薪(たきぎ)やお米を集め、土俵を作って奉納相撲をしました。集めたお米で炊(た)き込み御飯を作り、おにぎりにして食べるのが楽しみでした。またお宮で大晦(おおつごもり)の行事があるときは、4年生から上は山へ薪をとりに行き、天井へ届くくらいの高さに積み上げていました。下の子どもたちはお母さんに手伝ってもらいながら、おにぎりを作って、その夜大人たちに食べさすのです。かがり火を焚(た)き、おにぎりを差し出し、元旦を迎えるのです。あのころの子どもは役割を決められたら、小さい子も全体の動きを見ながら自分の仕事をこなし、することに対して実にしゃんとしていました。
 身の回りの物を使って遊び、また工夫して物を作って遊びました。肥後守(ひごのかみ)さえあれば大概のことは出来ますが、道具がなければ、道具作りから始めたものです。メジロ籠を作るときには、まず三目錐(みつめぎり)を作ることから始めました。木に釘(くぎ)を打ち込んで、金槌(かなづち)で先をたたいて平べったくして、ヤスリで刻みを入れて行き、削りあげるのです。竹を割って削り、ヒゴ抜きは近所の叔父さんに借りて仕上げます。枠の木に錐(きり)で穴を開け、ヒゴを差し込み、入り口もうまく滑るように作るのです。次はメジロとりに山へ出かけます。小麦を嚙(か)んでねばねばしたものを作って、竹の先に巻いて捕るのです。餌(えさ)や水やり、糞(ふん)の掃除など全部自分でするのです。修学旅行に行く前に悩みましたが、親に頼むことも出来ず、出発の朝、山に帰してやりました。
 スギ鉄砲、すず玉(じゅず玉)鉄砲、紙鉄砲など何でも肥後守で作りました。水鉄砲の飛ばし合いをし、パチンコでスズメをねらいました。左手は切り傷だらけでしたが、あれを作らしたらあの子、これならだれそれと、それぞれ得意がありました。独楽(こま)も自分で作りましたが、心棒の入れ方が難しいので、きちんと回るのが出来るまでには手間がかかりました。 
 竹馬もみんな自作でした。高さや早く走ることを競いましたが、一本を肩に担(かつ)いで、一本足でケンケンをする子がおりました。「エーッサ、エーッサ、エサホイサッサッ。」とお猿の駕籠(かご)屋を歌いながらケンケンをするので、ちょっとした英雄でした。これが出来るのは、10人の内1人か2人でした。」

 オ 植樹祭に3,000人

 「昭和41年(1966年)に国道33号が舗装されました。それまでは砂利道で、あちこちで掘り返されて大変でした。出来た穴にバラスを入れる道路補修の専従の人もおりました。あのころの小学生は塩ケ森(しおがもり)へ歩いて上がっていました。今のように車がどんどん走ることがなくて、木炭車で遅いのです。こっそり飛び乗り、飛び降りて楽をしました。また、𧃴(つづら)川の中学生は帰りは飛び乗ってよかったのです。隧道(ずいどう)の所で飛び降りて、家へ帰っていました。道路が舗装され、車の性能もよくなり、飛び乗りも次第に難しくなりました。三坂(みさか)を上がって行くと、トラックがオーバーヒートしてボンネットを開けて停まっていることがあります。こっそり荷台に乗り込んで、動き出したら、荷物のミカン箱に手を突っ込んで、ミカンをポンポン落としてやると、下級生が追っかけながら拾って行くなどというわるさをすることもありました。
 『日本の山を緑にしよう。』というスローガンで、第17回植樹祭が行われたのが、昭和41年4月17日のことでした。朝から小雨まじりで非常に寒い日でした。久谷村の大久保という所で、天皇、皇后両陛下をお迎えし、約3,000人が参加しました。小、中学生も沿道に並んでお迎えしました。」

 カ おほりの思い出

 「私たちの一番の格好の遊び場所は『おほり』と呼ばれている荏原城跡でした。『おほり』は、その名のとおり周囲を堀で囲まれて、堀には一年中水が満たされていました。道路側からも内側の土塁の方からも、なだらかな斜面があり、そこで腰を下ろしたり遊んだりすることが出来たのです。
 そして外堀に囲まれた内側は、小高い雑木林のようになっていました。そこには何十本もの梅の木が立ち並び、子どもの一抱えもある太い幹の桜の木が4、5本ありました。春には、その桜は、夜目にも白い花をいっぱいつけました。4月4日のひなあらしの日には、わたしたちはお弁当を持って、朝早くから桜の木の下に集まりました。また5月の子どもの日のころ、内側の西にある小さいお社(やしろ)の前で、町内の五つの地区の子どもたちが集まり、相撲大会が開かれてにぎわいました。
 夏には、セミやトンボやチョウを追いかけて、一日中過ごしました。針金を丸くしたところに、クモの巣を巻き付けてくっつくようにした長い竹が、今の虫とり網のかわりでした。このクモの巣も新しいものだと、よくくっつくのですが、古いとねばりがなく、逃げられてしまいます。セミとりはまず、そこに生えている竹を切って、網作りから始まるのです。おほりの竹は特別で矢竹と呼ばれ、節と節の間が長く真っ直ぐで、細工がしやすく、いろいろな道具を作るのに便利でした。
 また外堀では、男の子に交じって魚釣りもしました。餌(えさ)は畑で掘ってきたミミズや砂糖や味噌(みそ)を混ぜて作っただんごや、母がゆでてさいの目に切ってくれたジャガイモです。釣り竿(ざお)はおほりの竹をそいで作りました。針や糸付けは男の子がしてくれました。釣った魚は笹(ささ)の枝にエラから通してぶら下げて帰りました。小さい魚は落ちませんが、ときに大きい魚を笹から落としてしまって、くやしい思いをしたこともあります。
 釣りに飽きると、ヒシとりをしました。夏になるとおほりの水面いっぱいにヒシの小さな白い花が咲き、固い実を付けます。それを長い棒で引き寄せて、実をとり、生のまま食べたり、たくさんとれると持って帰って、母に塩ゆでにしてもらったりしました。そのゆでたヒシの実は、クリに似た味をしていました。
 イネが終わるとおほりの水を抜いて、コイやウナギやナマズをとりました。水を抜くと、おほりから出た川も干されて、ドジョウやシジミがよく出てきて、子どもでもたくさんとれて、うれしかったことを覚えています。
 秋から冬になり、虫など生き物が目につかなくなると、竹を切って竹とんぼを作ったり、スギ鉄砲やスズ玉鉄砲を作って遊びました。これはやはり男の子の方が上手だったので、女の子はそばで見ていました。竹とんぼが出来上がるまでには、手に何か所か傷が出来ていましたが、よく飛んで女の子がほめてあげると、男の子は痛みなど忘れていたようです。真冬におほりの水が凍ると、小石を投げ、ピッ、ピッ、ピッと弾ませて遊びました。
 木登りも楽しいものでした。大きな木に登れば、坂本から重信川のむこうまで見渡せ、荏原城主になったような気分になれます。また、田で働く祖父や母が豆粒ほどに見えることがありました。そんなときは、『わるいな。』という気持ちになったものです。逆に、小さな木の折れそうな枝を渡り歩くのも、スリルのあるものでした。私たちはそれぞれ、自分の木を決めていました。年上の子ほど大きな木になっていました。そして木の上でいろいろな話をして過ごしたような気がします。
 『おほり』は、一年中私たち子どもの遊び場だったのです。ですから、かなり広いこの場所を目を閉じていても歩けるくらい、石ころの場所から、草や木の生え具合まで知り尽くしていました。『おほり』は、私たちの子ども時代の最も懐かしい場所なのです。」