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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(1)上島町岩城島

 岩城島は、芸予(げいよ)諸島のほぼ中央、愛媛県の東北端で広島(ひろしま)県境に位置し、島の中央に積善(せきぜん)山(標高370m)を有し、面積8.79km²である。山林丘陵がその半ばを占め、平地は少なく傾斜地がほとんどである。岩城港は潮待ち、風待ち港として発展、藩政期は海駅として参勤交代の島本陣、茶屋が置かれ大型の回船を持つ問屋が並び、活況を呈していた(①)。
 明治以降の島の主産業は農業で、第2次世界大戦前の葉タバコ・除虫菊・甘藷(かんしょ)から、戦後は柑橘(かんきつ)類が主流となったが、造船工場の誘致や関連工場の立地があった。一方では温州ミカンからの転換で『青いレモン』の栽培が盛大となり、農工一体の方向を目指している(②)。
 岩城老人会の役員の**さん(大正10年生まれ)、**さん(昭和3年生まれ)夫妻、**さん(昭和4年生まれ)、**さん(昭和5年生まれ)、**さん(昭和8年生まれ)に子ども時代の遊びや行事について聞いた。

 ア 亥の子と子どもたち

 「子どもだけでやっていて特に記憶に残っているのに、岩城島では『亥の子さん』いうのが一番強い印象があります。『亥の子さん』は旧暦10月初めの亥の日の子ども行事で、亥の子当日、子どもたちは各家を亥の子唄(うた)を歌いながら亥の子石をついて回っていました。
 亥の子の行事を世話する『亥の子宿』が決まっていて、亥の子の日が近づくと、夜になったらその宿に集まって唄の練習をしたり、年長者からさまざまなことを学んでいました。当日の2日か3日前になると子どもたちは宿に泊まりこんで、年長者に歌を徹底的に指導されたり、新しい遊びを教えてもらったりしていました。まさに学校で学ぶこと以外のさまざまなことを学ぶ教室みたいなものでした。
 その宿というのは年長者で大将になった家が務めます。大将は高等科1年生(現中学校1年生)が務め、2年生は『ウシロミ』といって後見役を務めるのです。同級生が多くいたら、1年にあるいろいろな行事の大将を順番にしていました。このようなことは今はなくなり、年長者からさまざまなことを学ぶ機会がなくなり、子ども同士お互いを知らなくなりました。
 『亥の子宿』は神が宿るから神聖にしなくてはいけないとして、宿になった家の前に笹竹を2本立て注連縄(しめなわ)を張っていました。その笹竹を他の地区の亥の子集団が切りに来るのです。けんかではありませんが鉈(なた)を持って切るのです。ですから対面して防ぐのではなく、屋根の上や2階にバケツに水をためて待ち構えているのです。切りにきた集団は竹を切ったことで満足し、待ち構えていた方は待ち伏せが成功したことで満足していました。このような慣習は戦後、伝統をあまり厳しくいわなくなった一時期に流行(はや)りました。戦国時代のまね事みたいなものでした。  岩城島のなかでも地域により亥の子のやり方が違っていましたが、各家を亥の子石をついて回るとお礼として灯明銭(とうみょうせん)(謝礼)やお米をくれました。これが子どもたちの分け前になっていました。
 宿の部屋には長机を2段にも3段にも積み上げてそこに餅(もち)を飾るんです。大将になった者は大きな一升餅を飾ります。その餅を亥の子がすんだら半分を切り餅にして灯明銭をもらった家庭に配っていきます。
 餅を飾るときは半紙に自分の名前を書いたのしをつけて飾っていました。半紙にも色をつけたり絵を書いたりしていました。上にミカンを置いたりもしました。最初は皆同じように量がありましたが、帰るときになると大将は分け前が多く、余計に取るので小さい子たちは少なくなっていました。
 亥の子が終わると『落ち着き』というのがありました。『落ち着き』いうのは亥の子が済んで宿に集まり皆で御飯などを食べたりすることです。この食事は、大将の家の家族が協力して世話をしてくれていました。この落ち着きのときにお礼としてもらった灯明銭を皆で分けていました。」
 岩城島でも漁業者の多い浜地区に住む**さんは「浜地区で宿をするのはその年に男の子が生まれた中で1番早生まれの子がいる家が務めていました。高等科2年生が大将でした。亥の子宿をするということはそのお世話が大変であったと思います。しかし亥の子宿を断ったなど聞いたことがありません。亥の子宿をするということは生まれてきた子どもへの務めであり、誇らしさがあり、名誉なことであったと思います。同じ島でも地区によってやや違いがあります。私の長男が昭和37年3月生まれで他にも同級生がいましたが、うちの子が1番早いということで、亥の子宿を務めました。
 亥の子唄(うた)の中には漁師さんは漁師さん向けの唄もあり、塩浜といって塩田をしている地域にはそれなりの唄があり、子どもはそれを心得ていました。そのために唄の練習をするのです。この島では形こそちがえ、子どもの楽しみな行事として亥の子が昭和40年ごろまでは盛んでした。長幼の序を十分わきまえた団体行動を身につけることのできた、また神を敬う気持ちも自然に身に付いた行事であったと思います。」と語る。
 女性の方は「亥の子は男の子だけの遊びであり行事でしたから私たち女性は寄せてもらえませんでした。女性は学校の教室や縁台でお手玉遊びとか、あやとりなどで亥の子をはじめさまざまな行事が男社会ですから、私たちは男がいいなと子ども心に思っていました。」と語る。

 イ 乗り子の楽しみと子ども神輿

 「岩城八幡神社が氏神さまですが、その祭礼が子どもには待ち遠しいお祭りでした。大正7年(1918年)までは旧暦の9月14日、15日に祭を行っていました。新暦では10月14日、15日に行っていましたが土曜日、日曜日でないと人が出られないとか集まらないなどの理由で、最近では10月の体育の日の前の土、日に実施されています。
 祭りには各地区ごとに幟(のぼり)が建てられ、各家では幕を張り提灯(ちょうちん)をつるし座敷にお鏡餅を供えたりしていました。二日目、朝8時ころから宮出し神事があって、獅子舞(ししまい)を先頭に奴(やっこ)、東・西のだんじり二つに神輿(みこし)がそれぞれ行列を整え、町なかに繰り出します。このお祭りは、近隣町村の中でもひときわ豪華な祭礼として知られていました。
 このお祭りに高等科2年生が大将で先導をしていました。各地区からの子ども神輿は小学校の2、3年生からの子どもが参加して出ていました。
 この祭りのときに子どもの役割として『乗り子』がありました。それはだんじりに乗って唄を歌いながら太鼓をたたく役でした。10日ぐらい前から唄の練習やら太鼓のたたき方の練習があり、これに選ばれるのが子どもにとっても親にとっても誉れでした。小学校5年生がその役をしていて、乗るのは子どもが多いときは抽選をしていました。2台のだんじりがあり、それぞれ4人ずつ乗りますから8人が役をしていました。東と西の2台のだんじりが出て、子どももその地区の子どもしか乗れませんでした。今は子どもがおりませんから全地区合わせてしています。女の子も乗る場合があります。少子化の波により変わってしまいました。」

 ウ 神明さん 

 「正月は『神明(しんめい)さん』という行事があります。神明さんというのは小正月の火祭のことで『とんど』といい、1月14日までに各家から集めた注連飾(しめかざ)りなどを海岸へ積み上げ、高い家のようにまとめて火を付けます。子どもたちは早めにお飾りなどを集めますが、旧家の中には15日まではお正月だからお飾りは外さない家もあり、がっかりしたこともあります。この行事は、青年の世話になる地区と、子どもたちが世話する地区がありました。
 正月ころの遊びや行事について、神明さん以外はあまり記憶にありません。各家庭の注連縄やお飾りを集めに行き、そのときに謝礼として灯明銭をいただきます。戦前の一時期でしたが、特に多額の謝礼をもらった家には金や銀の御幣(ごへい)(神祭用具の一つ。神主がお祓(はら)いのときに用いたりする。)を配ったりしていました。いただいた灯明銭の額によって色を違えていたのです。戦後はそのようなことはなく青、黄、赤、白、紫などの一般的な御幣を灯明銭をもらった家に配っていました。その御幣を作るのにその地区の集会所に泊まったりしていました。
 世話をする青年や子どもたちは地区の集会所に泊まりこみ、当日15日の朝早く2回も3回も太鼓を打ち鳴らし『とんどや、とんど焼くけん早よおいで、餅の影も今朝ばかり』と大声に触れ回って、朝5時ころから地区の人々は鏡餅、書初めなどを持って集まり、火の手を大きく上げている注連飾りなどの火で鏡餅を焼き、家へ持ち帰り家族みんなで食べていました。
 また書初めを燃やし、それが火に煽(あお)られて高く舞い上がると字が上手になるといったり、『とんど』の灰は病気にかからないなどという言い伝えがあって持ちかえる人も多く、中には、その灰をお湯に溶かして飲んだり、額に塗りつけるなどの呪(まじな)いもありました。
 浜地区の『とんど』は、竹の先に金紙・銀紙で作った御幣をつけて『とんど』の中心に立てます。火入れするとその竹を倒して御幣を子どもたちが奪い合いをします。その御幣をとった子どもは家の神棚に1年間飾っておきます。」

 エ 宮島さんと天神さん

 「やはり子どもの行事ですが、旧暦の6月17日に十七夜といって浜に麦わらで家を作って燃やしていました。安芸(あき)(広島県)の宮島(みやじま)祭り(厳島(いつくしま)神社管弦祭)に合わせて、子どもたちは、地区ごとに海岸や防波堤の上に麦わら小屋を建て屋内にはウバメガシの枝葉を詰め、月の出始めを待って小屋に火を付けます。内側の枝葉や枠組みの青竹が弾(はじ)ける音とともに、燃え盛るのをお祝いするのです。大人たちは、宮島管弦祭に見立てて拝礼していました。
 当時、島内のわずかな水田に裏作として小麦を栽培していたので、小屋の外壁は、丈が長く丈夫な小麦わらを使用していましたが、大部分は裸麦のわらを使用していました。
 最後まで燃え残った小屋が勝ちを誇る慣習があったために、いたずらに他の小屋に早めに火を付けて回る者もあったりしましたので、地区ごとに見張り番(火番)を置いて、他の地区の子どもの侵入を防いだりしました。現在は材料もありませんし、世話する人もいなくなり廃(すた)れてしまいました。
 天神さんは旧暦6月25日に実施していましたが、現在は7月25日に実施しています。岩城八幡神社は亀山(かめやま)と地域の人が呼ぶ小さな山の上にあり、そこに小さい祠(ほこら)(筆塚(ふでつか))がありますが、それが天神さんの祠でした。これは子どもたちの祭りで、東地区の神輿(みこし)、西地区の神輿、高原地区の神輿の三つが出て、結構にぎやかでした。子どもたちは神輿を担ぎ『天神かいた、天神かいた』と町なかを練り歩き、夜になるとそれぞれの家に提灯(ちょうちん)をともし、各家は神輿を迎えるのです。子どもたちは神輿をかき、以前は現在の中学校の東が鶴山(つるやま)と呼ばれ、そこに天神様の祠(ほこら)がありましたので、その祠にお参りをしていました。」

 オ 海のプールで水泳大会

 「四面海に囲まれた岩城村では、昔から水泳大会が盛んでしたが、昭和28年(1953年)8月、大谷(おおたに)(以前たねと地域では呼んでいた現在のJA越智今治岩城給油所の前辺り)のニオ(浅瀬の小さい港のことを岩城ではニオと呼んでいた。)で第1回小・中学校合同の地区対抗水泳大会が開催されました。当時、ニオには農用船が多く繋(つな)がれていましたが、水泳大会の日は船を他へ移動し、ニオがプールの役割を果たしていました。この水泳大会は、役場前の西のニオと大谷のニオと交互に15年余り続けられました。港の東西の岸(護岸)を発着点とし、東西が33mありましたので1往復半で100mとして、自由形や平泳ぎの種目があり、種目により100m、200mに区分して競泳が行われていました。昭和44年(1969年)に大谷のニオが埋め立てられましたので、この水泳大会が出来なくなりました。この海のプールで育った子どもの中には、国体へ出るような優秀な選手も育ちました。競技力をつけ、他地域の子どもに負けないようにとこのような大会が始まったようです。」

 カ 子どもの手伝いと遊び

 家庭内での子どもの役割や子ども同士の遊びについて聞いた。
 「ここは小さな島ですから海までは近い距離にあり、魚釣りにはよく行きました。ギザミ(ベラ科の魚の方言、体色、斑紋(はんもん)があざやかで温熱帯の磯に分布)などがよく釣れていました。山で竹を切ってきて釣竿を作り釣っていました。餌(えさ)にするゴカイ(多毛類、ゴカイ科の環形動物、全長約10cm)も潮が引いたときにとっていました。海では多くの貝が潮が引くといくらでもとれていました。これが子どもの遊びであり食料確保のための家の手伝いでした。
 この島は畑をすいたり、水田で使ったり、糞(ふん)を肥料としたりするために、役牛としての和牛を多くの家が飼っていました。家の手伝いで男の子の最大の仕事は牛の世話でした。夏は学校から帰ると牛を連れて海岸へよく行っていました。夏休みなどは、牛を浜辺につれて出て、牛をほったらかして子どもたちは泳いで遊んでいました。牛はいつのまにかイモ畑に入り込み、イモづるを餌にすることがしばしばあり、よく怒られました。」と皆さんは語る。
 **さんは「家が農家でしたから、夏の暑いときにサトイモを市場に出す手伝いをよくさせられました。そのとき友達は牛を連れて海にいって遊ぶのに、何で自分はと思って、けなるかった(けなるいは岩城島の方言でうらやましいの意味である。)です。」と語る。
 **さんと**さんは「私たちは弟や妹がいましたから、いつも子守をさせられました。家の手伝いでは子守が多かったです。洗濯の手伝いも女の子の仕事でした。男の子は共同井戸から、台所の大きな水甕(かめ)を一杯にするのが仕事でもありました。井戸から家まで30~40mあったでしょうか。」と語る。
 **さんの子どものころは家の中に味のついた井戸があり、それは塩分が混ざっていた井戸で、それが飲料水にもなっていた。海岸端の集落は共同井戸がたくさんあり、10軒に一つぐらいの共同井戸であったという。
 「子どものふだんの遊びもいろいろありました。その一つにネンガラという遊びがありました。これは主に冬の遊びでした。木を30cmぐらいに切って先を尖(とが)らせ、皮をはいで土の柔らかい畑や田んぼでお互いに突き立てた木の倒しあいをして遊んでいました。相手の木を倒したら自分のものになっていました。木は硬くて丈夫なものがよかったです。砂浜はねばりがありませんからネンガラには適していませんでした。
 その他、独楽(こま)回し、パッチン(パチンコともいっていた。)、ビー玉、ケン玉、なわとび、将棋など多くの遊びがありました。独楽回しは冬の遊びでしたが、独楽の周囲に鍛冶(かじ)屋さんに行って鉄のワッカを入れてもらってけんか独楽を作っていました。
 テレビなどない時代に育ちましたから、夕食後、縁台将棋などはよくしました。だれに教えられたというのではありませんが、はさみ将棋、詰め将棋などよくしました。」