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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(2)吉久の百八灯

 東温(とうおん)市吉久(よしひさ)は、重信川(しげのぶがわ)が形成した扇状地の扇端部にあたり、松山(まつやま)市に隣接する田園地帯である。西南に流れる重信川と西流する表川(おもてがわ)が合流する地点に立地する。表川の北側が吉久地区の本村(ほんむら)、南側が畑川(はたがわ)となっている。豊かな水田地帯であるが、近年は兼業農家が多くなっている。

 ア 百八灯の意味

 『愛媛県史 民俗下』は、百八灯(ひゃくはっとう)を説明して「盆には仏説の百八煩悩に基づき、百八把または多数の松明を焚(た)いて精霊の祭りを行う。ローソクや線香で行うほうが今では一般的になっているが、いずれも『百八灯』と呼んでいる。二四日の『地蔵盆』の行事や寺院の『施餓鬼供養』に行ったりもする。(②)」としている。また、『えひめ文化百選』は、川内(かわうち)町(現東温市吉久)の百八灯、喜多郡五十崎(いかざき)町(現内子(うちこ)町)の百八灯、上浮穴郡小田(おだ)町(現内子町)の山の神の火祭りを類似のもの(③)として挙げている。
 ここでは、子どもたちによって運営されていた吉久地区の百八灯を取り上げ、東温市吉久地区畑川の**さん(昭和20年生まれ)に話を聞いた。
 「子どもだけでやる百八灯の行事は、自分たちがやったのが最後でした。昭和35年(1960年)です。しばらく中断していましたが、川内町(現東温市)の教育委員会が伝統行事ではあるし、復活してはどうだろうかと呼びかけ、昭和49年(1974年)に復活したのが現在の百八灯です。県道伊予川内線の表川に架かる橋(表川橋)がありますが、昔の百八灯はその橋より川下でやっていましたが、現在は川上でやっています。表川の左岸です。
 いつごろ始まったものか、何のためのものかはよく分かりません。ただ、『生きている民俗探訪』には、重信川や表川の氾濫(はんらん)によって亡くなった人々の冥福(めいふく)を祈るために行われたとあります(④)。確かに、私が生まれた昭和20年(1945年)にも大水害で土手が決壊し、稲木が流されるようなことがあったと聞きます。その後も昭和30年代ころまではよく水害に見舞われていたようです。最近は護岸もしっかりしてきて被害を受けることはなくなりました。また、当時の表川はまだ水がきれいでしたから、川で遊ぶことも多く多少の危険性はあったかも知れません。ただ、人命を損なうことはそんなに多くはなかったと思います。私の考えですけれども、この辺りには享保の大飢饉(ききん)(1832年)の折に出た多くの餓死者を悼んで餓死亡霊塔というのが立てられています。旧川内町だけで3基も残っています。あるいは、このときの死者を悼み、あわせて水難者の追悼のためだったのかも知れません。
 裏盆(お盆の終わりころのこと。8月20日が多いが24日や27日をさすところもある。吉久では24日を裏盆と呼ぶ。)の8月24日に表川の土手でやっていました。『愛媛県百科大事典』によると、戦前には108本のサイト(柴灯)に火を灯し、最後に中央の4、5畳もある小屋に火をつけた(⑤)らしいですけれども、自分たちのときには、サイトの数も少なく、小屋というほどのものは作ってはいませんでした。場所からいっても108本は無理があったように思います。表川の右岸で本村の上組と下組が、左岸で畑川が火を灯(とも)し、火の勢いの良さを競ったらしいですが、自分たちの最後の年には、畑川の百八灯しかありませんでした。そのころには、上組と下組はもう止めていました。
 自分たちは子どもだったこともあるかも知れませんが、百八灯などとはいわずに『ターラバするけん集まれよ。』といっていました。百八灯は『ターラバ』だったんです。百八灯というのは昭和49年に再開するときに類似の行事から付いた名前かもしれません。」

 イ 百八灯の手順

 「中学生をリーダーに、夏休みになったらまず土手(表川左岸)に集まります。当時の土手は松林が連なっていて、所々に灌木(かんぼく)が生えていました。土手ですから、本来は草も生えるんですが、当時は牛を飼っていて餌(えさ)にしないといけなかったし、田んぼにも草を入れていましたから、草場はなにもない状態でした。そこに直径4、5cmほどの木を伐(き)ってきて4、5本立て、周りにやや小さめの木や竹を立て回すようにします。そして柴などを周りに掛けて、ちょうど円錐形の小屋状にしてから周囲3か所くらいを荒縄で縛っていました。中にむしろをしいたりしたこともあります。当時は川で遊ぶことが多かったですから、そのときに便利な日陰を提供してくれていました。中でトマトやスイカを食べたりもしていました。これが火元で、裏盆までおいて置けば自然と乾燥して火が点(つ)きやすくなります。さらに、土手には直径20cmくらいの石が、だいたい3m間隔に2個ずつ並べてあります。これは去年のものが残っているので、サイトを燃やすときの台にするものです。割れたり、なくなっている場所には河原から補充します。
 暑い盛りに作りますし、ときには川に飛び込みながら遊び遊び作るのですから、そう要領のいい手順ではありません。家から鎌(かま)や鉈(なた)、鋸(のこ)をもってきて、年長者が伐(き)り、小学生くらいの小さい者が火元の方に引っ張って行きます。年長者にああせい、こうせいと指示されても、小さい者もこんなもんだろうと反発もせずに一生懸命運んでいました。遊びの延長というか、遊びそのものだったんでしょうねえ。間違えてハゼの木を伐り、かぶれたりしたこともありますが、当時の子どもたちはそんなことでハゼにはかぶれるということを学んでいったんです。子どもたちのまとまりは今よりよかったかも知れません。夏休みには大きな子を中心にそれこそよちよち歩きの子どもまで、10人くらいの集団を組んでは表川にいって、泳いだり、魚をとったり、石を投げて水の掛け合いをしたり、一緒に遊ぶことが多かったですからね。まあ、今から考えたら子ども集団は、子守代わりのような役割を果たしていたんでしょうねえ。
 サイト(写真2-1-3参照)も裏盆までに作っておきます。直径10cmくらい、長さが2mくらいのメダケの束です。別に規格どおりというもんじゃないです。これは子どもも作りますが、ほとんどは親が作っていました。マメやキュウリの支えにメダケの類を使うでしょう。ちょうど、裏盆のころになったらもういらなくなった枯れたメダケがどのウチにもあるわけです。子どもも作っていましたが、いつ作っていたか忘れました。メダケを切るのは、火元を作るときだったように思います。それらを使ってメダケの束、サイトが出来るんです。当時は畑川で14、15軒はあって、親の作ったサイトや子どものものを合わせると100本少々は集まっていました。出来たサイトは、リヤカーほども長さがある木製の猫車や、リヤカーで土手まで運んでいました。
 当日、このサイトを3mほどの間隔ごとに石の上に置いていきます。中央に火元があって、両側に多いときで20か所、少ないときで15か所くらいの所にサイトの束がおかれるんです。自分たちのころはとても108か所もは灯(と)もしませんでした。1か所に置かれるサイトの量も時々で変わりますが、最初に火のついていないサイトを石の上に置き、さらに予備のサイトを近くに2、3束置いておきます。さらに、火元の周りには火をつけるサイトを置いておきます。準備が出来たら火元に麦わらを入れて火をつけ火元を燃やし、その火でサイトに火がつきます。そうでもしないと、熱くて火元にサイトをかざすなどということはできません。上級生が火のついたサイトを持って、石の上に置かれたサイトに点灯していきます。石の上に置かれていたサイトにも火がつき15個~20個の大きな炎が立ち上ります。火がうまく燃えるように、短くなって燃える部分が石に近づいたサイトは石から突き出したり、はじめの束が燃え尽きそうになると予備を足したり、上級生は結構忙しく走り回ります。そのとき、小学生の低学年は、『ターロモコーイ(太郎も来い) ジーロモコイ(次郎も来い) ターロモコーイ ジーロモコイ』と繰り返し大声を出すんです。この呼びかけは何の意味か分かりません。約1時間ほどして、サイトが燃え尽きた所で行事は終わります。
 終わって大きなお地蔵さんと六地蔵が祀(まつ)ってあって、葬儀道具も入れてあったお堂のところに帰ります。当時は葬儀も地区でやっていましたからそんなお堂があったんです。今は六地蔵も移転し、お堂もなくなって大きなお地蔵さん一体だけになっています。そのお堂のところで畑川の母親たちがきな粉と砂糖をまぶした大きなお団子を作って、自分たちももらうし、お地蔵さんにもお供えしていました。これも楽しみの一つでした。
 百八灯(写真2-1-4参照)の観客はいませんでした。大人が遠くから見て『やっとるな』くらいじゃなかったんでしょうか。子どもも別に大人に『やれ』いわれた仕事というわけでもないし、先輩たちがやっていたからとか、天下晴れて火遊びができる楽しみがあったからとかで続いていたんでしょうか、格別な理由は思いつきません。行事というより遊びの延長です。自分たちの翌年から止めた理由もよく分かりません。ただ、ほかに楽しい遊びが出来たからということじゃないでしょうか。」

 ウ 現在の百八灯

 「昭和49年(1974年)に復活されてからは、大人が中心になって準備をしています。子どもは手伝っている形です。サイトはもちろん、火元も大人が作ります。庭木などの剪定屑(せんていくず)をトラックで持ってきて、草を刈った所におくんです。サイトは農家の方が、大きな竹を前もって伐(き)っていて、使う1週間ほど前に集まって割って束にして作るんです。本来子どもの行事でしたから子どもは集まってきますけれども、大人がやっているからどうしてもその手伝いになっています。それに子どもが減ってしまいましたからねえ。今はこの畑川には、小中学生はいません。吉久全体でも子どもの数は減ってしまいました。百八灯の場所は、昔どおり畑川でやっていますが、子どもたちは吉久地区のほかに4地区の者が共同でやっています。公民館の地区が単位になったのです。男の子だけでなく、女の子やごく小さい見物の子まで合わせて、大人と同じくらいの人数でしょうか。サイトを配る手伝いとか、声出しは子どもがやっています。現在、火を灯(とも)す数は40か所ほどに増えています。見物人が出来たのも最近のことです。終わると、昔のお団子に代わって、子どもたちにはお菓子と缶ジュース、大人たちは集会所で懇親会があります。」

写真2-1-3 サイト

写真2-1-3 サイト

東温市吉久。平成18年8月撮影

写真2-1-4 百八灯遠景

写真2-1-4 百八灯遠景

東温市吉久。平成18年8月撮影