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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(1)高山の五つ鹿踊り

 西予(せいよ)市明浜(あけはま)町高山(たかやま)は、宇和海に面したリアス式海岸に立地する集落で、かつては石灰の製造で栄えた地区であった。その後、石灰の製造は中止され、近年はちりめんいりこの原料となるシラスとりなどの漁業とミカン栽培が主な生業となっている。

 ア 祭と鹿の子

 鹿踊りは宇和島(うわじま)藩が同じ伊達家の関係で仙台から取り入れたものといわれ、宇和島藩とその支藩であった吉田(よしだ)藩およびその隣接する地域に広く分布している。高山の鹿踊りは五(い)つ鹿(しか)踊りで、六(む)つ鹿、七つ鹿、八(や)つ鹿とある踊りの中でも最も多く分布する形式である。
 高山にあって長く鹿踊りの保存伝承と指導に努めてきた**さん(昭和14年生まれ)に話を聞いた。
 「鹿の子(五つ鹿踊りのこと)は、高山の賀茂神社の祭りの出し物の一つです。高山祭りは、昔は10月24日~26日でしたが、今は11月の第4の金・土・日曜日にやっています。金曜日が宵山で、祭りに参加する人や牛鬼を海水に入れて禊(みそ)ぎをしていました。土曜日と日曜日が本祭りでした。祭りの出し物は、順番は忘れましたが、天狗(てんぐ)様、牛鬼(うしおに)、お神輿(みこし)、鹿の子、巫女(みこ)の舞、太閤(たいこう)様(山車)、お鉄砲、相撲甚句、毛鑓(けやり)、弓と矢筒、キンパイなど11種類くらいの出し物がありました。そのうちで子どもがやるものは、鹿の子、巫女の舞、相撲甚句、毛鑓、お鉄砲、弓と矢筒で、最盛期には50人ほどの子どもが参加していました。子どもが参加する人数は、ほかの地区と比べても多い方じゃないかと思います。
 高山地区は西組と東組に分かれ、祭りの出し物も鹿の子は西、甚句は東というように二つの組で分担していました。お神輿(みこし)も先神、中神、後神様の3台を、西と東で2台と1台に分けて年交代で担ぎ、2台の神輿を担いだ方の組の名を取って西祭りとか東祭りとかいっていました。
 昔は、鹿の子を踊り終わった者は、翌年にはお神輿の先神様を担ぎ、その翌年には祭り全般を指揮する警護という役に付きます。警護は鹿の子やお神輿に付いてその運営を指揮する役割です。警護を1年間やった翌年は、また神輿の後神様を担ぎます。それで祭りとの関(かか)わりが終わります。だから、鹿の子を踊る者は長い間祭りの中心的役割を担っているのです。
 鹿の子の身なりは、頭に鹿の面を被り、浴衣にたすきがけ腕抜きをして、袴(はかま)をはき、腹部には太鼓を付け、足袋とわらじを履く格好で、太鼓を打ちながら歌い踊るんです。唄(うた)や踊りや衣装も地域によって少しずつ違っています。特に高山の袴は、平成9年(1997年)に伊予銀行の地域文化活動助成金で新調したもので、模様も高山で考えて高山で描いた独特のものになっています。高山の踊りは静かな宇和島の踊りとは違って動きが活発です。鹿は身が軽い動物だからぴょんぴょんはねたりもするんだと教えています。より古式を伝えたものだといわれています。唄は途中まで紹介すると図表2-1-2のようになっています。
 祭りのときの鹿の子の役割はかなりきついものです。宮出しのときとお神輿(みこし)が御旅所に入るときに清めとして踊ります。その後ムラマワリに出ます。ムラマワリというのは各戸を訪ねて踊ることです。その年、死人を出した家やお祭りに協力的でない家は除いて、だいたい90軒ほど回ります。警護の人の指示で回るんです。このムラマワリのときには曲目の全部はやりません、一部だけを演じます。最後の日はお神輿が宮入りするのに先立って神社で踊ります。その後一度くつろいで、宮入りの時間になるとお神輿と一緒に走って神社に向かい祭りの終幕を迎えます。」

 イ 鹿の子の練習

 「私が踊ったころは、中学校3年生の中から鹿の子を踊る者が選ばれていました。選ぶ条件は、先代の鹿の子を踊った連中の推薦や、祭りに熱心な家の子、さらに中学校を卒業しても地元に残りそうな子を選んで鹿の子にしていました。この子たちは翌年も続けて踊ります。当時は高等学校に進学する子はまれで、まだ地元で石灰の仕事が盛んな時代でしたから、その関係やほかの仕事について地元に残る者が多かったです。鹿の子選びがこんな仕組みでしたから、中学校3年生が選ばれたその年、中学校2年生であった者は踊ることはありません。1年おきに鹿の子を踊る子どもが選ばれていたんです。私はちょうどその選ばれない年代だったんですが、何か事故があったのか、1年間だけ中学3年生のときに選ばれて1年先輩に当たる人たちに混じって踊りました。私は兄が二人いて、二人とも踊っていたし、私も兄らの見よう見まねで踊りをある程度覚えていたので選ばれたのだろうと思います。
 一緒に踊るのは1年先輩ですし、ずいぶん緊張して踊ったのを覚えています。練習するのはキッチョウヤという屋号のうちで、そこの庭や、雨のときには門の下などで練習をしました。習い始めのときは忘れたらいけませんから、雨の日でも練習をするんです。キッチョウヤに鹿の子の面や衣装も保存してありました。そんなうちのことを鹿の子の宿といっていました。練習期間はだいたい1か月、ほぼ毎日やります。学校から帰って、だいたい午後の5時ころから、8時ころまでやります。今も昔も変わりません。祭り当日も忙しいし、練習も厳しいです。やはり選ばれた誇りのようなものがないとできません。
 練習は、先輩が後輩を教える形でした。ここの鹿の子は五つ鹿ですから5頭の鹿がいて、それぞれ先親(さきおや)、先子(さきこ)、雌鹿(めんじし)、後子(あとこ)、後親(あとおや)と呼ばれます。それぞれの役で少しずつ所作が違いますから、それぞれの先輩がそれぞれの後輩を教えるのです。しかし、この方式でやると、どうしても踊りが変わってきて、何代か経(た)つとかなり変化します。これではいけないというので、約50年前から私が一人で教え始めて、現在に至っています。道具類は神社に新しい倉庫を作りましたから、祭り用のものはそこに納めています。
 練習で楽しかった思い出は、買ってもらった食べ物のことです。練習のときには、籠(かご)にいっぱいイモ煎餅(せんべい)を買ってきて置いてありましたが、時々満月、半月という饅頭(まんじゅう)を買ってもらえるんです。このときは本当にうれしかったことを今でもはっきり覚えています。満月というのはちょうどどら焼きのような格好をした饅頭で、中にあんが挟んであって、表面には砂糖がふってありました。半月は満月の一枚を半分に折り返して中にあんをいれ、やはり表面に砂糖をふったようなお菓子です。これを買ってやると言われたときの練習は、気合いが入って太鼓のたたき具合からして違っていました。
 祭りが近づくと今まで練習で声を出していたのどを休めるために、当時はのど飴(あめ)なんかなかったから、黒砂糖をお湯に溶かして飲ましてもらっていました。当時、甘いものといえばズルチンかサッカリンですから、そらあ黒砂糖はおいしかったですよ。
 祭りの当日になると、学校を休めるのがうれしかったです。祭りの日が二日あって、曜日には関係なかったですから、うまくいけば二日とも学校を休めるのですから。一応学校には行っていましたが、すぐに祭りの係の人が迎えに来るので、喜んで帰っていました。
 祭りが終わってからシバタキいうて宴会がありました。昔は、鹿の子がムラマワリをしてもらった御祝儀も宴会費用に当てていました。それもあってか、鹿の子も宴会に出ていました。料理は大人の宴会用のものであっても、すき焼きなどはめったに食べられない料理ですから楽しかった思い出です。」

 ウ 伝承の苦労

 「ここまで鹿の子を伝えるには、いろいろな苦労がありました。
 前に言ったように昔は中学校3年生と高等学校1年生に当たる年の者が踊っていたんです。まあ、昭和30年(1955年)ころです。ところが、そのうち高等学校1年生に当たる年代のものがかなり遠い所の高等学校に行くようになったり、中卒が『金の卵』と言われ出した時代があったでしょう。そうすると遠くに就職して行ってしまうようになったのです。仕方がないので、中学校2年生に当たる年代の子に教えて、中学校3年生まで踊ることにしました。ところがそれも、高等学校に進学するものが増え始めて、中学校3年生になると受験勉強だと言い始めたんです。それで学年を下げて中学校1年生と中学校2年生にしたのです。昭和40年(1965年)ころです。そしたら、なかに1年目だけ踊って2年目はやめるいう子が出始めました。親の言い分では、思い出に1年目だけ踊らせて、中学校2年生からは高校受験の準備をさせるというのです。一人だけ1年目の子を最初から教えて、残る子には2年目の指導をするというのも大変なので、小学校6年生を教えて、中学校1年生まで踊らせる形にして、これがしばらく続きました。しかし、これだとクラブ活動などしている中学生が遅くなったりして不自由になり、小学生だけにしたこともあります。
 しかし、今は高山小学校の生徒数が、高山と隣の宮野浦まで男女合わせて40人足らずになりました。あまり小さい、小学校3年生以下くらいだと鹿の子を踊るのは無理なので、西組だけの男子で、しかも同一学年から鹿の子を採用するのはとっくに無理になっています。そのため東組からもとるし、学年もバラバラになってきました。それに踊れる子には、2年目で終わらせず3年目も4年目も踊る子も出ています。今年(平成18年)は特に厳しいようで、鹿の子だけが無理をいうと、相撲甚句も10人くらいは必要なのに、相撲甚句ができなくなっても困ります。先親や後親は難しいし、踊れる子には中学生や高校生にもお願いせんといかんと思っています。
 子どもたちの待遇も変わりました。祭りを支える氏子の組織を作ってからは、必要経費は各出し物に配付されるようになりました。鹿の子も7万円ほど支給されるようになって、鹿の子がムラマワリをしてもらった御祝儀は鹿の子の取り分になりました。支給される7万円からは、わらじ、足袋、頭に巻く手拭(てぬぐ)い、練習のときすべると危ないので履く草履、それに練習のときのジュース代、のど飴(あめ)代などを支出します。今はわらじ1足500円、草履1足350円という時代ですから、結構いるんです。それでも余ったお金は、ムラマワリの御祝儀に合わせて子どもたちに配分します。そうなると、子どもたちはちゃっかりしたもので、『おっちゃん、のど飴は家で砂糖水でも飲むけんいらんぜ。ジュースものうてもかまんけんな。』というんです。ムラマワリをしてもらう御祝儀だけで一人1万5千円は下りません。それで買う予定のものがあるのですね。みんなで宇和島に買い物に行くなどと話をしています。一昔前はラジカセが人気で、今はマウンテンバイクだそうです。親に足してもらって買っているんでしょう。」

図表2-1-2 五つ鹿踊りの歌詞

図表2-1-2 五つ鹿踊りの歌詞

**さんからの聞き取りで作成。