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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(3)修学旅行の行き先の変遷

 県内他地域の高校の修学旅行の行き先はどのように変遷してきたのであろうか。ここでは、修学旅行の行き先を特に項目を設けてまとめている松山北高等学校の『創立百周年記念誌(⑩)』を中心に探った(図表1-1-10参照)。なお、松山北高校(松山市文京町(ぶんきょうちょう))は、明治33年(1900年)創立の北予中学校と、大正12年(1923年)創立の松山城北高等女学校を母体とし、昭和24年(1949年)に両校を統合した新制高校として発足した。
 戦前において特色あるものは、北予中学の朝鮮半島方面の修学旅行である。これは、県内の他の旧制中学校でも実施している学校が多い。朝鮮半島は当時日本の領土であり、しかも国内と風土や文化が相違することから、「平素と異なる生活環境」で「見聞を広める」のに最適と考えられたからであろうか。一方で、城北高等女学校では、旅行期間が最大13日と長く、関西方面のみならず、東京・日光方面まで旅行している。他の旧制女学校でも同様の傾向が見られる。『うれしなつかし修学旅行(⑪)』では、「修学旅行は女学生のもの」という項目で、「学校を出ればほとんどどこにも旅行などできなくなる女の場合なので…」という校長の言葉を引用しているが、当時の女学生にとって生涯で数少ない旅行、学校生活の記念として長期の修学旅行が実施されたのではないかと考えられる。
 戦後の修学旅行の変遷を見ると、旅行日数が徐々に短縮されていくのがわかる。昭和28年~44年は、コースは同じであるが、昭和33年以降旅程が1日短くなっている。昭和30年代前半の修学旅行では、国鉄で大阪まで行きそこで休息(映画館でシネラマ〔立体映画〕を鑑賞している年もある。)後、東海道本線に乗り汽車車中泊で熱海あるいは芦ノ湖(あしのこ)に到着している。修学旅行専用列車の利用もこの時期のことである。昭和39年(1964年)の東海道新幹線の開通までは、愛媛県から東京に行くのは1日がかりの大事業であった。
 昭和40年代後半になると、県下の多くの学校で熱海・日光などの観光地から、上高地(かみこうち)・志賀高原(しがこうげん)などの信州方面へコースが代わってきている。松山東高校も同様のコース変更をしており、信州・上高地方面に旅行先を変えている。高速道路・新幹線開通により時間的余裕ができたこと、道路整備が進み、バスによる山間部も含めたさまざまな観光地周遊が可能となったことがその背景にあると思われる。松山東高校が旅程を変え東京での宿泊をやめた理由として、当時の職員の聞き取りによると、「東京はいつでも行ける。それよりも日本の美しい自然に触れさせるべきである。」との校長の指示があったと述べている。高度経済成長が終わり公害が問題視された時期で、東京観光より自然体験を求めたこと、また県内の高校生の大都市への進学・就職の増加や家族旅行の増加も背景にあると思われる。
 他校では昭和60年代、松山北高校では平成に入ってから、東京ディズニーランド終日自由行動、東京終日自由行動が旅程に組み込まれるようになった。これは、生徒の要望もあったであろうが、バブル経済の時期に続いた宿泊費・運賃の値上がりと、愛媛県教育委員会の修学旅行に関する費用制限の規定が関係していると考えられる(生徒の自由行動にすれば、食事・運賃等の、学校として正規に提出する支出計上費用が抑えられ、費用制限の規定内に収めることができる。)。
 松山北高校の修学旅行の歴史で画期的な出来事は、平成11年以降の海外旅行の実施と飛行機の利用である。県内の多くの高校でも、平成10年前後から海外旅行・飛行機利用が広がっている。松山空港と韓国ソウル間の国際定期航空路が開設されたのは平成5年(1995年)であり、国際理解教育に力を入れている伊予農業高校、松山商業高校等の実業高校は、この定期航空路開設以後の早い時期から、修学旅行としての韓国への旅行を実施している。海外旅行実施とともに飛行機の使用も県の規定で認められた。これにより国内の旅行先についても、鉄道利用では不可能だった沖縄への修学旅行が、この時期から実施されるようになり、やや後に北海道も旅行先として選ばれるようになった。

図表1-1-10 松山北高校の修学旅行行き先一覧

図表1-1-10 松山北高校の修学旅行行き先一覧

『愛媛県立松山北高等学校 創立百周年記念誌(⑩)』から作成。