データベース『えひめの記憶』
えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)
(1)親子二代の卯之町駅長
松山市祝谷(いわいだに)在住の**さん(昭和4年生まれ)に話を聞いた。
ア 親子二代で国鉄に
「父も国鉄に勤めて、卯之町(うのまち)(現西予市宇和町)駅長も勤めました。不思議な縁で、私も最後の職場が卯之町駅長でした(写真1-2-1参照)。父の出身は香川県でした。何でかというと国鉄の路線が高松からだんだん西に伸びて、松山、宇和島とつながっていったでしょう。愛媛県に国鉄関係の技術者がおらんから、最初は香川県出身の人間が、愛媛の国鉄を動かしていったわけです。父は、昭和2年(1927年)開業時の松山駅の初代助役になり、昭和16年(1941年)にできたばかりの伊予吉田(よしだ)駅長、続いて卯之町駅長になったんです。私は昭和4年に松山で生まれましたが、転勤族の父についてあちこちの小学校に行きました。昭和16年当時は松山駅から八幡浜(やわたはま)駅、卯之町駅から宇和島駅までは線路がつながっていましたが、資材不足で八幡浜と卯之町がつながっていなかったんです。(太平洋)戦争遂行のためにも、どうしてもつながなきゃいかんということで、伊予鉄の複線のレールをもらって昭和20年の終戦の直前に八幡浜-卯之町間が開通して、予讃線がようやく全通したと聞いています。」
イ 国鉄の組織と仕事
「私は旧制中学の途中で予科練に志願して、昭和21年(1946年)に卯之町に復員してきました。半年中学校に戻って卒業証書はもらったが、復員兵や外地からの引揚げた人が多く当時は空前の就職難で、父の関係もあって国鉄に就職するようになったんです。新米のときは、駅の掃除と風呂焚(ふろた)きばかりでした。昔は、国鉄に入ると最初は『駅手(えきしゅ)』で、これは見習い・雑用です。臨時雇用扱いの『傭人(ようにん)』と呼ばれます。それを3年ほどやって初めて現金を取り扱える『駅務掛(えきむがかり)』になれます。駅務掛は、『雇員(こいん)』で正規の公務員扱いです。駅長・助役になると『任官』されます。『傭人』までは小倉服(綿織物)の制服で、『雇員』からはサージ(毛・絹)の制服となっていました。制服も服の襟や袖の筋で役職がすぐわかるようになっていました。このような制度は鉄道省管轄で国営であった戦前の名残だったのでしょう。今はその制度はありません。帽子は、助役は金の筋が1本、駅長は金の筋が2本です。国鉄の制服は海軍軍服の流れを継いでいると聞いたことがあります。私は旧制中学卒でしたので、『駅手(えきしゅ)』の時も『雇員』の扱いで、1年で『駅務掛』になりました。
国鉄は国の動脈で、止めるわけにはいきません。現に終戦の日も国鉄だけは走っていました。軍隊と同じでほとんど自給自足できるようになっています。だから国鉄の現場には『保線区』『建築区』『機械区』『電気区』『通信区(鉄道電話)』など何でもありました。学校(四国鉄道学園)も病院(四国鉄道病院)もありました。しかし一番人間が多く中心となるのは『駅』と、運転士の『機関区(後には気動車区、運転所)』でしょう。それぞれ専門の技術者ばかりだから、お互いにあまり人の交流はありません。同じ『駅』でも業務が変わったり責任者としてランクがあがるたびに、鉄道各種業務を学ぶ鉄道学園で数か月の実務研修を受けねばならず、公務員としてすべて法律や規則に基づいて勤務せねばなりません。『運転取扱心得』『旅客運送規則』などの規則や専門技術を学び試験に合格して、初めて昇任できるんです。私は駅に3年勤めた後、車掌の資格試験に合格し、36歳まで15年間車掌として勤務しました。」
ウ 車掌として
「列車は朝晩の区別なしに走らせなければいけないので、国鉄職員の勤務は交代制(写真1-2-2参照)で、夜勤や一日勤務もある不規則な形になります。高松駅から西条駅まで、西条駅から松山駅まで、松山駅から宇和島駅までがそれぞれ一区間で、列車編成や車掌の乗務もその区間内で交替します。車掌としては、高松まで2区間勤務し向こうに泊まることもあれば、短い距離で1日2回乗ることもあります。お盆や正月など人が休んでおるときに一番忙しいのが鉄道屋の宿命だから、朝帰ってきて昼過ぎにまた出て、子どもの顔を2・3日見ないこともしょっちゅうでした。
車掌の一番の仕事は、安全確保であり、駅に入って駅を出るまではすべて車掌の責任です。列車を動かすのは機関士(運転手)ですが、列車長は車掌です。出発進行の合図を車掌が出さないと、発車できません。昔は今みたいな自動ドアじゃなく乗降口は開けっ放しですし、信号その他の確認もあるので、駅の発着が最も緊張しました。他の乗客に迷惑をかける言動を抑えたり、検札をして誤乗防止や不正乗車を防止するなどの車内秩序の維持も大切な仕事です。ようするにお客さんに安全に快適に旅をしてもらうことが、車掌の一番の任務です。
昭和30年代までは車もそんなになかったし、列車はいつも満杯だったような気がします。当時の1両の定員はおおむね80人ですが、乗車率120%でいつも20、30人は立っておったと思います。昭和30年代まではSLも走っていて、法華津峠と夜昼峠にかかると必ずいったん停車して、カマをしっかりたいて蒸気の圧力をあげて乗り越えておりました。ミカンを積みすぎて法華津峠手前の急勾配(こうばい)を越えられず、立間駅(現宇和島市吉田町)まで引き返して、惰力をつけてやっと越えた話も聞いています。特に昭和40年(1965年)ころは貨物列車も多く、ミカン列車が夜中でもどんどん走ってました。JRになる直前までは、小さな駅も貨物や小荷物の取扱をしておって、それを大きな駅で行き先別に車両を何度も編成替し、また旅客優先で貨物列車は何十回も待避線で旅客列車をやり過ごすので、何日もかかるし日時指定もできない。それがトラックや宅配便に貨物運送を奪われた原因でしょう(図表1-2-1参照)。」
エ 助役、そして駅長として
「37歳で助役試験に合格して、浅海(あさなみ)駅、松山駅、国鉄四国総局(高松市にあり四国の国鉄業務を総括する部署、現JR四国本社)、長浜駅、大洲駅で助役を務めました。駅長は一人ですが、大洲駅のような中程度の駅ですと、当時は助役4人、駅員25人くらいでしょうか。助役も出札助役、庶務助役、貨物助役など業務ごとに主な担当があります。駅長が不在のときは当務駅長を務めます。松山駅など大きな駅の駅長は、日勤駅長といって8時から17時までの、普通の会社員と同じ勤務時間です。早朝や夜間は、当務駅長の助役が駅長の代理をするわけです。四国総局では『観光開発室』におり、県の南レク開発事業と歩調を合わせて、国鉄としても南予の観光開発ができないかと、ホテル建設の用地買収や町役場との交渉をしておりましたが、オイルショック(昭和48年〔1973年〕)による不況で事業は途絶してしまいました。
昭和57年(1982年)に、思い出深い卯之町駅に駅長として赴任し、2年間務めました。駅長としての一番の気がかりは、やはり安全運行です。毎朝出勤するとまずやるのが駅の施設の見回りです(写真1-2-3参照)。そして、その日の行事に目を通し、点呼の際に周知徹底をします。日常業務での慣れによる事故が一番怖いので、業務での要所をチェックします。次に大事なのが営業で、駅長が営業の先頭に立って、さまざまな旅行やイベントの企画もし、町の諸会合にも、町役場や警察・郵便局などにもこまめに顔を出します。町のイベントの際には、レールを降りた後のバスの手配や通行の安全確保にも気を配ります。中町通りは、今ほどはまだ観光地としてはもてはやされておりませんでしたが、毎年新聞にも載る『愛の火鉢』は、その前からあり、現在でも卯之町駅の風物誌です。これは、愛媛でも一番標高が高い駅なので寒いということもあります。現場長としての駅長で退職できたことはやはり幸せなことであったと思います。退職する時は、寂しくもありましたが、現場の責任を一手に預かってきたという重荷がふっととれたという安堵(あんど)感もありました。」
写真1-2-1 現在の卯之町駅 西予市宇和町。平成19年12月撮影 |
写真1-2-2 運転士の乗務交代の様子 松山市南江戸。松山運転所。平成19年12月撮影 |
図表1-2-1 予讃本線主要駅の発着人員、輸送貨物発着トン数の変遷 『愛媛県統計年鑑』から作成。左が乗降客数(定期券乗車含む)、右が輸送貨物トン数。平成18年は、ほとんどコンテナとなり、数値をみると平成5年度以降は八幡浜駅・宇和島駅では、貨物輸送を取り扱っていない。 |
写真1-2-3 転轍機(ポイント)の操作 松山市南江戸松山運転所構内。平成19年12月撮影 |