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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)九州と四国をつなぐ船長として

 宇和島運輸に勤務され、別府航路フェリーの船長を長く勤められた、宇和島市在住の**さん(昭和2年生まれ)に話を聞いた。

 ア 甲板員として「四国線」航路に

 「私は、高等小学校卒業後17歳で海軍に志願して、鹿屋(かのや)海軍航空隊で終戦を迎えました。当時の心構えを忘れないようにと、今でも入隊時の写真を持っています。復員後、戦後すぐの就職難でしたから、当時叔父が宇和島運輸の機関長をしていた関係で、宇和島運輸に入社させていただきました。昭和23年(1948年)の5月のことです。職務は甲板員でした。海軍の新兵生活3ヶ月の間に、日々罵声(ばせい)を浴びながら鍛えられてきた当時の経験が大いに役立ちました。鉄拳と軍人精神注入棒で臀部(でんぶ)をたたかれ鍛えられ、動作は常に駆け足、入団当時30分を要し上官の制裁の種となったハンモック(寝具用の吊(つ)り具)の梱包も30秒で終了するようになった体験と、結索・甲板掃除・カッター漕練・艦務実習・戦闘訓練・手旗信号等の学習・訓練をしてきた私にとって、船内生活のほとんどは先刻承知のことばかりですから、特に苦労したことはありません。
 最初に乗船したのは第21宇和島丸で、その後1年間は船内生活ですが、1年間を区切りとして12日ほどの有給休暇があり、その際に新しい船への転船を命じられることもよくありました。1年のほとんどはその船の生活ですが、入港時に作業がなければ拘束されない自由時間もありました。昭和30年(1955年)に海技専門学院(現海技大学校、兵庫県芦屋(あしや)市にあり乗船履歴を有する船員の再教育機関)に入り、6ヶ月学んで乙種一等航海士の免許をとりました。  
 宇和島運輸創立当時からの中心定期航路であった『四国線』(宿毛-深浦-船越-宇和島-吉田-三瓶-八幡浜-川之石-長浜-高浜-今治-神戸-大阪)にも何度も乗りました。すでに昭和20年(1945年)に宇和島まで国鉄が開通しておりましたが、戦後すぐの交通難の時代には、『四国線』にも乗船客も貨物も結構ありました。しかし、国鉄が戦災の被害から立ち直ってくると、大阪まで半日の鉄道と、2日かかる船便では競争にならず、昭和26年(1951年)に『四国線』は、明治18年(1885年)からの長い歴史を終えて、純貨物路線になりました。このため宇和島運輸の中心航路は、別府-三崎-八幡浜-宇和島線と、呉-広島-別府航路となりました。『四国線』の乗船者は、八幡浜や大阪の日紡貝塚などの紡績会社に就職する人が多かったように思います。廃止後もチャーター船で深浦港(現愛南町)や高知県宿毛市方面等から、小中高校の修学旅行の団体・一般団体客を乗せて宇和島まで運ぶことは、昭和30年代にはよくありました。当時は宇和島以南の道路は本当に狭く車での大量輸送ができなかったからでしょう。」

 イ 航海士時代のさまざまな船の思い出

 「海技専門学院卒業後は、三等航海士・二等航海士・一等航海士をそれぞれ経験しました。当時会社は3,000トン級の貨物船『高島丸』を所有していました。この船に乗って、主に日本に輸入するラワン材を積みに、ボルネオ島(インドネシア)やミンダナオ島(フィリピン)方面に航海しました。この地方は台風の発生地に近い地域ですから、夏場は危険な思いもしました。私の体験では、100mの船体が一つのうねりの中に入ってしまうこともあり、荷を満載した帰路に時化(しけ)にあうと、船足も遅く常に海水が甲板を洗う状態でした。
 積載貨物の搭載責任者は一等航海士です。その責任の重大さは経験のない人にはわからないと思います。船倉一杯に材木を積み、ハッチを閉めて海水の入らないようシートを三重に掛け、さらに甲板上にうずたかく積み上げて、最後にワイヤーロープと鎖で荷崩れしないように完全に固縛します。船にはそれぞれ能力に応じた満載喫水線が定めてありますが、これに従った状態で『GM』(重力による中心点重心Gと浮力の中心点浮心M)の釣り合いをみて、安全を保ちつついかに多く積載するかが、1等航海士の腕の見せ所です。デリック・ブーム(船の起重機)で材木を吊り上げたときの船体の傾斜と横揺れ周期で判断するのです。航海の終わりには二重底の船体最下部の燃料・飲料水が減ってきて重心が高くなるので、そのことも考えておく必要があります。これが鋼材の場合は、木材と違って重心が極端に低くなります。その場合は復元力は強いのですが横揺れが大きいです。千葉から兵庫に鋼材を運んだ際には、操舵室の海図が横に飛んだり、操舵室の窓が激しく開閉する始末で、船内生活が非常に不愉快になりました。搭載貨物と船倉の位置、船の状態等を種々考えて最良の積みつけ作業をすることが航海士の仕事です。航海中の針路保持にも大きく関係しますから、航海士の責任は重いのです。
 1等航海士として硫酸専用船で空船で、下関(しものせき)から青森県八戸(はちのへ)へ航海していた時でした。伊豆(いず)半島石廊崎(いろうざき)と御子元島(みこもとじま)を抜け、房総(ぼうそう)半島野島崎(のじまざき)に向け航行中、『低気圧が進行しつつあり。』とのラジオ放送を聞いていた二等航海士から、航海当直を交代したときに『チョッサー(チーフオフィサー〔一等航海士〕の日本風発音)、低気圧が来ているが今のうちにどこかに避難しては。』と心配顔で申し送りがありました。船長に進言するように言い、船長が操舵室に来られたのですがそのまま進航することとなりました。勝浦(かつうら)沖(千葉県)に来たころは強風で、船体は木の葉のごとく翻弄され。漆黒(しっこく)の闇となり見えていた野島崎灯台の光も見えなくなりました。液体式の羅針盤も左右に大きくふれ、針路を確実に定める役には立たず、はてはレーダーが故障して現在の位置も測定できなくなる始末でした。
 船長に『風浪に逆らう方向は無理です。千葉の港も危ない。レーダーの修理も考え横浜港に退避しましょう。』と進言しました。しかし現在地がわからない。推測航法(それまでの進路と速力・航走時間で位置を割り出す)で、房総半島沖の向岸流(岸に向かう流れ)に配慮し、三浦(みうら)半島城ヶ島(じょうがしま)付近への方向に進行しました。『とにかく灯台の明かりを見つけろ』と指示しました。灯台ごとに光りの明滅に特徴があるからです。やがて前方を注視していた一人がわずかに光を発見し、次第に鮮明に見えてきた光を海図上に探し、城ヶ島の灯台と確認しました。海図上に本船の位置を記入し進路を割り出して何とか横浜港に退避できました。気がつくと機関室を除く乗務員全員操舵室に来ていました。私は12時間連続立ったまま当直を続けていたようです。そのときは全員疲労困憊の状態でした。現在は各種航海機器も正確ですからそれほど心配がないと思いますが、いざというときのためにも先輩たちが練達してきた訓練の大切さを忘れないで欲しいものです。」   

 ウ 九州と四国を結ぶフェリーの船長として

 「はじめて船長になったのは、昭和48年(1973年)の『わかくさ丸』からです。『わかくさ丸』は532トンの一般客船です。昭和38年(1963年)ころから瀬戸内海航路で一挙に進んだ客船のフェリー化の流れに、九四連絡の航路は乗り遅れておりました。それに対応するため宇和島運輸が昭和40年に新造した『おれんじ』が、43年に濃霧による座礁で沈没するという不運もありました。翌年の昭和49年から960トンのフェリー『おりおん』に船長として乗船しました。船の大型化に伴い、乙種船長の海技免状も取得しました。昭和58年(1983年)に、『うわじま2』2,099トンの初代船長として八幡浜-別府航路に就航し、昭和60年12月退職まで九州と四国間のフェリー航路を担当しました。
 船長の勤務は48時間交替制です。今日の正午に乗船すれば、翌々日の正午までが勤務です。別府航路は夜中の3時に八幡浜に入港して朝5時45分出港用意までがすべてを忘れて睡眠の取れる時間です。船長は船舶運航上の最高責任者ですから、船内各種作業も船長命令で行われますが、運航中に船長が直接甲板で指揮しなければならないのは、船舶が危険なとき、入出港時、狭い水道を航行するとき、濃霧、時化(しけ)のときです。八幡浜-別府間ですと、八幡浜出港後佐島(さしま)に並行するまで、三崎港入港前後、佐田岬沖から佐賀関の大煙突(日鉱製錬佐賀関精錬所、高さ200m)に並行するまでです。特に佐田岬沖は大小船舶の通行が多く緊張の連続です。別府港入港20分前からも指揮を取ります。
 船舶の運航に関しては常に船長が最高責任者です。これまでの自己の積み重ねてきた経験を基礎に細心の注意を払いながら確信と誠意ある行動をとる必要があります。ときに欠航の決断も必要です。定員600名の乗客の生命と財産、乗船船員の人生、会社の資産である船を預かっての仕事であることを忘れることはできません。郷土の先輩が築いてきた宇和島運輸に採用していただき、入社以来37年間の長きにわたり会社の歴史を担い、少なからず郷土に尽力できたことを誇りに思う昨今です。今にして思えば帝国海軍軍人の厳しい訓練と、鹿屋基地から飛び立つ特攻機を見送った思いが、責任ある仕事を完璧にしなければという気持ちに仕向けたのでしょうか。いつも気を張ってやりすぎたのか、50代の初めに異型狭心症になりました。このとき妻が『お父さん十分頑張ってきたから、無理をせずにいつ退職してもいいですよ』と言われてから、その一言で何となく肩の重圧が抜けて退職まで務められたのかと思います。私が船長として乗船勤務中大過なく過ごすことができたのは、共に安全な航海をすべく、おしまず協力してくれた乗船員のみなさまのおかげだと思っています。」

写真1-2-13 八幡浜港入港直前の「あかつき2」

写真1-2-13 八幡浜港入港直前の「あかつき2」

現在の宇和島運輸就航船「あかつき2」2,052トン。八幡浜港。平成19年12月撮影