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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)変わる県境のくらし

 ア 県境を行き交う人々

 「昭和20年代30年代はまだスーパーマーケットがない時代で、余木に2か所、長須に2か所の店(万屋(よろずや))がありました。衣料品は川之江に買いに行きました。香川方面は箕浦を通って豊浜、さらには観音寺まで出ないと店がないので、川之江のほうが近かったからです。
 病気のときは川之江の病院に行きました。現在は香川県の三豊(みとよ)総合病院(昭和26年開設。観音寺市豊浜町)に行くことが多くなっており、川之江や三島でもちょっと難しい病気になれば三豊総合病院にかかります。産婆さんは二名におらず、川之江から来ていました。現在出産は、川之江の四国中央病院か、観音寺の三豊総合病院、香川井下病院(昭和23年開業。観音寺市大野原(おおのはら)町)に行っています。伊予三島の人は新居浜(にいはま)の産婦人科に行っているようです。
 二名には、香川、愛媛両方から嫁入りしています(昭和56年の資料(②)では、川之江の中学生の母親の本籍地は、14%が香川県だった。)。富士紡績があった時代(昭和9~50年)は、そこに勤める女工さんをもらうことも多かったようです。富士紡には他県から若い子がたくさん来ていました。沖縄や鹿児島など九州の人が多かったです。現在70歳前後くらいの人の中には、富士紡の女工さんを嫁にもらった人が多くおります。
 県境にありますが、川之江の方言は香川県とは全然違います。香川県は『そうですか』を『ほうえ』と言いますが、二名ではそんなことは言いません。『のーえ』という新居浜あたりの言葉も使いません。『おまはん(あなた)』という徳島の言葉も川之江では使いません(『川之江市誌(①)』によると、川之江では『そうですか』を『ほうな』・『ほうじゃな』、『あなた』を『あんた』、『おまい』という。)。川之江の太鼓台は、新居浜よりは香川の豊浜あたりの太鼓台とよく似ています。香川県はどこに行っても獅子舞がいますが、愛媛のこのあたりにはそんなにいません。長須の中所(なかじょ)でやっている獅子舞(市指定無形文化財)は香川の影響ではないでしょうか。結婚式のときに配る『おいり』という菓子はこのあたりにもありますが、香川県はもち米で作ったあられ大の粒がたくさん入っています。こっちは米粒を加工したもの(パットライス)だけが多く、ちょっと違います。正月に食べる雑煮に入れる餅(もち)は、香川県はあんこ餅を入れますがそれは二名も同じです。二名は県境にあるので、衣食住が香川県と似た所もあるし、似てない所もあります。
 県境に住んでいて香川県を意識したのは、戦後の食糧難の時代に香川に買出しに行ったことからでしょうか。香川は農業が盛んで食糧がたくさんあったため、着物や何かを持って食べるものと交換に行きました。川之江に製紙工場が多く建つと、香川から大勢働きに来るようになりました。しかし、最近豊浜などに川之江の工場が進出した関係で、香川に働きに行く人が増えています。
 このへんには実業科のある高校がなかった(地元の川之江高等学校は普通科)ため、香川県の多度津(たどつ)工業(香川県立多度津工業高等学校)、観音寺商業(現香川県立観音寺中央高等学校)、三豊工業(香川県立三豊工業高等学校。香川県観音寺市。)に汽車で通う子がたくさんいました。新居浜工業(愛媛県立新居浜工業高等学校)より三豊工業の方が近い距離にあります。三島高校(愛媛県立三島高等学校)の商業科も後でできました(昭和25年設置)。昔のほうが越境して通う数は多かったように思います。このへんには私立高校がないので、上戸学園(香川県三豊市の現香川西高等学校)に通う子もいました。」
 平成17年(2005年)の国勢調査によると、香川県から四国中央市への通学生は9名、逆は188名おり、現在でも県境を越えて香川県に通学する生徒の方が圧倒的に多い。

 イ 香川県へ移動する企業と労働者

 「川之江に富士紡績ができた当時は、二名からもたくさん雇ってもらいました。丸住製紙(大正8年創業。現従業員830名)や大王製紙といった機械漉(す)きの大きな工場ができてからはそこに勤める人が多くなりました。また、中小の製紙工場や紙加工業の工場も次々とできました。二名にこういった企業ができたのは昭和40年代からですが、地元の人をたくさん雇ってくれました。
 川之江の事業所はバブルの時代に香川県の土地を多く購入しました。香川県豊浜あたりの土地が安かったため、小さな業者でも香川県で土地を購入しました。バブルの後、川之江から香川県に相当企業が動いています。県境を越えた所にある新しい工場群は、川之江や三島から行った企業ばかりです。
 長年国道11号のそばに住んでいて感じることは、朝の通勤時間帯に国道を通過する車は、香川からやってくる車の方が多かったのですが、最近香川に向かう車がかなり増えました。」
 
 ウ 枯れた西行松

 「昭和40年ころには砂浜は小さくなり、護岸工事もされてなかったため、強い西風が吹くと波が道路や家の屋根を越えて裏庭まで来ていました。潮水をよくかぶるので、家が早く傷みました。日本瓦(かわら)は潮水に弱いため、スレート瓦を使うようになりました。鉄筋の家も増えました。
 鳥越の県境(写真2-1-3参照)には現在コンビニがありますが、昔はブドウ畑でした。余木崎(よきざき)の海水浴場も今は石がごろごろしていますが昔はきれいな砂浜で、昭和30年代には川之江からの海水浴客でにぎわっていました。香川県には豊浜や観音寺に大きな海水浴場があるので、香川からは来なかったと思います。線路の東の地域には20年以上前に畑を造成して工業団地ができましたが、そこ以外は東へ渡る道がほとんどないため開発されていません。
 自動車の通過客をあてこんだドライブインなどの商売も、地元の人が何軒かやっていましたが、高速道路が通って客が減ったため、つぶれてしまいました。県境を越えた豊浜に道の駅ができ、客が集まっています。ああいう大きなものができると二名あたりの小さな店はやっていけません。二名地区を自動車はみな素通りしています。
 現在は二名でも少子高齢化が進み、65歳以上の年寄りは150人くらいいますが、小学生は24人しかいません。二名地区には子ども太鼓台がありますが、子どもだけでは運行できず、親が助けている状態です。私らが子どものころは盆踊りのときに相撲甚句がありましたが、今はなくなりました。歌を知っていた人が亡くなったため、伝える人がいなくなったのです。亥の子も戦後になくなりました。」
 長須の国道11号沿いに昔、西行松(さいぎょうまつ)(見返りの松)という松があった。根周り12m、樹齢幾百年かわからないかなり大きな木で、一株から3本生えており、道行く人々から親しまれた老木だった。ところが昭和30年(1955年)国道の暗渠(あんきょ)工事の際、道路下に深く張っていた太い根を切り取ってしまったため、3本のうちの道路側の1本が枯死し、続いて昭和41年もう1本が枯死した。残りの1本もいつ枯死、倒壊するかしれないということで、昭和43年(1968年)に切られてしまった(③)。かつて豊かな砂浜と松林のあった県境の町二名の戦後の変貌(へんぼう)を象徴するかのようである。

写真2-1-3 県境(鳥越)

写真2-1-3 県境(鳥越)

四国中央市余木。平成19年6月撮影