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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)急速な都市化②

 土居町に住む**さんは次のように話す。
 「石井地区はほとんど市街化区域になりましたが、土居町だけは市街化区域が少なく、3分の2以上が市街化調整区域です。このため土居町の人口増加率は、石井地区の中では比較的低くなっています(昭和17年と平成17年の人口を比較すると、この63年間で石井地区全体の人口は11.4倍に増加、最高は西石井(にしいしい)町の20.6倍。土居町の増加率は石井地区13町の中では一番低いが、それでも6.2倍に増加。)。土居町に民間の高層マンションがいくつか建設されていますが、これらは既存の住宅地に業者が建てたものです。市の住宅協会が昭和45、46年に建てた土居団地(一戸建て48戸)は、田んぼの中にぽつんと出現しました。あのあたりは元々内川(うちかわ)の遊水(ゆうすい)地域(洪水のときに水量を調節する役割を持った地域)です。南部の新興住宅はほとんどが遊水地域に立地しています(写真2-2-1参照)。」
 石井地区に転入してきた当初、県営東石井団地に住んでいた**さんは次のように話す。
 「県営東石井団地は、昭和37年から3年間かけて建てられましたが、昭和38年から入居が始まり、私は一期生で入居しました。当時の入居者たちは大体20~40歳代の若い人が多く、どの部屋も満杯でした。団地に入居したとき近所に銭湯はなく、立花の銭湯に通いましたが、しばらくして近所に『椿温泉』という銭湯ができました。地元の農家には家に風呂があったため、この銭湯の客は主に団地の住民など転入者だったように思います。その後、星乃岡(ほしのおか)温泉もできました(昭和43年オープン)。団地に浴室はなかったのですが、水しか出ないシャワー室があり、ここに木の浴槽を設置しました。その風呂(ふろ)は練炭でお湯を沸かすもので、私に続いてほかの住民も次々と風呂を設置しました。
 東石井団地周辺は、国道に近く松山市内への通勤にも便利であったため、団地の建設以降次々と宅地化されました。入居した当時、団地の周囲は田畑しかなく、国道33号から団地までの道路は舗装されていませんでした。新聞記者という仕事の関係で転勤が多く、松山を数年間出ては帰ってくるたびに周囲に家が建ち、道路も舗装されていきました。一戸建ての現在の家を建て、東石井団地を出たのは昭和47年ですが、まだ周囲には田んぼが広がっていました。」

 ウ マンモス小学校と分離問題

 戦後のベビーブームの時代に生まれた子どもたちが小学校に入学する昭和30年ころの石井小学校の児童数は1,100人を越えていた(昭和30年1,106人)が、その後減少し、昭和40年(1965年)に978人となる。しかし昭和40年代の都市化にともない児童数は急増し、昭和50年(1975年)の年度末には児童数が2,535人(学級数60)に達し、関西一のマンモス小学校になった。これを解消するため、同51年に市内で2番目の新設校である椿(つばき)小学校(校区は石井地区の古川(ふるかわ)、和泉(いずみ)と余土(よど)地区の市坪(いちつぼ)。児童数1,018人。)が誕生した。しかし、その後も児童数は増加しつづけ、同53年には2,216人に達し、再び県下一のマンモス校になった。同54年に石井東小学校(980人)が、石井小学校2番目の分離校として誕生するが、その後も児童数が増加し続けたため、同63年に石井北小学校(992人)、平成3年に福音(ふくおん)小学校(723人)が新設された。以上5校と、雄郡、たちばな小学校の分離新設校として平成3年に誕生した双葉(ふたば)小学校を合わせて、石井地区の児童は現在六つの小学校に通うようになっている。石井小学校の分離問題で奔走した**さんは次のように話す。
 「石井小学校のPTA会長(昭和43~47年度)を務めていた関係で、椿小学校が分離するときに代表をやりました。当時の石井小学校は児童数が多すぎたため、校舎に収容しきれず、運動場にプレハブの仮設校舎を建てて教室にしていました。このような状況を解決するために、椿小学校ができる5年くらい前から私は分離新設校の建設活動に取り組みました。まだ若かったので、自分の親父くらいの年齢の石井地区各町内会長さんとの交渉は苦労しました。当時は用地買収などの下準備は行政の人間でなく、地元の者がやっていたため、候補地の選定や校区の設定などかなり紛糾しました。その後、石井東小学校や南第二中学校の分離新設のお世話もして走り回っていたため、家業の農業も仕事になりませんでした。
 石井地区全体で何かをやるといっても、昔は石井小学校、石井中学校(南中学校)でまとまっていましたが、現在は小学校が六つ、中学校が四つの校区に分かれており、まとめるのが大変です。校区を越えての通学も可能になったので、天山などは拓南(たくなん)中学校に通う子の方が多くなっています。」
 児童数が最も多かった当時のPTA会長(昭和49~51年度)であった**さんは次のように話す。
 「私がPTA会長のとき、石井小学校は関西一のマンモス小学校でした。昭和50年の運動会は午前は低学年、午後は高学年と2部にわかれて実施せざるをえませんでした。そうしたら保護者の間から非難の声があがり、校長先生も弱っていましたが、PTA会長あいさつのときに、『全校児童が一緒にラジオ体操もできないようでは、とても運動会を一緒にはできないでしょう。』と訴え、保護者に納得してもらいました。」

 エ 森松線と国道33号

 伊予鉄道森松(もりまつ)線(営業区間4.4km)は、明治29年(1896年)に開通し、昭和40年(1965年)廃止になるまで約70年にわたり石井地区をはじめ、浮穴(うけな)、砥部地区の住民の足となり営業してきた。昭和29年(1954年)までは蒸気機関車(いわゆる坊っちゃん列車)が運行していたが、この年からディーゼル機関車に代わった。停車駅は石井と森松、立花の3か所で、国道33号にほぼ沿って走っていた。
 道路交通の進展や需要の低迷のため廃止されることになったが、この後森松線沿線の宅地化が急速に進み、人口急増地区になっていったのは皮肉なことであった。昭和40年当時、森松線は1日19往復、平行して走る国道33号の伊予鉄バスの便は1日約90往復、森松線が1時間ごとの運行に対してバスは10分~15分ごとの運行であり、利便性に大きな差があった。森松線の利用者は朝夕の通勤通学の定期旅客がほとんどで、昼間はガラガラの状態であったという。当時、森松線を利用していた約1,100人の客の輸送は、国道33号を走るバスが代行することになった(⑥)。森松線の軌道の一部は建設省に買収されて、昭和48年に国道33号が拡幅され、片側2車線となる用地となった(写真2-2-4参照)。
 森松線と国道33号について**さんは次のように話す。
 「高校は松山中学(現松山東高等学校)に通いました。当時は歩くことが苦にならない時代だったので、歩いて通うこともできたのですが、市内の高校に行くとなったら鉄道で通わないといけないと思い、森松線に乗りました。通学に自転車を使う者はおりませんでした。私の住んでいる土居町は森松駅にも近いのですが、森松駅は浮穴(うけな)地区のため、石井地区の者は石井駅から乗りました。立花(たちばな)駅で降りましたが、市駅(しえき)(松山市駅)まで乗るより立花駅で降りて歩くほうが学校には早く着きました。当時の坊っちゃん列車は馬力がないため、立花と市駅の間にある石手川(いしてがわ)の土手を登るのは大変でした。へたな運転士のときには、『今日はよう上がらせんぞ。』と友達と一緒に、わざわざ冷やかしに行ったこともあります。坊っちゃん列車は普通3、4両編成でしたが、朝晩はもう少し車両を多く繋(つな)いでいたように思います。平地を走るときもスピードは遅く、あるとき学生の一人が車両の側面にぶら下がって格好をつけていたところ、電柱に帽子が触れて落ちたため、飛び降りて拾いに行ったこともありました。朝は満員だったので、学生は連結部分や外に乗ることが多かったです。
 昭和29年にディーゼル車になって車両が大きくなりました(坊っちゃん列車は客車1両の定員が24人、ディーゼル車は1両の定員が75人。)。森松線が廃止になるころにはバスがけっこう走っており、石井駅よりバス停のほうが家から近かったため、よく利用しました。ただこのころには自転車が普及し始めていたため、市内には自転車で行くことが多くなりました。
 戦後しばらくは、荷馬車が国道33号を走っていました。うちの親戚(しんせき)に馬を飼い、若い衆を雇って久万(くま)に通う人がいました。久万へ松山の荷物を運び上げ、久万の産物を降ろしていました。私が小学校のときには、かなりな数の荷馬車が久万に上がっていました。砥部(とべ)からこのへんにかけては、あまり坂がないため、リヤカーを引く人がおり、国道沿いの取扱店に荷物を運んでいました。母の里が砥部だったので、リヤカーの便でよくミカンを送ってくれました。昭和30年代になるとオート三輪が登場しました。最初は角ハンドルでしたが、後に丸ハンドルになりました。
 森松線があるときは、線路により遮断されたため東側に集落は発達しませんでした。廃止されたことにより国道の東側も発展することになりました。」
 また、**さんは次のように話す。
 「国道33号の東に沿って森松線は走り、集落は国道の西に沿って軒を並べていました。国道と線路の間は畑になっていました。現在の国道33号が広くなったのは、森松線とこの畑の部分を取り込んだからです。昭和30年代ころ、国道33号沿いの民家は農家と商家が半々ぐらいだったように思います。石井駅の近くに駅前商店街があったくらいで、国道沿いといってもそんなに家は建っていませんでした。後に国道沿いに進出してくる事業所は、ほとんどが石井地区外の資本で、もともと国道沿いで商売をしていた地元の小さな店はむしろやめてしまうケースが多かったように思います。
 昭和31年に帝人に入社しましたが、最初の2、3年は森松線で市駅まで行き、ここからバス(北吉田(きたよしだ)線)で通勤しました。自転車でも通勤しましたが、半年くらいでエンジンのついた自転車、続いてバイクに乗るようになりました。その後しばらくして中古の軽四輪自動車を買いましたが、当時、自家用車はまだ贅沢(ぜいたく)品で、北土居町の町内に10台もなかったように思います。自家用車を持ったら『あの人は贅沢な、車を持って走り回って。』と陰口をたたかれる時代でした。農家の人は大八車で、今のように軽トラックが普及するのは昭和50年代ころです。
 当時、北土居の半数くらいの農家は、松山市内に下肥を取りに行っていました。大八車に木の桶(おけ)『またご』(40~50リットル)を四つ五つ積み、定期的に決まった場所にもらいに行きました。うちは立花に行きましたが、大街道あたりに行く人は、下肥を満載して石手川の土手を越えるのは大変だったようです。多いときは六つも『またご』を積んでいたので、後ろで押す人がいないと一人で土手は登れません。石手川を越えて下肥をもらいに行くときは、一台の大八車に二人で行くか、二台いっしょに行き、土手を登るときに交替で助け合う必要がありました。」

写真2-2-1 都市化が進む石井地区

写真2-2-1 都市化が進む石井地区

松山市土居町。平成19年11月撮影

写真2-2-4 現在の国道33号椿付近

写真2-2-4 現在の国道33号椿付近

松山市東石井。平成19年11月撮影