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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)昔の交通

 大正3年(1914年)宇和島鉄道(後に国鉄、現JR)により宇和島-近永間に軽便鉄道が開通し、三間にも務田(むでん)と宮野下(みやのした)、中野(なかの)(現二名(ふたな))、大内(おおうち)駅が開設された。大正12年当時1日9往復、宮野下から宇和島までは上り43分、下り49分かかった。下りに時間がかかるのは、光満(みつま)谷の急坂のためである。昭和20年(1945年)に八幡浜(やわたはま)-卯之町(うのまち)間が開通し予讃線が全通したため、三間から松山、高松方面への交通は便利になった。同35年からディーゼル機関車が一部導入され、同43年になると蒸気機関車は姿を消した。昭和36年からは各駅で貨物の取り扱いが廃止されたため、貨物輸送の自動車が増加する。国鉄の再建・合理化が進められるなか、予土線各駅の無人化は同46年から順次行われ、同58年には宮野下駅も無人化された。
 また、明治24年(1891年)に三間-宇和島間に県道が開通し、明治40年(1907年)ころから乗合馬車が宇和島を中心に運行されていた。同44年三間村には馬車が3台、荷馬車9台、自転車が16台あった。当時の自転車はほとんどが輸入品で、約200円もしたという(⑯)(当時巡査の初任給7円)。大正12年宇和島市の四国自動車(後の宇和島自動車)が宇和島-三間-清水(せいずい)(広見町愛治(あいじ)村)間で乗合バスの運行を開始し、三間町でも自動車交通が始まる。昭和9年三間村の農協がトラックを購入したのが村で最初の自動車であった。
 「私は国鉄に勤めていた父親の転勤の関係で、小学校3年生のとき(昭和15年)に三間に転入してきました。生まれたのは松山市です。まだ国鉄が三間まで開通していなかったので、松山から八幡浜までは国鉄、八幡浜から吉田まで船で来たように思います。吉田から宇和島まではバス、宇和島から三間までは軽便鉄道に乗り、やっとたどり着きました。当時三間は本当に田舎でした。松山では学生服に帽子、靴をはき、カバンを持って登校しましたが、三間では帽子をかぶっている子は一人もおらず、みんな風呂敷を持ち、とんぼ草履(ワラ草履)をはいていました。私から見ると異様な格好でしたが、逆に私の格好をみんなが珍しがるので、私の方が気恥ずかしいほどでした。
 私が教職についたのは昭和27年です。最初の赴任地は日振(ひぶり)島でした。当時の日振中学校の修学旅行先は京阪神方面で、船で宇和島に出て鉄道に乗り、宇高(うこう)連絡船経由で行きました。日振島にいたころは、ネズミの被害がひどい時期でした。ネズミを退治し、尻尾一本持っていくと5円くれたように思います。修学旅行の資金にするため、子どもたちは一生懸命ネズミを退治しました。デラ台風(昭和24年、日振島では106名死亡。)で親が亡くなり、漁に出て家を支えなければならない子どもも多かったです。当時は学校に来ない男の子も多く、来る子も夜の漁で疲れているため、授業中寝てしまう場合が多かったです。勉強しなさいと言っても、『どうせわしら網引きだから。』と耳を貸しません。当時私の給料は3,500円くらいでしたが、イワシ漁の景気が良く、網引きに行けば中学生でもけっこういい収入になっていたようでした。
 その後、昭和29年に遊子に転任しました。遊子中学校のときは、宇和島南高校遊子分校にも教えに行きました。分校に教師が二人しかいなかったため要請があったのです。当時遊子への交通は船でしたが、時化(しけ)で船が出ないときは宇和島から遊子まで歩いて帰ったこともあります。農道みたいな道をえんえん歩きましたが、大変な道でした。遊子の後、地元の三間に帰ってきました。」