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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)峠を行き来する人々

 ア 様々な峠の道

 山地に囲まれた三間盆地では、物資を運んだり、人々が行き来するためには峠を越えなければならない。三間から周辺地域に至る峠には、吉田へ通じる十本松峠(標高280m)、宇和島へ通じる窓(まど)ノ峠(とう)(160m)、宇和(うわ)に通じる歯長(はなが)峠(490m)、野村に通じる板ケ谷越(いたがたにごえ)(650m)、広見(愛治(あいじ))へ通じる恵美須坂(えびすざか)(190m)・加町坂(かまちざか)(263m)がある。
 十本松峠は、法華津(ほけづ)山脈から南に伸びる尾根の吉田と三間の分水嶺(ぶんすいれい)に位置し、吉田藩領の三間と吉田をつなぐ重要ルートとして延宝(えんぽう)年間(1672~1680年)に開かれた。三間の人が吉田街道と呼んだこの道は幅員約1mの小道だが、人馬の往来が盛んであった。三間からは年貢米、吉田からは魚介類などが運ばれた。明治以降もこの道は使われたが、大正期に是能(これよし)から南の尾根を越え高串(たかぐし)経由で吉田に至る馬車道が開通したことにより、急速に衰退する(⑭)。峠からは展望が開け、吉田の町や湾がよく見渡せるため、小学生の遠足ルートにもなっていたようだが、現在は雑木が生い茂り、訪れる人もほとんどいなくなっている。
 明治以降、三間と吉田の結びつきが弱まり吉田街道(十本松峠)が衰退していったのに対し、重要性が増したのが窓ノ峠である。もともと窓ノ峠は、宇和島と三間、広見、松野をつなぐ宇和島藩と吉田藩両用の街道の要衝であったが、窓ノ峠から宇和島に至る光満谷の道は狭い悪路であった。明治24年(1891年)に県道が開通し、同30年代の改修を経てやっと面目を一新、同40年には宇和島から務田に乗り合い馬車が運行されるようになった。大正3年宇和島鉄道により宇和島-近永間に軽便鉄道が開通し、窓ノ峠に鉄道トンネルが抜けることになった。現在、窓ノ峠を通る県道は、三間の人々にとって最も重要なルートとなっている(写真2-3-4参照)。
 歯長峠は宇和への入口で、歴史的には戦略上の要衝であった。また、第四十二番札所仏木寺(ぶつもくじ)と四十三番明石寺(めいせきじ)を結ぶ遍路道でもあり、昭和初期まで宇和と三間、宇和島を結ぶ唯一の生活道路であった。峠は大勢の人でにぎわい、茶店もあったという。国鉄が開通する前、宇和の人は「明治から大正時代にかけ、小学校の修学旅行といえば、歯長峠を越えて三間町宮野下まで歩き、ここから坊っちゃん列車に乗り、宇和島へ行くのが通例であった(⑰)。」とあるから、大人も子どももこの峠を越えて行き来していたのである。昭和45年(1970年)に標高400mのところに歯長隧道(ずいどう)(全長423m)ができ、宇和盆地と三間盆地が車道で結ばれることになった。
 板ケ谷越は、明治時代まで三間盆地と野村盆地を結ぶ幹線ルートで、三間の住民は野村街道と呼んでいたが、現在は荒廃している。
 加町坂峠は、三間から広見町愛治(あいじ)地区を経て日吉(ひよし)村に至る道の広見町との境界に位置し、吉田藩の主要街道として発展した。この日吉線は昭和33年に県道小倉(おぐわ)三間線となるが、くねくねと曲がり幅員も狭く住民にとっては難所であった。昭和53年にようやくトンネルが完成し便利になった。
 「宇和島への道は、徒歩の場合、迫目(はざめ)から平駄馬(ひらだば)、新屋敷(しんやしき)に抜ける道もありましたが、ここは荷馬車の通れる道ではありません。吉田への道は、小学校の遠足で是能(これよし)から十本松峠を越えて、吉田の大工(だいく)町に降り、知永(ちなが)まで歩いていったこともあります。昔の書物によると、藩政時代に十本松峠の北に桜(さくら)の峠、七曲(ななまがり)峠というのがあり、古文書には吉田から七曲峠を越えて則(すなわち)の西谷(にしたに)に下りる道があったとあります。この道は『殿様街道』と地元では呼ばれており、けっこう身分の高い侍が通っていたのではないでしょうか。仏木寺というのが大きな目的地でしたし、吉田の街より古くから開けていた立間(たちま)の人々が三間に来るのはやはり十本松峠よりは七曲の峠だったのではないでしょうか。
 三間の人にとって歯長峠を越えて宇和方面に行くことはまれで、宇和島方面との行き来が圧倒的に多かったです。板ヶ谷越は遠足で行ったことがあります。この道は私が学生のころ、野村の人が宇和島に行くときによく利用していました。野村の人は、板ヶ谷越を越えて宮野下まで出て来て、ここで食事をして一服し、汽車に乗りお城下(宇和島)に行っていました。」  
 平成17年の道路交通センサスによると、歯長峠を通る主要地方道宇和三間線(三間町成家(なるいえ))の平日自動車交通量(24時間)は、3,270台、窓ノ峠を通る広見三間宇和島線(宇和島市光満)は9,869台、加町坂を通る県道小倉三間線(三間町音地(おんじ))は1,255台となっており、窓ノ峠を通って三間と宇和島を行き来する自動車が多いことがわかる。
 
 イ 担ぎ屋さん

 「戦後宇和島から魚を持ってきて、農作物、特にお米と交換して帰る『担ぎ屋さん』が多数行き来していました。中には男の人もいましたが、ほとんどが女性でした。私が吉野生(よしのぶ)(松野町)の学校に勤めていたとき、朝早く汽車に乗ると宇和島からの担ぎ屋さんがずらっと座っていました。風呂敷の人もいれば、きちんとした入れ物を持った人もいました。品物は魚が多かったのですが、注文を受けて反物、薬なども運びました。担ぎ屋さんは、宮野下の町中より農村部によく行っていました。昭和40年代にはまだいたように思います。終戦直後の食糧難の時代には、担ぎ屋さんとは別に、宇和島の人が着物などを持って三間にやってきて、米と物々交換していました。当時は配給制で、違法行為(ヤミ米)であるため、警察に見つからないように米を袋に入れ、衣服の下に隠して持ち帰っていました。
 担ぎ屋さんは、特に交通手段をもたない山間部の老人などにとって、生活に必要な食料品などを運んでくれるので、なくてはならない存在でしたが、担ぎ屋さんも高齢化が進み、だんだんいなくなりました。若い人はこういう仕事はしないので後継者がいないのです。(羽藤さんの奥さんが子どものころには、三間で反物などと米を交換し、宇和島に持ち帰って売る担ぎ屋さんもいたという。現在宇和島市内で大きな店を営んでいる人の中にも、かつての担ぎ屋さんがおり、『昔はよく三間に行き、儲(もう)けさせてもらいました。』と話すのを聞いたことがあるという。)」

 ウ 学校へ通った道

 「宇和島中学(現宇和島東高等学校)への通学には鉄道を使いましたが、歩くこともよくありました。当時は荷馬車が行き来しており、乗せてもらったこともあります。下校時、汽車に遅れて駅にいると上級生に殴られるので、よく歩いて帰りました。当時の汽車の時間は間隔が長かったので、歩いて帰っても帰宅時間がそんなに遅くなることはなかったのです。それに友達と歩いて帰るのはけっこう楽しく、苦になりませんでした。バスで宇和島に行った記憶はありません。現在駅は無人化されてしまいましたが、通学用として重要です(写真2-3-5参照)。大人は通勤に自家用車を使います。
 三間では宇和島中学、宇和島高女(現宇和島南中等教育学校)のある宇和島への志向は昔から強いものがあります。三間(宮野下)から宇和島までの通学は、1時間もかかりません。鉄道沿線に住むもので下宿するものはいませんでした。当時は蒸気機関車でしたが、質の悪い石炭を使っていたため、光満から窓ノ峠に上がる急な坂でよく汽車が止まりました。車掌さんに頼まれ降りて汽車を押したことが何回もあります。汽車は朝夕は満員の状態で、後から乗ったら車内には入れず、デッキにいることが多かったです。しかし外にいるとトンネルで煙の直撃を受けるため、息をしばらく止めなければなりませんでした。当時の汽車は4両編成で、1両目が宇和島中学、2両目が他の男子校、3両目が鶴島高女(現宇和島南中等教育学校)、4両目が宇和島高女の生徒がそれぞれ乗っていました。一般客はそれぞれの車両に乗りましたが、時々1両目の入口で、上級生が『すみません、ここは宇和島中学専用なので後ろの客車に行ってください。』と言い、一般客を乗せないことがありました。そういうときは案の定上級生のお説教が始まり、下級生が殴られました。戦時中上級生は厳しかったです。」
 平成12年の国勢調査によると、三間に居住する15歳以上の通学生282名のうち、他の地域に通う生徒は186名、このうち55.9%にあたる104名が宇和島市内の学校に通学している。
 平成19年度三間高校に通う生徒141人のうち三間中学出身は40人、広見中学・松野中学が40人、53人が宇和島市内の中学からである。三間居住の高校生は、宇和島市内の学校に多く通学しているが、逆に地元の三間高校には、宇和島市内や鬼北、松野など周囲の生徒が多く流入している。三間高校では昭和47年以降、三間町内より宇和島市内から通う生徒の方が多くなっている。

 エ 花嫁は峠を越えて

 「都会の人と違い、田舎の人は特に嫁をもらうとき『よそ者』を警戒するところがあります。したがってちょっとした縁があるところから嫁をもらうのが普通でした。結婚に関しては、けっこう土佐との縁があります。古い話ですが、土佐の一条家がここを治めたことがある関係で、一条家の武将の名前が三間にはたくさん残っています。三間から向うに行ったのは知りませんが、土佐(梼原)から三間に嫁いで来た人の話はけっこう多くあります。三間でも成妙地区の人は吉田(立間(たちま))との関係が深いようです。仏木(ぶつもく)寺の信者は、縁日には吉田から大河内(おおかわち)の山越えで必ず来るくらい深い関係があります。そんなことで立間からお嫁さんをもらったり、嫁入りすることが多かったのです。現在は、学校や職場の関係で宇和島との縁が一番多いと思います。しかし元々は、そういった歴史的な縁のある場所との通婚がなされていました。奥の人(愛治、日吉、梼原など)が宮野下に出てきて商売を始めた縁で、子や孫の代になっても奥のほうから嫁をもらうことがよくありました。宮野下は在町(江戸時代、農村地域にありながら一定の商業活動を許された町)だったので、昔から人の流れの中心でした。近永や松丸(まつまる)は宇和島藩の在町ですが、宮野下はもとは宇和島藩、次に吉田藩となり、両方とも深いかかわりがあります。特に吉田とは歴史的に深い関係があります。」

写真2-3-4 窓ノ峠

写真2-3-4 窓ノ峠

宇和島市三間。平成19年12月撮影

写真2-3-5 三間盆地を走る予土線

写真2-3-5 三間盆地を走る予土線

宇和島市三間。平成19年12月撮影