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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)タオルの生産の流れ

 ア 原糸の購入

 「今治の場合、紡績会社から直接原糸を買うということはなく、仕入れ先は大阪の綿糸商でした。しかし大阪で買うということではなく、糸商の今治出張所から購入していたのです。
 原糸そのものは、紡績会社から船で今治の糸商の倉庫へ送られてきているのです。ダンボールができるまでは、ドンゴロス(麻袋)で梱包(こんぽう)したものでした。糸の単位は梱(こうり)といい1梱400ポンド(181.4kg)でした。このように糸が重量取引でしたので、タオル製品も長らく重量を目安としてで取り引きされていたのです。
 タオル屋が注文を受け、あるいは見込みによって生産計画を立て、糸商にA紡績のBという原糸を何月に何梱(こうり)、何月に何梱と注文します。原糸の引き取引ま染色工場に指示を出し、染色工場の車が糸商の倉庫から引き取り、自社で晒(さら)して染めるのです。その後染色工場から、タオル屋の製織工場へと運ばれてきます。」
  
 イ かせ糸の晒しからチーズ晒しに

 「かせ枠からはずした束のかせ糸の時代と木管に糸を円筒状巻いたチーズの時代ではものの動きがまったく違うのです。戦前から戦後にかけ、かせ糸の晒し染めの作業はほとんど手で行っていました。精練、漂白、染色をし、のり付けをして、遠心脱水機で水分を取り、リヤカーなどで干場に運んで、物干し竿に5段くらいかけて、天日で干していました。
 ところが昭和30年代後半になるとチーズ巻きとなり、晒染めの作業効率がよくなり、自動化によって、製品の品質が均一になりました。乾燥も機械乾燥となり、物干場の風景も見られなくなりました。」
 
 ウ 地域全体を活性化させた工程の分業化

 「原糸から製品ができあがるまでには、撚糸(ねんし)、晒染め、織物、裁断、捺染(なせん)、その他さまざまの工程があります(図表3-1-3参照)。今治のタオルの生産形態は多くの工程の分業が大きい特徴となっていたのです。昭和40年代には、人手不足や人件費の上昇のために従来タオル工場内で行われていた諸工程、諸作業の分業化が進んで大きく成長し、日本一になったともいえるのです。
 撚糸については、糸商が運送屋を使って撚糸工場へ運んでおりましたが、その工場もしだいにその数を増やしていったのです。これは製品の高級化・多様化を図り、省力化・コストダウンなどのためだと思われます。また24時間操業でないと採算がとれないことや騒音の問題などから、従来市街地にあったものがしだいに外の農村地帯に移っていったのです。
 また昭和30年代後半から晒染めの工場内で行われていた糸巻きは、糸の使用量が増大するとともに糸巻きの分業化が進み、小さい糸巻き工場がしだいに現れてきました。紡績工場から送られてきた原糸は、晒染めのために、チーズ状にソフト巻きしなければならないのです。糸巻き工程を企業外に移す動きに拍車を掛けたのが労働力不足の深刻化でした。そして晒染め工場の下請けとして、今治周辺の家が副業として、納屋に糸巻き機を数台据え付け、糸巻き工程を分担する光景がより多くみられるようになったのです。
 また昭和30年代の後半から、紋織(模様織り)タオルのほかに、プリントタオルがつくられるようになり、製織工場からプリント工場へ送られプリント後に、後処理工場で跡処理をして、ミシン縫いをし製品となるようなさまざまな工程が、産地内に並存するようになりました。
 これらの分業については、下請けとか主婦の内職とか今治地方の雇用のすそ野の広がりという点ではよかったのです。また企業内での仕事というよりも、地域全体の仕事という意識が生まれ、今治の地域経済のレベルアップを生み出したといえるのです。
 しかし一方では短所として指摘される面もあったのです。各工程が横向きに順次流れてゆく場合もあり、また元のタオルメーカーから各工程へ出て帰り、出て帰りする場合もあり、非常に複雑になっておりました。そのために時間的ロス、労力のロス、品質面のロスが生じるのは否(いな)めなかったのです。またあまりに細かく分散するため、肝心のタオルを作りあげるのだという「もの作りの心」が忘れられがちになるともいわれておりました。これらについての反省から、後になると、集約化への努力が始められるようにもなるのです。」