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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)タオルの商品流通

 ア 製品の取引

 「昭和54年(1979年)の調査ではメーカーと流通業者間で契約をとりかわしている企業が33%、伝票のみのものが49%、なにもないものが18%となっています。契約書をかわす比率は販売先の規模が大きくなればなるほど高くなるのです。
 タオル売買は消費者の段階まできますと、一枚いくらなのですが、タオルメーカーとタオル専業問屋との間では長い間ダースを単位にしており、取引価格はその重量で決められてきたのです。その理由は製品価格に占める原糸代の比率がきわめて高く、その原糸が重量単位で取り引きされてきたからなのです。
 しかし生産者の企画力・技術力などは重量取引であるかぎり、製品の重量を通じてのみ評価されるにすぎないというところに問題があるのです。最終の消費市場では、規格や生産技術水準、品質管理など、製品の重量とは直接結びつかない要素が製品の売れ行きに重要な役割をもっているからです。そこでそれらを正当に評価する売買形態のあり方が検討されるようになったわけです。
 また多数の中小企業からなるタオル業界では、市況安定化への取組として、販売面での取組が検討されてきたのです。一つは共同販売組織であり、もう一つはせり市・交換会です。販売窓口の集約化、製品の買い支え、それによる値崩れ・問屋の買いたたきの防止のため、あるときは工業組合みずから、またあるときは業者の有志の手によって試みられたりしております。」
 
 イ 流通経路

 「昭和30年代になると夏がけタオルの需要が増え、タオル専業問屋以外に新たに寝具商へのルートが開かれました。さらにタオルケットの開発と急成長によって、寝具商の占める比重が大きくなりました。これ以後メーカーと取引先との関係が多様化し、さまざまな販路が開拓されるようになりました。
 またそれまで東京の問屋は大阪の問屋から、タオルを仕入れていたのですが、昭和30年代になると東京の問屋が直接今治のメーカーから仕入れるようになり、東京市場が有望視され大きい結びつきをもつようになりました。東京市場は取引単位も大きく明快で、新暦中心で需要が早く一番魅力的なのです。それに比べて大阪や名古屋の市場は小口取引が多く、値引きなども多く、新暦、旧暦まちまちなので、需要が遅れる傾向がありました。
 昭和40年代に入ると、39年(1964年)のタオル不況の波をかぶった商社や紡績メーカーの影響力が後退し、タオル専業問屋と寝具商の二大ルートがはっきりしてきます。また百貨店卸しが、メーカーの取引先としてはっきりしたものになっていました。さらに量販店の展開、成長によって、量販店と直接取引をするメーカーもみられるようになるのです。百貨店に比べると低価格商品ですが、タオル市場の拡大、つまりタオル製品の普及に一役買っているわけなのです。
 また業界がブランドのライセンスを取り、ギフトショップやスポーツ店へ販路を拡大していったことなども大きいことがらでした。さらにベビー向けのタオルを開発して、メーカーからベビー洋品店へ直接売りこむことなども行われるようになりました。こうして昭和50年代に入ると、ギフトショップ、スポーツ用品店、ブティック、インテリアなどが新たな流通経路として登場してきました。タオル製品を扱う小売店が多様化し、中間卸の排除と消費者二-ズの多様化への対応がみられるようになってくるのです。」

 ウ タオルの運送

 「昭和20年代から30年代前半にかけては、織ったタオルをハトロン紙を敷いて、ダース単位で菰(こも)で包み、筵(むしろ)をかけて荷造りしていたのです。一つの荷が50~100ダースくらいでした。100ダースで20貫(75kg)ですから、一人では担げないほどの重さでした。それを運送屋が取りにきて、今治港から船で大阪へ送っておりました。
 昭和30年代の終わりころから、ダンボールの箱詰めで送るようになりましたが、箱の大きさがばらばらで統一されず、保管にしろ発送にしろ大変でした。大きいものでは1個40kgくらいのダンボール箱もあり、倉庫やトラックに積み上げると下の方はつぶれてしまうのです。バブルのころはギフト商品が多く出ましたが、箱の大きさは多種多様でした。当時今治全体ではケースの種類が1,000を超(こ)えておりました。一つの会社でも40近くのケースを作らねばならず、メーカー独自の考え方で統一することができなかったのです。運賃の基準が木材と同じ容積であったことも関係しているようでした。タオルの運送について、業者はよく『空気を運んでいるようなものだ。』といっておりました。」
 
 エ 輸出入

 「タオルの輸出入をみるときには、タオルケットは除外して数字をみなければなりません。タオルケットは寝装品として、通関上は別の品目になっていたからです。
 昭和30年代についてみますと、アジア・アフリカ・中南米が主で、ほとんどが花や蝶(ちょう)また梅にウグイスの色柄のバスタオルでした。北欧むけは厚手の高級品で、アフリカむけは大半がスフ製品、アジアむけは色の強い高級品でした。アジア・アフリカ市場への輸出がしだいに減少し、内需へと転換する状況がみられます。また昭和37年にはオーストラリア・アメリカ・ヨーロッパへの販路拡大の動きがありました。
 昭和40年代になりますと、総生産量は増加しながら輸出は減少傾向を示すようになるのです。その中で対ソ連むけ貿易が始まり、昭和46年(1971年)には、9億円の輸出があったことが注目されます。全体としてはアメリカをはじめ先進国へ、台湾・香港・韓国などの進出が急で、今治の先進国むけの輸出がしだいに難しくなりつつありました。昭和47年の輸出は全生産量の5~6%となり、昭和48年の変動相場制移行によってタオルの輸出競争力が急激に弱くなってきました。昭和50年代は内需転換が必至となりました。昭和53年(1978年)には輸出比率が全生産高の2%程度となるに至ったのです。
 輸入についてみてみますと、昭和40年代の後半にはいって急増します。昭和45年(1970年)までは3桁(けた)にとどまっていましたが、昭和46年に4桁に上りました。円の切り上げに伴い、中国・台湾・韓国からの輸入が急増しました。昭和47年に2,400 t 輸入され、昭和48年には2.5倍の6,000tが入ってきたのです。さらにこの傾向はとどまらず、昭和54年(1979年)には9,700tの輸入となったわけです。」