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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)伊予鉄道横河原線の電化と躍進

 伊予鉄横河原線は、明治32年(1899年)に開通し、それ以来横河原は東温地方の乗降客や農林水産物の流通拠点になっており、長らく周桑、川内方面と松山市との中継基地として活況を呈していた。しかし昭和29年(1954年)松山~横河原所要39分・22往復となり松山生活圏との密着度が高まったところで、昭和30年代からの高度経済成長は、都市的産業への就業機会を増大せしめ、農村の過疎化を促進させた。さらに道路整備が進むにつれ、道路交通が活性化して貨物はトラックに、乗客はバス・マイカーへと鉄道をはなれ、利用者は減少していった。横河原の商圏が松山市に吸収され、横河原駅周辺の商業活動は沈滞化し、物流の拠点としてのにぎわいはみられなくなっていった。
 「昭和40年(1965年)営業不振の森松線を廃止した伊予鉄道は、赤字を理由に横河原線も平井-横河原間を廃止してバス路線への転換を決めたのです。この決定を厳しく受けとめた横河原駅周辺の住民を中心に存続運動が起こりました。また重信町は開発計画を立て、鉄道電化による積極策に転換するよう要望しましたが、受け入れられませんでした。
 そこで翌41年重信町は[横河原線電化期成同盟会]を結成し、町長が会長となり、電化達成への運動をはじめたのです。9月には伊予鉄道本社前で千数百人の町民大会を開いて、廃止反対・存続さらに電化の要望をしたのです。その間も利用者数の増加を図る鉄道沿線への公営機関や県営住宅団地の誘致計画などが立案され、具体化が推進されていたのです。
 一方国道11号の交通状況が大きく変化し、朝夕のラッシュ時には、市内の出入り口にあたる新立付近で車の渋滞がおびただしく、このまま自動車が増加の一途をたどれば、道路が改修されない限り、道路交通はマヒが予想されるようになってきたのです。
 そこで伊予鉄道が横河原線の電化工事について検討をかさね、人件費が減少するばかりか、利用者の増加をうながし、世人の付託にこたえることが出来るということで、電化に取り組むことになったのです。昭和42年(1967年)6月に松山-平井間、10月に平井-横河原間の工事が完成し、松山-横河原間の直通運転が行われるようになりました。このときから松山-横河原間が30分ごとの運転になりました。電化を契機に住宅開発が進み、重信地区全体は大きく姿を変えてきました。中心部から県庁まで12km、電車でわずか25分の距離にあり、恵まれた地理と穏和な自然条件から、松山市のべッドタウンとして県営住宅をはじめマイホーム団地が進出し、人口が急増するようになりました。
 昭和46年には、松山-横河原間が20分ごとの運転となりました。沿線の公営施設や県営団地また商業施設などで、働き・生活する人々が急増してきたからです。それらの人々のために、牛渕団地前、田窪、愛大医学部南口などの駅が新設されました(写真3-2-2参照)。
 さらに昭和51年に愛媛大学医学部が開設されたことによって、横河原駅の利用者も増え(平成10年に約36万人 昭和40年の1.8倍)通勤客や通学生でにぎわうようになり、駅周辺はマンションなどが建設されるようになったのです。
 また高浜線と横河原線との直通運転が昭和56年に始まり、従来の20分ごとの運転が15分ごとの運転になりました。過去には営業成績不良で改良が後回しにされてきた横河原線が利用者数の最も多い線となったのです。」

写真3-2-2 愛大医学部南口駅

写真3-2-2 愛大医学部南口駅

東温市志津川。平成19年撮影