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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(3)重信学園地区

 ア 教育機関の集中

 伊予鉄横河原線の田窪駅・見奈良駅・愛大医学部南口駅・横河原駅周辺には北吉井幼稚園、北吉井仲よし幼稚園、北吉井小学校、しげのぶ特別支援学校(第一養護学校と第二養護学校が統合された。)、第三養護学校、重信中学校、東温高等学校、国立病院機構愛媛病院付属看護学校、愛媛大学医学部、県立重信清愛園などの教育機関が集中して設置されていた。
 これらの教育機関の敷地面積の合計は564,321m²に及び松山市の愛媛大学、松山商科大学、松山北高校、松山東中学校、東雲小学校などを含む城北文教地区よりも広い(昭和59年段階、以下同じ。)。児童・生徒・学生総数は4,433人職員数は1,766人を数える。愛大医学部付属病院と療養所の一日平均の外来・入院患者は約1,500人といわれるから、ウィークデイの昼間は8,000人に近い人がこの地区で生活していることになる。これらの中には、松山市、川内町などからの通学・通勤者が多数含まれていることはもちろんであるが、重信町の総人口が約2万人であるから、いかに多数の人口がこの地区に集中しているかがよくわかる。
 昭和45年(1970年)から55年にかけての10年間の田窪、見奈良、志津川の人口は3,586人から7,657人に増加している。なかでも医学部を誘致した志津川は1,073人から2,761人と2.6倍の激増をみている。したがってこれらの地区では住宅やマンションの増加が著しく、それと関連してスーパーマーケット、飲食店、食料小売店、銀行などが増設されて、にぎわいを呈している。学園の集中化が地域の経済活動によい影響をもたらしているといえる(③)。


 イ 戦後の県立教育機関の設置状況

 (ア)県立東温高等学校

 「昭和22年(1947年)に温泉郡の東部の三内、川上、北吉井、南吉井、拝志、小野の6か村(東温6か村)で、学校組合が設立され、翌昭和23年に愛媛県立東温高等学校定時制農業科1学科、家庭科1学科として認可されました。そして昭和31年(1956年)に地元の強い要望もあって全日制普通科300名、農業科150名に移管されたのです。
 さらに高度成長期を迎えた昭和43年(1968年)には松山周辺の人口の増加の影響もあって商業科2クラスが設置されました。昭和47年(1972年)には衛生看護科2クラスが併設され、普通科540名、商業科270名、衛生看護科120名の大規模総合高等学校となったのです。昭和53年の生徒の通学状況は、川内町と重信町から287名、松山市から536名、伊予市その他から107名計930名となっていました(現在は1学年普通科240名、商業科80名)。」
 
 (イ)県立養護学校

 「昭和22年(1947年)の学校教育法により養護を必要とする障害児教育が、人権また教育の機会均等上の問題として取り上げられるようになりました。文部省は昭和31年(1956年)公立養護学校整備特別措置法を公布し、その設置を奨励したのです。それをうけて、その設置について準備が進められ、昭和40年(1965年)に重信町田窪に身体不自由児童のための第一養護学校が開設されました。小学部90名でスタートしましたが、昭和41年には寄宿舎が完備され120名となり、新たに60名の中学部が設置されました。さらに昭和49年(1974年)には15名の幼稚部、普通科1学年20名の高等部もできて、幼小中高の一貫教育ができるようになったのです。昭和60年の児童・生徒数は134名、教職員数は109名でした。
 また昭和31年(1956年)に国立療養所内の教職経験者が集まった勉強会「つみきの会」が発足しました。所内で結核の療養生活を送っている児童生徒に健康な生徒と同じように学力をつけてやりたいと願いをもって、父母たちとねばり強い運動を続け、昭和33年に養護学級が北吉井小学校東分校と重信中学校東分校として発足したのです。教員2名と生徒25名の小規模なものでした。
 その後養護学校設置促進協議会が結成され、陳情を繰り返した結果、昭和47年(1972年)4月に療養所児童病棟のすぐ南に、四国最初の病弱・虚弱児童生徒のための第二養護学校が設置されたのです。
 在学中は療養所の小児慢性疾患病棟へ入院し、ここから通学する就学機関で、治癒(ちゆ)回復と同時に出身地の学校に復帰するというのが特色です。
 昭和51年(1976年)には閉回路テレビ設備も完成し、教室での授業風景が病室へも流れてきて、ベッドの病人もマイクで質疑応答ができるようになりました。昭和60年の児童・生徒数は62名、教職員数は37名でした。
 さらに昭和48年(1973年)に前年新設された第二養護学校のすぐ西側に、精神発育の遅滞が著しい児童・生徒の義務教育施設として小学部、中学部が開設されました。児童生徒の能力と特性に応じた教育をして、可能な限りの能力を伸ばし、将来社会生活に参加していくための知識や技能また態度を育てようとするものです。教職員48名と児童・生徒110名でスタートしました。昭和50年(1975年)4月には高等部も新設されました。昭和60年の児童・生徒数は287名、教職員数は172名でした。学校規模では全国最大級で、出身地が全県に及んでいる関係もあって寄宿舎生が204名もおります。また通学して教育を受けることが困難な児童・生徒に対しては、父母の要請を受け、教師が県下各地の家庭や病院を訪ねて、訪問教育を行っているのです。

 ウ 愛媛大学医学部の誘致

 「昭和44年(1969年)に愛媛県の医科大学誘致政策に呼応して、重信町臨時議会で次のような決議がなされました。

 医科大学誘致に関する決議
 『愛媛県は、医科大学の誘致を昭和44年度重要政策としていることに鑑(かんが)み、重信町議会は、国立愛媛療養所を含む周辺の土地を医科大学の最適地と認める。よって当該地に医科大学を誘致し、地方医療の近代化を推進し、もって住民福祉の向上を期する。』

 翌昭和45年5月には伊予市並びに松前町も医大誘致を決議して県に陳情要望したのです。愛媛大学医学部設置期成同盟会が発足し、調査し、審議され、重信町志津川に決定されました。
 その主な理由としては、次の4点があげられます。

   ○ 緑豊かな田園地帯で空気が清澄であること
   ○ 国道11号を媒介として東予と中予の接点にあること
   ○ 既設の国立療養所と研究交流できること
   ○ 道前道後の水利事業によって廃池なった約40,000m²の籠池(かごいけ)を敷地として利用できること

 20万km²に及ぶ広大な用地の買収は難航しましたが、度重なる町理事者の各地区巡回説明と協力要請の努力によって、同年11月関係地主の承諾が得られました。その結果昭和47年(1972年)度の国の予算に国立大学医学部創設準備費として、北海道・山形・愛媛のものが計上されたのです。
 こうして昭和51年(1976年)完成を目途に総額200億円を投じて、近代医学の粋を結集した医学部の建設が進められたのです。校舎・病院以外にも、看護婦宿舎、看護学校寄宿舎、学生寄宿舎などが建設されています。
 附属病院が昭和51年10月に開院しました。開院当初は15診療科・病床数320でしたが、昭和53年7月には第三内科及び脳神経外科を増設して17科(内科3科・精神科神経科・小児科・外科2科・脳神経外科・整形外科・皮膚科・泌尿器科・眼科・耳鼻咽喉科・放射線科・産婦人科・麻酔科・歯科口腔外科)で病床数600床となったのです。
 大学職員・学生、病院職員・患者など居住者、通勤・通学・通院者が膨大な数に上るようになりました。昭和60年(1985年)の学生数は700人、職員数は811人にのぼります。これらの人々と各業務に関係する業者などの日々の動きによって、志津川・横河原周辺の物流や景観が大きく変化してきたのです(例えば昭和50年の重信町の人口は17,622人でしたが、昭和60年には21,380人となっています。)。

写真3-2-3 愛媛大学医学部

写真3-2-3 愛媛大学医学部

東温市志津川。平成19年撮影