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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)材木の運搬

 ア 駄賃持ち

 「この東川では、馬が交通運輸と深いかかわりがあるのです。この東川には、農家が130軒くらいありますが、そこに110頭くらいの馬がいたのです。この馬は農耕には使わず、運搬専門でした。山なので農耕に使うだけの広さがないのです。牛は脚が遅く遠くへはゆけないので、農耕専門でした。戦前の話ですが、高知の池川町の老舗(しにせ)の酒屋の酒米は、愛媛の米を持っていっていたのです。当時私の曾祖父が年貢米のさばきを行っていたので、覚えているのです。馬を八頭連ねて、毎日高知へ酒米を運んでおりました。池川へ行って帰ると日が暮れるのです。馬に鈴を着けて、最初一頭だけ出るのです。しばらく経って、あとの七頭が出発するのです。先行した馬が対向してきた馬に出会ったら、『後から七頭続けてくるから、ここで待っていてほしい。』と頼むのです。馬は総量120kgの物を振り分けに積んでいますから、かなりの幅がいるのです。今の軽四よりずっと大きいので、道のところどころに、馬のよけ場というものが、作られていたのです。
 馬による運搬に従事した人たちを、駄賃持ちというのです。あの三坂馬子歌(三坂越えの物資輸送の際、荷駄を追う馬子たちが歌ったもの)というのは、駄賃持ちを主人公にした歌なのです。私たちは人々の素朴な心象を歌ったものとして、一種の郷愁に似たものを感じていますが、駄賃持ちの人々と、その帰りを待つ家族の気持ちを思うとき、厳しい生活感がにじみ出ているのを感じさせられるのです。駄賃持ちには自分で馬を飼って、餌(えさ)を与えながら、材木の運搬をした人が多かったのです。それが主なる収入源であったのです。そういう個人営業の人以外に、庄屋とか組頭などは5頭も6頭も飼っていて、馬方を雇って、今でいう運送業をしていた人もおりました。
 馬に積む材木の長さは4mでした。その長さですと、道が狭いので馬はあちらこちらで突き当たってしまうのです。そこで馬方は手綱ではなく、材木を持って馬の操縦をしていたのです。日野浦(ひのうら)では、一番長いものは、30尺(9.09m)の足場をつけたことがあります。元口を前にして、前にはあまり出さず、後ろを長くして、後ろを上げたり下げたりして動かすのです。美川でもその辺りは地形がよかったので、そういうことができたのです。他のところでは傾斜地が多く、30尺はむりな話で、後ろがつかえて前向いては動けません。またカーブも曲がれません。木材の積み下ろしにも時間がかかり、常に危険を伴う仕事でした。馬の事故死というアクシデントも珍しいことではなかったようです。現在でも地域に馬頭観音がまつられているところがありますが、これは当時の馬の安全を祈ったものだったのです。
 谷奥というところは道路のそばに土場というところがあり、そこまで大体の道が無理のない勾配で順調に出ており、そこに足場を組んで材木を下ろしておりました。駄賃持ちは山からそこまで木材を運んできて、また引き返して山へ上がってゆくのです。」

 イ 木馬、川流しなど

 「材木の運搬としては駄賃持ち以外に、木馬、川流しなどがありました。
 木馬は馬が使用できないような急坂な道などで使用されました。積み込んだ材木のうち一本だけを前にさしだして、それを頼りに操縦しながら道を下りたのです。すべてが人力でしたから、大変でした。引き縄のようなものを人が肩に通して引っ張ったのです。急な坂道などでは危険ですから木馬の後ろから逆にブレーキをかける必要もあったのです。
 木馬はまた枕木を敷いた林道などでもよく使用されました。枕木の上の木馬が通る筋道が摩擦のためにすべりにくくなるため、重油とかグリスを棒の先につけた布ですりつけてゆくようなことも必要で子どもたちがその作業をする光景もよく見られたものです。
 馬や木馬を使えないような場合は、テンコロという金具を木口に打ち込み、先端の輪になった部分にロープを固定して、引っ張って一本出しをしました。
 昭和30年ころからジゴロという車を、木馬の下に取り付けるようになりました。地面との摩擦が減り、運搬がスムースになりました。一時期木のタイヤをつけていましたがすぐにゴムのタイヤにかわりました。
 面河川は昭和38年(1963年)の面河ダム完成までは水量の多い急流でした。広葉樹林がたくさんあったので、山に保水力あったからです。上の山は、びっしりとブナの林がおおっていたのです。肱川のような人が乗る大きい筏(いかだ)ではありませんでしたが、4~5本の木を縛り付けて、古味(こみ)の辺りまで流しておりました。木が引っかかる所には人が待っていて、鳶口(とびぐち)でパッパッはねたり、引き寄せたりしていたのです。昭和の初めころまでは、伊予鉄道の線路用の枕木は、面河のクリの天然木でした。長さ5尺(151.5m)、幅6寸(約18cm)、厚さ四寸(約12cm)なので、川流しに適していたのです。
 300本単位で面河から御三戸まで川を流し、御三戸で陸揚げされて大八車や馬車で松山まで運んでいたそうです。」