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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(4)情報さまざま

 ア 小走

 「藩政時代に広報の役をしたのが、小走(こばしり)です。庄屋の命を受けて、村の行政、年貢の取り立てなどのいわゆる『お触れ』を広く人々に口伝えで伝えたのです。かつては庄屋の手当が米十俵(721.6リットル)でした。そうして小走の手当が米二俵でしたので、かなり重要視された情報伝達係であったわけです。庄屋が廃止され戸長になっても、小走りの広報伝達の任務は従前どおりでした。
 それが昭和はもちろん平成の現在も続いているのです。戦後は小走といわずに伍長と呼んでおります。地域のまとまりによって大きい組とし、その下に5~10人の小さい単位を三つから四つ作り、伍長を置きます。任命は組長が頼む場合もありますし、小さいグループの中で相談で決める場合もあるのです。戦前私の母が小走をしていましたので、男女にかかわらず務めていたことが分かります。
 組長のもとに役場から連絡がきます。そうすると組長が伍長を呼んで連絡を依頼します。伍長は自分の分担の各戸を廻って口頭で伝えてゆくのです。昭和30年代に有線放送ができて以後、連絡事項は放送で伝えるようになりました。しかし税金を集める仕事は今も伍長がやっているのです。組長のところへ役場から、各戸の納税額が届けられます。それを組長が伍長に渡し、伍長が集めて廻るのです。組内の人が集めに来るわけですから、払わない人はおりません。常に100%完納です。伍長が組長に届け、組長が役場に納めに行くのです。」

 イ 郵便・電話

 「現在は柳谷(やなだに)も面河も美川へ統合してしまいましたが、以前は各旧村に集配特定郵便局があり、事務員2、3人、配達人5、6人がおり、こまめに集配やその他の郵便業務がなされておりました。昭和の後半から合併、統合が進むにつれて、端々の小さい地域はしだいに動脈から遠くなってしまい、郵便物にしても、お金の出し入れにしても、不便になってしまいました。一方では、山間の過疎高齢化の進行に伴い、郵便局員が配達だけでなく、老人に『おじいちゃん、元気かなー。おばあちゃん、元気かなー。』などと声をかけることなども行われるようになっております。
 昭和30年(1955年)ころはあまり電話をとっている家はありませんでした。早くにとった家は大事にし過ぎて、床の間へ電話を置いていたので、なかなか通じないなどということもありました。昭和37年(1962年)ころになると各地域に3~5軒くらい、電話をとるようになりました。しかしいもづるで一つの線に五軒くらいつながっていて、ベルの鳴らし方でどこの電話にかかってきたか、分かるようになっていたのです。ジャーンのときにはAさんとこ、ジャン・ジャン・ジャーンのときにはBさんとこというふうになっていたのです。また各地域に赤電話があって、多くの人は用事があったらそこからかけておりました。」

 ウ 新聞

 「昭和30年くらいまでは地域に販売所がなかったのですが、町から『新聞をとりませんか。』と勧誘に来て承諾すると、郵便屋さんが新聞を持ってきておりました。したがって新聞をとる人の数も少なかったのです。その内Tさんが販売所を始めましたが、山の上や谷の奥など僻遠の所は今まで通り郵便で届けられておりました。当時は配達の人は普通郵便以外に、一人が40~50部くらいの新聞を配っておりました。配達区域が八つありましたから、約400部くらいは配っておりました。
 郵便配達では新聞が届くのは昼ころになります。また第三種郵便物の料金も次々と上がりました。それが新聞代に加算されるわけです。そのため現在も集落の降り口の道ばたに各戸用の新聞受けの棚を作っていて、その奥の人が朝仕事に出るときに新聞をとるようにしているところもあります。」