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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)島の万屋

 「昭和30年代くらいまでは、魚島に10軒、高井神島に2軒くらい商店がありました。どれも万屋(よろずや)みたいなもので、食料品やお菓子も売れば、衣類も売っておりました。当時は醤油(しょうゆ)やソースは計り売りで、今のように容器にいくらと決まって入っているのではなくて、昼御飯になって醤油がなかったら空いた瓶(びん)持って、『一合入れて。』などと言って買いに行ったのです。酒屋なども今でいうヨコイチで、一杯ひっかけていたのです。支払いは通い帳につけて、一定期間に払っておりましたが、盆・暮れなどということではなく、一か月足らずの『ちょい、ちょい借り』なのでした。
 現在は大西商店と天狗丸の2軒だけになってしまい、高井神島の店はなくなってしまいました。人口減少で採算が合わなくなったためです。高井神島の人などは、魚島へ来るのではなく、因島(いんとう)の方へ買い物に行ったりしております。『時間かけて運賃払おて、買い物に行ったりしたら、高い買い物になるじゃないかな。』と言いますと、『いーや、これも楽しみよ。向こうへ行って遊ぶのよ。』などと言います。ショッピングというか、買い物を楽しみに行くわけ、交通の便が良くなったためでもあります。
 昭和30年代までは呉服とか小間物などを担いで配って売っておりました。ちゃーちゃー婆とか高井神島の人などがよく来ておりました。また昭和40年ころまでは布団とか金物などの行商人が来て島の広場や施設などで、品物を展示して売っておりました。陶器などは今の役場の横の広場で面白い台詞(せりふ)で人を集めて、たたき売りのようにしていたのを思い出します。布団や呉服の場合には数人で頼母子(たのもし)講をつくり、月掛け1,000円程度で積み立てをして、年間一人の割合で新調していくことが多かったようです。
 また富山の薬売りは年に2回くらい、盆前と正月前に島の旅館に泊まって、各家を回って薬の入替えと集金をしておりました。それから船でたまに果物例えばナシやミカンなどいろいろ持ってきて、ムギなどと物々交換をしておりました。また船で佃煮などを売りに来て、潮待ちなどで泊まっている間に海苔を採って帰っていったりしておりました。
 また行商ではないけれど、下駄の鼻緒の直しやはまの入れ替え、また鋳掛(いか)け屋などの修理屋さんもよく来ておりました。鋳掛け屋さんは船で来て、今の郵便局の所でテント代わりに大きな笠を立てて直しておりました。」