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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)とにかくやってみようから始まって

 「昭和59年(1984年)6月に〝瀬戸内の時代をつくる〟をテーマに『中島シンポジウム84』が開催されました。これに刺激を受けた中島町商工会青年部の若者が中心となり『村おこし実践大学』というまちづくりグループが生まれました。当初、村おこし実践大学は音楽コンサートで町を活性化できないかと考え、アマチュアバンドによる『サンキュー・マイカントリー・コンサート』を姫(ひめ)ケ浜(はま)で実施しました。しかし、期待したほどの人は集まらず、フラストレーション状態に陥ってしまったのです。では、どうやったら人を集めることができるのかと検討を重ねていたところに愛媛県トライアスロン協会から中島で大会が実施できないかという相談が舞い込んできたのです。しかし、当時の私たちはトライアスロンについては全く知りませんでした。お話しを伺ってみると、『泳いで、自転車をこいで、その後にマラソンをする競技』ということで、正直言ってそんな変った競技に大勢の人が集まるのだろうかと思いましたし、やってみて大丈夫だろうかと感じました。
 村おこし実践大学としては、中島の所得倍増、人口倍増を目指してがんばっていこうと活動していましたし、島が豊かになったら、島を離れていった人たちも帰ってくるだろうと願っていました。だから、こういったことを実現するために中島地域を強くアピールするような宣伝が必要だと考えていました。そこに、トライアスロン協会から『もし中島で開催できれば、四国で初めての開催になる。』という話を聞いて、その言葉に引かれたのです。そういうわけで、とにかくやってみよう、費用も準備もなんとかなるだろうという程度の思いで動き出しました。おかしなもので、後々数百万円単位の費用が必要となってくるわけですが、当時は全くそういったことが抜けていたのです。
 ところが、その年に商工会事務局と教育委員会の担当者が滋賀県の琵琶湖(びわこ)で開催されたトライアスロン大会の視察へ行くと、こちらの想像をこえる分厚い運営マニュアルを関係者からいただいたのです。それをもとに中島大会実施に向けてのシュミレーションをやってみると、大会運営がいかに大変な事業なのかということがわかってきました。そういうわけで、町としても正式に必要な費用を予算化し、準備を進めることになったのです。 
 しかし、実施に向けて大きな問題が起こりました。それは、競技中の道路使用許可でした。所管の警察署に許可を申請したのですが、『公道を時速40km以上のスピードで自転車が走る』ことはとても危険な行為とされ、なかなか許可が出なかったのです。当時はトライアスロンの認知度も低かったからなおさらです。しかし、許可が出なければ大会そのものができませんから商工会青年部をはじめとした代表者たちが座り込み覚悟で警察署に出向いてお願いをしました。私たちも警察署が最も懸念されていた競技中の安全対策について検討を重ね、例えばコースにつながる小さい路地からの飛び出しを防止するために、すべての路地にボランティアスタッフ2名を配置するといった対策を取るなどしてようやく使用許可をいただいたのです。
 多くの課題を乗り越えながら開催した初めての大会でしたが、私たちの地域おこしにかける思いを理解してくださった島内外の様々な立場の関係者の皆様が、私たちを陰に陽に様々な形で御支援くださっていたことを知り、驚くとともにたいへん感謝いたしました。」