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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)印刷業とのかかわり

 ア 15歳の春から

 「私は旧喜多(きた)郡肱川(ひじかわ)町(平成17年に大洲(おおず)市に合併)の出身で、私たちが子どものころは中学校の卒業後はふるさとを離れて都会へ集団就職していくのが当たり前の時代でしたから、私もそうなるものと思っていました。しかし、卒業間近になってそれまで何も言ってなかった父親から本心を打ち明けられ、地元で就職することになりました。そして、知人の紹介で旧五十崎(いかざき)町(平成17年に内子(うちこ)町に合併)にある春永印刷という家族経営の印刷会社に住み込みで働くことになったのです。初めてもらった給料が700円だったことが今でも忘れられません。当時の私はワイシャツ一枚の着たきりスズメのような身なりで生活していましたので新しいのを買おうと商店街の『なにわや呉服店』に行ったのです。ところがワイシャツ1枚の値段が700円だったのです。1か月の仕事をやって、ワイシャツ1枚です。店でワイシャツを受け取った瞬間に、これが私の1か月のすべてなのだと思うと、今のままではだめだと、子ども心ながらつくづく思いました。
 そうして1年が過ぎたころ、知人の紹介で今度は内子町にある芳我印刷に移りました。給料はどーんと上がって月3,000円になりました。私が勤め始めた当時は、昭和30年代の始めで世の中はそれ以前と比べて物資の流通もだんだんと盛んになり、日々の生活も少しずつ良くなってきたころでしたが、実際には多くの人たちの食事や衣服などは、まだまだ質素そのものの時代でした。ところが、『内子の芳我』と言えば、江戸時代から木蝋(もくろう)生産で財をなした豪商の一族ですから、私のような者にとって、1年に1回くらいしか口にできないような料理が、それこそ毎日のように食卓に上ってくるのです。これは驚きでしたし、大人になったら裕福な生活ができるようにならなければいけないと思いました。しかし、勤め始めて2年が経(た)っても給料はまったく上がりませんでした。当時は活字を職人が拾う活版印刷の時代でしたが、この仕事を始めて3年にもなると仕事も覚え、それなりの技術も身についてきていました。ですから、このままではいけないという気持ちが日増しに大きくなっていったのです。
 そんなある日のこと、たまたま目にした新聞で今治(いまばり)市の第一印刷という会社が、松山(まつやま)に支店を出すために社員を募集していることを知りました。そこで、見ず知らずの会社の社長さん宛てでしたが、自分の仕事内容や経験などを思い切って手紙に書いて送ったのです。しばらくすると返事がきて、そこには『今治に来てみなさい。』という社長さんからの言葉と、旅費として3,000円ものお金が同封されていたのです。中学を出て3年くらいの人間が出した手紙を、しかも見ず知らずの相手からのものであったのにもかかわらずですから、これも私にとっては忘れられない出来事となりました。そうして国鉄(現JR)の列車に乗って今治に向かいました。
 今治では社長さんの自宅に住み込みで働くことになりましたが、朝は早いうちから社長さんの広い家の掃除をし、その後は会社の従業員が出勤するまでに工場の印刷機に油を引いて、こまごまとした準備をしていました。冬の寒さは厳しく、水を汲(く)もうと家の外に出ると、桶(おけ)に氷が張っていることもしばしばで、雑巾(ぞうきん)を絞ろうにも冷たくてたまりませんし、早く済ませようと床を急いで拭(ふ)けば、足音が大きくなってしまい、おかみさんから叱(しか)られるといった具合です。そうこうしているうちに半年余りが過ぎ、いよいよ松山支店勤務(昭和34年〔1959年〕7月)がやってきて、私は松山に行くことになりました。私はこの社長さんに心から感謝しています。中学出たての坊主であった私を内子から拾ってくれて、印刷業で身を立てていくために必要な素地をつくってくれた方だったからです。
 松山に出てくると、やはり都会なので生活費は高く、月給は6,000円でしたが下宿代が4,500円で、残りが1,500円でしたから、食べるのがやっとでした。そういう私の状況を見かねて、松山支店の工場長さんが『君は若いのだから、ここよりもっと大手の会社で仕事をしてみてはどうか。』と、セキ印刷(当時の社名は関洋紙店印刷所)を紹介してくれました。そこで、私はセキ印刷に移ったのですが、社員を競争相手の会社に転職させたとして工場長さんは会社を追われてしまうのです。このことを思うととても胸が痛みます。この方も私の人生を支えてくれた大切なお一人です。
 それから6、7年余り勤めましたが、セキ印刷を離れた私を含めて約8人の者が昭和40年(1965年)に明星印刷の設立に参加しました。私は26歳でした。その後私は独立し、昭和44年(1969年)に自宅兼事務所の形で岩井凸版(とっぱん)印刷所を松山市南久米(みなみくめ)に設立しました(図表4-2-5参照)。独立当時はとにかく仕事を求めて名刺を配って回りました。大手の印刷会社からは、下請けをやらないかという話をもらったこともありましたが、私は独立時に大手の下請けにはなるまいと心に決めていたのです。印刷業界にかかわらず、どの業界でも下請けというのは仕事をくれる大手をどんなに努力してもしのげませんし、いいように使われる傾向があるからです。創業してほぼ1年は仕事がほとんどありませんから、苦労しました。独立してやってみると、『はっぴを着て、光る人間(組織の中にあって能力を発揮できるタイプ)』と『男一匹で光る人間(組織の中でなく、自らの才覚でやっていけるタイプ)』がいることがよくわかります。だから、いくら組織の中で優れた実績を挙げていたとしても、いざ独立してみると行き詰まってしまうことは珍しくありません。だからだれでもが独立して、うまくやっていけるわけではないように思います。私たちのように独立してやっている者には、自分に対して個人的な誇りがあり、そういうものがあるか、ないかは重要だと思います。
 独立後の苦労は数年続きましたが、昭和50年(1975年)から松山市内の社交業会の印刷物を手がけるようになり、翌年からは学習塾教材の印刷の仕事も入ってきて、次々と仕事が増えていきました。現在のクリーニング業界の印刷物もそうですが、何かの縁で人と知り合うと、その人から別の人を紹介され、その度ごとに仕事が増えていくのです。年末年始にかけてさばききれないほどの仕事がどーんと入ってきたこともありましたが、そのときは新居浜市の印刷会社を従業員ごと借りきって、正月返上で納期に間に合わせたこともありました。こうして会社は成長を遂げていったのです。」

 イ 年商2年分の借金が降りかかる

 「ところが、人間というのはどうしたものか、かつて月給数千円で勤めていた人間のところに、どんどんお金が入ってくるようになると、生活がしだいに派手になっていきました。それは私にとっては〝おごり〟の始まりでした。しかし、おごった生活は7、8年で終わりました。罰が当たったのです。まず最初に取引先の会社が倒産し、約500万円の売掛金が回収できなくなりました。当時の500万円の価値は今と比べ物になりません(総務省統計局の資料によれば、昭和54年の公務員の初任給は大卒で97,500円。)さらに悪いことは重なり、学習塾教材の印刷を共同で手がけていた会社が倒産し、この会社の連帯保証人となっていた私に、なんと約6,500万円もの借金が降りかかってきたのです。この金額は当時の年商の2年分でした。今の会社の年商が約4億円ですから、今に例えるなら、私の肩に約8億円のもの借金が突然降りかかってきたのです。その事実を知った日、私は市内の中心部から南久米の自宅まで、どこをどう通って帰ってきたのか全く記憶がありません。 
 年商2年分の借金を返済するなんて、これまでのような商売を続けても返せるものではありません。勤め人なら年収の2年分を飲まず食わずで返済しようとしても無理な話だし、人によっては、くしゃんとなってそれこそ死んでしまおうと思うかもしれません。しかし、当時の私には19歳の長男と小学5年生の次男がおり、この子たちの将来を思うと、死んだ気になってがんばるしかないと決意したのです。そして、借金返済のためには松山ではなく、巨大な市場である東京に打って出て勝負するしかないと発想を大転換させました。そして6,500万円の借金も松山という狭い範囲だととてつもないが、東京や大阪という広い範囲で見れば、ひょっとするとたいしたことではないのではないかととらえ直しました。それに松山で商売をして嫌われたら終わりですが、東京で嫌らわれても大阪があるし、大阪がだめなら、東北や九州でやればいいのだと考えました。こうした発想で友人、知人、そして親戚たちを説得しましたが、何のつてもない借金もぶれの人間が、見知らぬ大都会でどうやって取引先を開拓していくのか、さらに営業用の資金をどこから工面するのかと皆、口をそろえて反対しました。」

図表4-2-5 会社の沿革

図表4-2-5 会社の沿革

新日本紙工株式会社ホームページから作成。