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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(2)母として家庭を支えて

 松野町の**さん(昭和5年生まれ)は、家庭を支え、家事、育児から野良仕事まで一生懸命だった母親の生涯を次のように話す。
 「私の母は、父が早く亡くなったため11人の子どもをかかえて苦労しました。昔の農家の女性は、出産ぎりぎりまで野良仕事をしており、母も大きなお腹で野良仕事に出ていました。出産後も七日たつかたたないかでまた野良仕事に出ていました。私は11人兄弟の5番目です。兄弟が多かったため、私の母が末っ子を生んだのと兄嫁が子どもを生んだのが同じ年でした。おじとおいが同級生で、おいがおじを呼び捨てにするので、親は気に入らなかったようです。大家族といっても、上の子は学校を卒業したら就職し、次々と家を出て行くので、大人数の時期がそんなに続いたということではありません。長男は結婚すると『母屋(おもや)』に住み、母や私たちは同じ敷地内の『部屋』(隠居屋)に分かれて住むようになります。ただお盆や正月には全員が家族を連れて集まるため、家の中はごった返しました。兄弟の一番上は母親が19歳のときの子どもで、一番下の11番目が44歳のときの子どもでしたので、兄弟といっても年齢は親子ほどの開き(25歳)がありました。
 当時うちでは蚕を飼っており、母は自分で生糸を紡ぎ、京都に出して着物をつくり、嫁入り道具にしてくれました。これは今でも持っています。夜なべして自分で作った着物を姉妹6人みんなに3枚ずつ持たせて嫁がせてくれたのです。母はそれが使命のようであり、誇りでもあったようです。家には機織り機があり、普段着るものも織っていましたし、家で味噌(みそ)も醤油(しょうゆ)も作っていました。
 母は60歳にもならないうちに亡くなりました。農作業、炊事洗濯から娘の嫁入り衣装まで作り、大変であったと思います。そのせいで体を悪くしたのではないかと思います。母の当時と比べれば、私が主婦になったころには家電品が普及し始め、家事労働の大変さは天と地ほどの違いがありました。母の当時、電気といえば照明の電球くらいしかなかったのです。」と話す。
 また、**さんご自身のことについては、次のように話す。
 「私は実家のある松野町から吉田町に働きに出て、そこで昭和24年に恋愛結婚しました。吉田には10年余りおりましたが、主人が昭和37年に亡くなったため、しばらくして松野に帰ってきました。
 松野では保母として町営の保育園に勤めました。最初は臨時雇いでしたので給料が安く、正職員になってやっと12,400円になりました。当時の少ない給料でどうやって家計をやりくりしたのだろうと今では思います。子どもを養うために外に働きに出たのですが、家電品等の普及で家事労働の手間がかからなくなったからできたのです。母の時代ならとてもやっていけなかったと思います。働きながら2年間で保母の資格も取りました。普通は4年くらいかかるそうですが、早く資格を取るために必死でした。高校生の息子が勉強をしている隣の部屋で、私も毎日1時くらいまで勉強をしました。保母になったのは子どもが好きなのはもちろんですが、数字が苦手なのと、ピアノが弾けたので資格を取るときに有利なのもありました。当時は役場もおおらかで、勤めながら資格を取らせてくれたのです。保母の仕事は8時半からです。当時長男は宇和島の高校に通っていたので、朝早く起きて弁当を作り、送り出してから出勤しました。仕事から帰ったら夕食の準備と洗濯があります。同居している姑は家事が嫌いな人でしたので、私が全部しなければなりませんでした。忙しかったのですが、吉田にいた時の専業主婦時代に比べ、外で仕事をするのは解放感とやりがいがあり、振り返ってみれば楽しい時代でした。
 姑との同居はなかなか難しい面もありました。舅が元軍医さんだったので、礼儀作法とかに厳しい家庭でした。しかし主人が亡くなり私が子どもを抱えて大変になったときに、姑は一緒に松野に来てくれました。姑は年金があったので一人で生活することもできたのですが、孫のために私と同居することを選んだのです。私が働きに出ている時間、姑が子どもの世話をしてくれ、子どもが『ただいま。』と学校から帰ったときに姑がいてくれたので本当に助かりました。
 今は年金もあり、私一人なので生活はやっていけます。子どもも二人とも大学に行かせることができましたし、しんどかったとは全然思いません。私も母からいろいろしてもらったし、私も母として当然のことをしたまでです。
 趣味の俳句をたしなむようになったのは定年退職後です。毎月公民館に集まり、俳句を作り、批評し合っています。私より年上の人ばかりで勉強になることが多く、楽しいひと時です。作った俳句は『広報まつの』や愛媛新聞に投稿しています。
 目の不自由な方々のために、『広報まつの』をテープに吹き込んで配布するボランティアグループにも参加して約15年がたちました。毎月分担して『広報まつの』を2ページずつ朗読してテープに吹き込み、目の不自由な人の家に届け(貸し出し)ています。最初は6人で始めましたが、現在は13人に増えました。最近は松野の昔話や社協便り、各種行政のチラシなども吹き込んで配っています。最高の仲間に恵まれ、楽しく活動をしております。」